本はどこいった?<後編>
張り詰めた校舎内に、簡単なチャイムが鳴り響いた。教室内のくぐもった空気が、ほぐされるかのように、日常が戻っていく感じがした。テスト用紙を前に回して俺も周りと同じような安堵の息を吐いたのだろうか、意識せずとも肩が沈んでしまった。
ただ、最後の教科の化学で出てきた問題の答えがあってるかどうか不安で、教科書を見直そうかなんて思っていた。けれど、俺の目論見は失敗するようで、というか、朝から何かしらのアクションがなかったことにちょっと引っかかっていたから、テストが終わったこの瞬間が山場であろうとも思っていたのは本音である。
「たっかせ」
周囲の空気がまだ定まってない状態で、聞きなじんだ、というには少し早すぎる気がするが、抑揚の富んだあの声がクラス中に響きわたった。気持ちは準備していたとはいえ、流石にこのタイミングだと俺も少々戸惑ってしまう。今までクラス内で喋ったことのないやつにクラスのヒロイン候補が意気揚々話しかけに行く、こんなミスマッチなことってあるかよ。
「っせ君、高瀬君。どうでした?恵茉的にはテストは全然でしたけど。朝からずっと我慢してたんですからそこは褒めてほしいんですけど」
いつになく、というか、昨日別れた時との統合性が取れない高めなテンションにうまくマッチができない俺は少し引いてしまう。それと同時に、まだ普段の空気になり切っていない教室内でコレはいささか目立ちすぎていた。
ただ、多分、その空気の読み取りが上手くできないのがこの女子生徒なんだってことは知ってたからそこまでは驚かないけど。
「あ、でも英語。アレはかけましたよ、ディテクティブ。スペルが自信ないですけど、昨日教えてもらったからですかね、ちょっと得ですね」
周りが、特に男子生徒が聞き耳を立てているような、いないような。俺だってそこまで周りに気を配って生きてないから自信がない。それでも、まぁ、この女の子が親しげに話しかけているんだから気になるんだろう。多分、俺ならスゲー気になるし。
「ちょっと、待てって」
手早く机を片付けて席を立つ。どうせなら続きはこんなところでやりたくない。
「待てませんって。あ、それとも部室に行きますか?それはそれでいいですけど。とりあえず先にコレはお返ししようと思ってたんですよ。この本、読書感想文は付けてないですけど、読み始めたら最後、一気にクライマックスまでのめり込みでしたね。恵茉、テストは一夜漬け専門なんですから、このせいで成績落ちたら大問題ですよって、あ、どこ行っちゃうんですか?」
無造作に受け取って自分のバックに入れる。思ったよりも変な音が出て、もしかしたら不良君が怒っているのかもなんて誤解されかねない感じがする。
そんなことも、もっと言えば周りもを気にすることなく話しかけてくる生徒を振り切って、速足で教室を出ていく。周囲のクラスメイトが口を開けたまま、時間停止モノさながらに、動きを止めていた様子が視界に入って、ちょっとげんなりする。
そこまで驚きじゃないでしょ、みんな。
「あ、まってくださいよぉー」
まだ四月のはずなのに廊下でもじんわりと暑さが滲んでいた。それでも教室内とは違って、流れている空気が落ち着いている気がした。
「あぁ、もう。先行かないでくださいよ。恵茉的にも準備が必要なんですから」
歩きながら文具を雑に、あたふたと鞄に突っ込んでいる様子が危なっかしく感じたので歩調を緩めてしまった。
テスト明けということでぬるくなった雰囲気がクラスや廊下だけでなく、旧校舎も包んでいるようだった。吹奏楽部の低いチューニング音が吹き抜けの通路を通り過ぎていく。
いつの間にか俺の前に立って先導していく黒髪の後姿を眺めながら、他愛のない会話を繰り返していたと思う。
薄暗さだけが取り柄の文学部室の扉を勢いよく開けて勢いよく中に入っていく。
「うん、やっぱり部室っていいですよね。恵茉もしょうがないので何か入ろうと思ってたんですけど、ピンとくるものがなくて。文芸部に入部届け出も出してこようかな、と今なら思いますよ」
昨日と同じ位置にパイプ椅子を広げて、軋んだ金属音を楽しんでいる。
「あぁ、そう」
「で、多分ですけど、昨日言っていたこと分かりましたよ。恵茉、夜通しぶっ続けで読破したんですから。ベストセラーになる理由がわかりましたもん、コレはしょうがないですね。泣いちゃいます」
取り出して、本をパラパラとめくる。書かれているのは男の子と女の子と、高校生活を彩る甘い恋愛小説。
「よくわかんないんですけど、本好きだったら、こんな告白はやっぱりキュンとくるんですかね?なんせ、図書委員長と副委員長のラブロマンスにかぶせるなんて、ちょっとカッコつけすぎな気がしませんか?恵茉的にはちょっと微妙な感じがしますけど」
「まぁ、どうなんだろうね」
