のばらのウタ
「本当に出会ったものに別れは来ない」—谷川俊太郎
「できたぞ洋二! 新作だ!」
病室に慌ただしく入ってきた俺、坂本郁也を、一番左奥のベッドで窓の外にあるのばらの垣根を眺めていた中原洋二は、振り向いて苦笑いで迎えた。
「郁也。病室では静かにしろって」
「そんなこと言ったって、興奮しちゃってよ」
俺は点滴の吊るしてあるスタンドを慎重に脇に除けると、ベッドの横に椅子を持ってきて座った。手には音楽プレイヤーを握っている。
「ほら、さっそく聞いてみてくれ」
「はいはい。わかったから落ち着け」
洋二は音楽プレイヤーに繋がっているヘッドホンを受け取り耳につけた。
「じゃあ、流すぞ」
洋二はヘッドホンに手を当てたまま目を閉じ、聞こえてくる曲に耳を澄ませた。
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中学生のころに音楽の虜になった俺は、高校生になってそれなりにギターが弾けるようになると、すぐに作曲を始めるようになった。
だが、ここで一つ問題が起こった。
歌詞が書けないのだ。
国語のセンスがないのか、そもそも言葉を知らないのか、もしくは全く別の理由か、とにかく言葉が浮かんでこない。何とか絞り出してもあまりに不格好な文字列が並ぶばかりで、とてもじゃないが人に聞かせられるようなものではなかった。
おかげで手元にはインスト曲ばかり。
歌詞を付けたい。でも自分では書けない。
そんな折に出会ったのが、洋二だった。
高校一年の秋、思うように歌詞が書けないことにいら立ちを覚え始めていた頃、俺は偶然洋二の机の上に開きっぱなしにしてあったノートを覗き見た。
そこには、沢山の詩が書かれていた。
最初は「黒歴史ノートかな」くらいの興味で読んでいたのだが、読み進めているうちに、気が付けばその言葉の美しさに魅了されていた。
見つけた。こいつだ。こいつしかいない!
俺はトイレから戻ってきた洋二を無理やり教室から連れ出すと、彼の頭にヘッドホンを被せ、自分の音楽を聞かせた。
洋二は「え? なに? え?」みたいな様子で困惑していたが、しばらくそうして聞かせていると次第におとなしくなっていき、(ただ諦めただけかもしれない)俺の曲に耳を澄ませ始めた。
曲が終わり、俺は洋二の頭からヘッドホンを外すと頭を下げた。
「こいつに歌詞を書いてくれ! 頼む!」
「……えっと、まずは事情を聴きたいんだけど?」
これが、俺と洋二の出会いだった。
#
洋二は、俺が思っていた以上に変わったやつだった。
自分をさらけ出すことに躊躇いがなく、普通なら恥ずかしいと思って表に出さない感情や考えも、洋二は自然に言葉にすることができた。ともすればクサいと思われそうな言動も多かったが、彼がすると不思議と様になった。
そんな、いい意味で明け透けな洋二の性格は、俺にはとても居心地のいいものだった。
多分、似た者同士だったのだろう。
洋二の方も、すぐに俺の曲を好きになってくれた。
洋二の書く歌詞は、まるで歌詞に後から曲を付けたかのように、不思議と曲にぴったりと馴染んだ。
俺たちは曲をいくつも書き上げると、それらを次々にネットに投稿した。
自分の曲に、最高の歌詞が付き、それを聞いてもらえる。それが嬉しくてたまらなかった。
このままこいつと音楽を続けていけば、きっとどこまでも高みへ行くことができる。
そう確信していた。
高三の四月、洋二が若年性の大腸癌で倒れるまでは。
#
聞き終わり、洋二が目を開ける。俺は洋二の顔をじっと見つめて、彼の感想を待った。
「どうだ?」
「……うん。すごくいいと思う」
洋二は瞼を伏せ、噛み締めるように言った。
「だろ? 自信作だ」
洋二はしばらく何か考え事をするようにシーツに視線を落とす。そして顔を上げると、真剣な表情で俺の顔を見据えた。
「なあ、この曲、自分で歌詞を書いてみないか?」
思いがけない提案に俺は目を丸くした。
「なんでだ?」
「わかってるだろ? 俺は多分もう先が長くない。いつまでも俺が書くわけにもいかないんだ」
洋二は俺の目を真剣に見つめ、諭すような口調でそう言った。そんな洋二の態度が、まるで死を受け入れているように見えて、俺は強く言い返した。
「馬鹿言うな。死ぬわけないだろ」
「わかってくれよ」
「わからない」
「頑なだな」
「そっちこそ」
じっと睨み合う。やがて洋二が大きなため息をついて頭を掻いた。
「じゃあ、言い方を変えよう。この曲の歌詞は俺には書けない。俺が書いても意味ないんだ」
「?」
洋二の言っている意味が俺には分からなかった。意味がないとはどういうことだ?
