第十話 烏巣の空は炎上し、軍は許に凱旋する
郭嘉軍師の書記官として部隊に加わることとなった。兵士たちは皆、袁紹軍から鹵獲した旗や鎧を着こんで変装し、馬には枚を加えさせて声を出させないようにする。夜陰に紛れて出撃し淳于瓊が守る烏巣に向かった。
道中では袁紹軍の偵察部隊などにも遭遇するが「袁将軍が烏巣に増援部隊を出すのだ」などと言うと相手も追及をしない。長い滞陣で疲れているのは向こうも同じのようだ。戦闘を一度もせずに烏巣の敵陣の近くにたどり着く。敵軍約一万の歩兵に対して自軍は合計五千の軽騎兵と重装歩兵。新月を過ぎたばかりの天候晴朗な夜襲日和。自軍から敵陣に向かってのやや強風。奇妙にも全ての条件がこちらに有利であった。敵がようやく夜襲に気が付くも反撃は散発的。味方の歩兵が間合いを詰めてその後ろの弩兵が火矢を敵陣に撃ち込む。夜が白みゆく空に橙色の光の帯が現れ、虹のように放物線を描いて敵陣に注ぎ込まれる有様は戦場に似つかわしくない幻想的な光景であった。
淳于瓊の軍は陣営の外で陣形を整えていた。味方の倍近くはありそうだ。堅く密集した方陣から盛んに矢を放ってくる。冀州軍自慢の弩兵部隊は兵糧守備を任された淳于瓊の増援軍にも編成されているようだ。両翼からは軽装の騎兵が同時に突っ込んきてで矢を放つ。味方の歩兵は盾をかざして防御の構え。横からの射撃で被害も出ているが崩れない。
「淳于瓊、相変わらず堅実だな。袁紹そっくりの奇のない用兵だ。だがこれに耐えられるかな?」
鼓が叩かれて味方の両翼から三角形の錐行の陣を構えた徐晃将軍と楽進校尉が率いる重装騎兵が近衛兵「虎豹騎」を先頭に飛び出す。敵の騎兵隊は味方の斜め前を駆け抜けながら一通りの射撃を行い、弧を描きながら反転して再度の接近と射撃を試みようとしていた。その反転中で速度を落としていた敵に虎豹騎が最大速度でぶつかっていった。最良の間合いであり、この一度の打撃で敵の騎兵隊は粉砕された。敵は数は多くても所詮は予備役でありこちらの最精鋭の敵ではなかったということであった。
淳于瓊の歩兵本体は両翼を失っていてもしばらくは粘り強く踏みとどまっていたが、虎豹騎が戻ってきて両側から射かけると三方向からの攻撃を受けて潰走していった。あとは一方的な虐殺劇の始まりである。こちらからの執拗な火攻めは追い風に乗り、袁紹軍の全ての糧食を焼き尽くしたのであった。糧食を焼かれた袁紹軍の混乱ぶりの報告を受けた殿はさらに攻撃を敢行した。官渡を攻撃していた袁紹の別動隊が曹操軍に降伏して圧がなくなった官渡城からも出撃して袁紹軍を挟撃したため、既に浮足立っていた袁紹の大軍は壊滅し黄河の北に撤退していったのであった。長く、苦しい戦いであったが味方の完全勝利に終わったのである。
許に凱旋した軍は帝への報告を行った後、大規模な祝賀会を行った。趨勢を見守っていた黄河沿いや汝南の豪族たちは再び味方を表明して貢ぎ物や人質を続々と送り込んできていた。それどころか黄河を渡って北側の袁紹に長らくついていた豪族たちにも反乱をおこしてこちら側に投ずる者も出てきているらしい。どんなに苦しくても勝てば勢いが出るし、負けてしまえば状況は真っ逆さま。乱世の怖さを感じる事象であった。
殿は撤退していった袁紹の本陣で多数の書簡を見つけたという。それらの書簡には官渡の軍や許にいた味方からの書簡も多く混ざっていたのだが、殿は中身を確認せずに焼き捨てて全て不問としたという。既に許に戻っていた荀彧様の元にはいつもの書簡箱の中に「許での内通についても基本的には知らぬふりをせよ、重大なものに関してもわしへの報告の有無は一任する」との簡潔な指示があった。
紙一重で勝利した。しかし今後も紙一重で負けないとは限らない。負けた時には雪崩をうって人は離れていく、そういった怖さがあるのが乱世なのだろう。殿はいま生きて従っている者たちを処罰するのではなく、未来のみを見ることにしたのだそうだ。
祝賀会の翌朝、定刻通りに執務室に入るといつもは既に仕事を始めている荀彧様は珍しく窓から冬の晴れた空を見つめていた。拝礼をするとにこやかに拱手で応えてくれた。
「おはようございます、荀彧様。よくお休みになられましたか」
「少し酒が過ぎてしまったようですね」
「あまり風にあたり過ぎると体に障りますので、ほどほどになされては」
「そうですね。ただ、考えてしまったのです。許子遠の言葉について――」
荀彧様の目はいつもどこか憂いを帯びている。いや、でも普段からそういう感じなので「弔問に連れて行くにはうってつけ」などと言われてしまうのであるが。
「そろそろ、天下を取るまでと、取った後の道筋の検討を始めないといけないですね。」
「なるほど」
「袁紹はまだ力を残しています。しかも劉表、孫権、馬騰、張魯、劉璋、士燮などの軍閥がのこっています。一つずつ、着実に倒していくか帰順させる必要があります。少しずつでも領土が広がれば、臣下に与える封土も増えていきます。無理に急速な勝利を求めるのではなく、一歩一歩着実に。負けて滞ると与える封土が無くて困ることになりますから」
「あのときの許攸との話のように、殿は皇帝になって天子を支えるのでしょうか?」
「それはあの弁論のなかでの方便だったのですが、まあ最終手段ではありますね。できれば殿には三公を歴任しながら、あるいは丞相になって頂いて天下を統一し、後進に道を譲って頂く。子桓どのには今から猛勉強を続けて頂かないといけませんね」
嫡子の曹丕どのの教育の話になって荀彧様はニヤリとした。でもそう上手くことは運ぶのだろうか?「人は変わってしまう」という許攸の意見を聞いた後だと不安に思ってしまう。
「ですから貴公にも今回のような良い働きを続けて頂き、子桓どのをはじめとする次世代を導けるよう、頑張ってくださいね。期待していますよ」
ああ、この人を支えていきたい、支えていかねばならない、と改めて思う。清潔で、正義感が強く、真面目、なおかつ厳しく、あくどく、怜悧でもある、そしてどこまでも殿と漢王朝に忠実な、複雑な魅力で詰まった荀彧様についていこうと改めて決意した、初霜の降りた朝であった。
本編完結ですが、エピローグに続きます。もう少しお付き合いいただければ幸いです。