「いいからお前が書け。ヒントはやるから。俺に酷なことをさせないでくれ」
「頼むよ」そう言って洋二は俺の右手を掴んでイヤホンを握らせた。
俺はその手を見下ろす。
骨張った手だった。指先が触れたところから熱を奪うかのように、ひんやりとしている。
その手は否が応でも死を予感させた。
不承不承といった感じで「分かった」と俺は頷いた。
「ああ、わかったよ。書いてやる。すっげえの聞かせてやるから待ってろよ」
「……ああ、楽しみにしてるよ」
洋二はまるでそのまま陽の光に溶けてしまいそうなほど儚げな笑みを浮かべて、そう言った。
#
とは言ったものの、やはり俺には荷が重かった。
とりあえず書店で辞書を一通り揃え、自分の曲を聴きながらふさわしい言葉を探す。だが、並べられた言葉はどうにも要領を得ず、死んだように紙面に佇むばかり。普段作詞の全般を洋二に任せていたためか、まるでどこから手を付けていけばいいか分からなかった。
ああ違う。なんかしっくりこない。やり直し。
そんなことを繰り返し、気が付くと二週間が経っていた。
「どうだ? 順調か?」
「……馬鹿にしてんのか?」
茶化すようにそう訊いてくる洋二を睨み付ける。そんなこと意にも介さない様子で洋二はケラケラと笑った。
くそ、腹立つ。
「……今日は調子が良さそうだな」
「ああ、絶好調だ。おかげさまでな」
「この厨二野郎が」
俺はカバンから洋二に借りていたノートを取り出すと、無造作に洋二に投げつけた。
洋二が自作の詩や自分の好きな言葉を書き写したノートだ。何かの参考になるかと思ったのだが、結局あまり活用できなかった。
「あ、お前! ノートを投げるな!」
「うるせえよ。大体、お前何にも教えてくれないじゃん。ヒントはくれるっつったのに」
「ああ、そうだったな」
わざとらしく今思い出しましたみたいな様子で洋二は渡されたノートをペラペラとめくり、手を止めた。
「『音楽とは空気の詩である』」
「なにそれ?」
「ヒントだよ。ヒント」
「さっぱりわからん。どういう意味だ?」
「自分で考えろ」
「けち」
いつもこうだ。こいつは何かを教える時、決まってその意味までは教えてくれない。洋二曰く、「考えることに価値があるんだ。それに、一から十まで教えるのは下品だろ?」ということらしいのだが、その感覚は俺には理解できなかった。全部教えたほうが手っ取り早いだろうに。
納得できなかったので表情で「次のヒントよこせ」と催促する。それを察した洋二はやれやれといった様子でまたノートをめくる。
「じゃあ、もう一つ。『言葉とはパズルの凹凸。音は光で心は絵』」
「それは誰の言葉なんだ?」
「俺のだよ」
「謎かけかよ」
「近いかもね」
「勘弁してくれ……」
洋二はまた楽しそうに笑う。ひとしきり笑い終えると、ぱたりとノートを閉じて膝の上に置いて窓の外にある青々と茂った野ばらの木に視線を移した。入院当初に咲いていた白い花を見て以来、洋二はこの木をいたく気に入っていた。
「……なあ、郁也」
「なんだよ」
「考えるのをやめないでくれよ。俺はお前のウタが大好きなんだ」
俺にはその時、洋二の言っている言葉の意味は分からなかった。ただ、そう言った洋二の姿はフィルムのように一瞬で脳裏に焼き付き、そしていつまでも剥がれ落ちることはなかった。
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「洋二の葬式に来てくれてありがとね」
「いえ、親友ですから」
高校最後の冬。さっぱりと晴れ渡った二月の昼下がりに、洋二は眠るように死んだ。
一通りの行事が終わると、俺は罪悪感からくる居心地の悪さを感じて、逃げるように葬式会場を後にした。
棺の中で眠る洋二の姿を見ても、なぜか俺の中で彼が死んだという実感がわかなかった。ただ、くりぬかれたようにぽっかりと心の中の何かが抜け落ちて、その穴が気になって仕方がないような、そんな感覚が心を満たしていた。
「曲、聞かせられなかったな」
会場近くの公園に入り、一番近くのベンチに座って一人ごちる。
曲の完成が近づくにつれて日に日に弱っていく洋二の姿を目にするうちに、俺は歌詞を書くことが怖くなった。
まるで、この曲を完成させたら洋二が死んでしまうような、そんな根拠のない癖に、妙に確信めいた思いに駆られて、俺は歌詞を書く手を止めてしまったのだ。
それに対し、洋二は最後までいつも通りを貫き通した。誰よりも死を身近に感じていただろうに、なんてことないという顔をしながら最後まで弱音一つ吐くことなく、誰よりも真摯に死と向き合っていた。
彼の強さが一体どこから来たのかは分からない。だが、そんな彼の姿は一層自分の不甲斐なさを際立たせた。
ああ、最低だ。
心の中で自分に悪態をつく。
空はうんざりするほどに晴れ渡っているのに、空気は凍えるほどに冷たかった。
「そういえば、前にこの公園に洋二と来たことがあったな……」
場所も確かこのベンチだったはずだ。
俺は、そんなに昔ではないのにやけに懐かしく感じるその記憶を手繰り寄せた。
#
「洋二はなんで詩が好きなんだ?」
高一の冬。俺が八曲目の曲を作り上げ、洋二がその歌詞を考えていた頃。気分転換がしたいと洋二が言い出して通学路にあったこの公園を訪れた。
「ん? そうだなぁ。まぁ、俺が好きなのは詩っていうより、言葉なんだけど」
洋二は少しの間目を伏せてから、口を開いた。
「言葉ってさ、それ自体は空っぽなんだよ」
「空っぽ?」
「そう。空っぽ。何の意味もないただの死体」
解るような、解らないような、そんな心持の郁也を他所に、洋二は嬉々として語る。
「だけど、人に読まれたとき、話されたとき。音になった瞬間、その言葉は読み手の心を魂にして蘇るんだ。たとえその言葉を作った人が死んでも、何度でも何度でもね。それってすごいことだと俺は思うんだ」
「なんだか難しい話だな」
「そのうち分かるよ。音楽は心を持った音だから。作曲を続けている限りいつか必ずね」
#
「ああ、よかった。ここにいたのね?」
不意に声をかけられ、現実に引き戻される。
正面に洋二の母親が立っていた。
「気づいたら居なかったから、探しちゃった」
「すいません。少し一人になりたくて」
「いいのよ。気持ちはよくわかるわ」
洋二の母親は切なげに微笑む。空元気でもこうして微笑むことのできる彼女の強さは、否が応にも洋二のことを思い起こさせて俺をさらに憂鬱な気持ちにさせた。
「これ、渡してくれって頼まれたの」
そう言って彼女が差し出したのは「詩集」と書かれた洋二のノートだった。
「俺が貰っていいんですか?」
「いいのよ。これは郁也くんに必要だって、洋二が言ってたから」
「……ありがとうございます」
ノートを受け取ると、俺は何気なく表紙をめくった。
「あれ?」
表紙の裏に一遍の詩が書かれていた。前にノートを借りた時には書かれていなかった詩だ。
俺は、タイトルのないその詩を指でなぞりながら辿っていった。
窓の外にはのばらがあった
花のつかないのばらがあった
僕はそいつを眺めながら、君のウタに耳を澄ます
音の光に目を凝らし、時折カデンツァなど織り交ぜながら、死体をテンポ良く並べていく
さあ、踊れ! さあ、踊れ!
あののばらが咲くころに、僕の体が果てるころに、
君のウタが映えるように!
今まさに、僕の心は宙を舞い、虚空に溶けて音となる
旋律高く色彩放ち、のばらの根元に降り注ぐ
深緑ますます光を纏い、詩情の白は高らかに花開く
きれいに、きれいに、世界を彩る
「……ああ、そうか」
まるでパズルのピースみたいにばらばらだったものが彼の詩で繋ぎ合わさり、一つの絵になるような、そんな心地がした。
洋二の思想が、願いが、覚悟が、この短い詩を通して伝わってくる。
俺は太腿に肘を付き、右手で髪を掻き分けるようにして項垂れた。
洋二の母が、「それと、これを」と言って一枚の手紙を手渡した。
「郁弥へ
いつこの思いを伝えられなくなるかわからないから、こうして手紙に託すよ。
まず最初に、最後まで君と一緒に音楽を作れなくてごめん。
最初に俺たちが話したのはあの教室で音楽を聴かされた時だったね。
あの時はちゃんと言えなかったけど、俺は君の音楽に心の底から感動したんだ。
郁弥、君は瞬間の心を音にする天才だ。
ただ、郁弥の場合それがあまりにも自然にできてしまうから、時々自分でもどんな気持ちを曲に込めているか分かっていない時がある。だからこそ、郁也が本当の意味で曲と向き合えた時、きっと俺の想像もできないような素晴らしいものが出来上がる。俺はそれが楽しみで仕方ないんだ。
最後に、
郁弥、俺と出会ってくれてありがとう。
俺の死んでいた言葉は、君の音楽で命を得たんだ。
どうか、君の歌がずっと途切れることのないように。それだけが俺の願いだよ。
それじゃ、また」
ぽろぽろと、涙があふれてきた。灰色に死んでいた感情が、手紙の文字をなぞる程に息を吹き返していく。
まったく、買被りもいいところだ。身に余るにも程がある。
悲しみ、後悔。だが、そんな思いと同じくらい、あるいはそれ以上の衝動が、俺の中で嵐のように荒れ狂う。
書かなきゃ。俺は書かなければいけない。
洋二は死の直前まで俺のウタを待っていた。いや、今この瞬間だって、きっと――。
「すみません。用事ができたので帰ります。それと、ありがとうございました」
立ち上がってそう言うと、俺はその場から駆け出した。
居ても立ってもいられなかった。
家に着くとすぐにノートパソコンを立ち上げた。
ヘッドホンを付け、曲を流す。
『言葉とはパズルの凹凸。音は光で心は絵』
「今なら、分かる気がするよ」
歌詞を作るときに一番必要なのはセンスのある言い回しでも、辞書でも、ましてや沢山の詩でもない。その奥に潜む心を見通す、その耳こそが大切なのだ。向き合うべきは曲のリズムではなく、そのリズムが奏でる心だったのだ。
何回も、何回も自分の曲を聞き直す。
そうして音で映し出された心に、丁寧に言葉という形を当てはめていった。
#
五月になった。
大学生になって生活も一変し、気が付けば洋二が死んでから三か月も経っていたことに我ながら驚く。
ただまあ、言い訳をするなら、歌詞自体はだいぶ前に完成していた。洋二に聞かせるのならこの季節が一番いいと思ったのだ。
のばらは五月に咲くのだから。
「シチュエーションは大事にしないとな」
空は青く晴れ渡り、爽やかな風が優しく頬を撫でる。
抑えきれない興奮と、切なくも清々しい感情を胸に抱き、今、俺は肩にアコースティックギターをかけて洋二の墓の前に立っていた。
「遅くなって悪かった」
俺は深々と頭を下げた。
「曲、完成したよ。お前が言っていた意味も、俺に歌詞を書かせた理由もようやく分かった。そりゃそうだよな。自分に宛てたレクイエムに、自分で歌詞を付ける奴なんかいない。……やっぱお前は凄いよ。お前には、最初に曲を聞かせたあの瞬間にはもう解っていたんだよな」
かつて、俺のウタを好きだと言ってくれた洋二の顔が脳裏に浮かぶ。懐かしく、愛おしい思い出だ。
「だから、これは答え合わせだ。俺の出した答えが、お前のお眼鏡に適うか」
ギターのネックに手をかけて、すうと深呼吸をした。
「聞いてくれ。『のばらのウタ』」