本を閉じて、突っ伏している女の子の方を見る。黒髪が机にペタリと張り付いて枕代わりに組まれた細い腕が邪魔で顔は見れない。
「これで謎は解けた?」
「むぅ。謎というほどの謎じゃないですよ。もっとドロドロの愛憎劇が広がってるはずだったのに」
「怖っ」
「犯人の動機も分かったし、なんというか、その。マジな気持ちも伝わって来てるし、成功してほしいですね。ここまででミステリーファイル1は終了でもいいかもしれません」
そう言い終わると立ち上がってグッと腕を伸ばし始めた。このまま帰ってしまえば、もう接点は消えてしまうのかもしれない。
上手く言葉が紡げないのはきっと俺も同じなようで、虚しいぐらいに野球部の金属音だけが聞こえていた。
俺が喉の奥から声にならない声を絞り出そうとしたところで、文芸部室がノックされた。
「はい、空いてますよー」
もうこの場所の実権を握っているかのようで、当たり前の顔をして扉を開ける。もう少し、二人で、なんというか、微妙な距離感を埋める作業をしなくちゃいけないはずなのに、なんてちょっと思ってしまっていた。
ゆっくりと扉が開いて、ごめんね、という小さな声と共に図書委員長が入ってきた。
「あら、委員長さん。昨日ぶりですね、どうしたんですか?」
中に入ってきた彼女は昨日と同じように少し落ち着かないような、そんな様子が見て取れた。
「えっと、あの、昨日言ってた本。ちゃんと帰ってきました」
そう言って俺たちに件の図書を見せてくれた。この場所からでもわかるラミネート加工されたそれは間違いなく昨日無くなったものなのだろう。
「そうですか!良かったですね。キチンと戻っているのが一番ですから。それで、えっと、つかぬ事を聞くんですけど、中身、というか。なんか、こう仕掛けというか。ちょっとありませんでした?」
踏み込んでいいのか、踏み込んじゃダメなのか、ギリギリを探るようなそんな対応。いつも通りならもっとガッツリ聞くはずなのにな、なんて思ってしまった。
「それで、その、言いづらいんですけど」
委員長ははっきりとしない感じで下を向いている。
俺は別に犯人扱いされることも、いろいろ咎められることにも抵抗はないから、別に良かったんだけどな、なんて考えていた。
その発想は少し甘かったんだけど。
「ごめんなさい。えっと、キミとはお付き合いできません」
予想だにしていない委員長の言葉にさすがに驚いてしまう。人間って驚きすぎると声がでなくなるみたいだ。
「私、まだキミのことよく知らないし。それに不良みたいな人苦手というか……。だからごめんなさい、それだけです」
「あ、えっと……え?」
「……つまり、高瀬君がフラれてるんですか?」
もう一度短く謝られて、一秒でもこの場に居たくなかったんだろう、そのまま委員長は走っていなくなってしまった。こっちの返事を待たずに。
残された部室の中で二人顔を見合わす。ふわり、と視界の隅でカーテンが風にあおられていた。
「えっと、よく考えてみます?」
「……そうだな」
「昨日、事件が起きて。恵茉が犯人だとにらんだのは高瀬君で、被害者である委員長さんを連れてきて。それで」
「それで、俺は違うけど、多分副委員長が本のストーリーにかぶせた告白をしようなんだと思って」
「で、そう推理したのは良いんですけど、昨日の帰りに高瀬君は確かに否定も何もしてませんからね……」
「名前の書き忘れでもしてんじゃねーか、副委員長クン」
そうかもしれませんね、と一言。
「誤解ですね、コレは解きに行った方が良いのかもしれません。ということで恵茉がちゃんとやっておいてあげますから、じゃ、また明日です。恵茉はなんだかんだ言ってテストで疲れてるんで」
「あぁそう、じゃ俺も……」
「ばいばい、高瀬君!」
俺が顔を上げると既に彼女はいなかった。風のように、なんて変な形容はできないけど、もしかしたら全部妄想だったりして、そんなこと考えて笑ってしまう。一人部室に残された俺は何もすることなく外を眺めていた。
それなりに楽しい高校生活を体験させてもらった気分だぜ、とか柄にもなく思っていてもいいだろうか。
天気は下り坂。厚い灰色の雲が最近ずっと覆っている気がする。勝手に作り出した謎をおってはしゃぐ女の子はあれから部室には来ていない。俺は今日も一人、誰とも話さず高校一年の一日を終える。
いや、別に誰とも話さずってのは嘘だけど。担任の須藤とは定期的に話してるし。
家に置いてあった本を取り出して、部室で読むのがもう日課になってしまっている。今更このムーブを変えるつもりはないけど。
帰るつもりはないけれど、変わってしまうことはあるかもしれない。三分の一も読み切っていない時に小さくドアがノックされた。
戸を叩くなら中にいる人を気遣ってほしいけれど、そのノックにはなんの意味もないようで、即座にドアが開けられる。
「いやー、手間取りましたよ。お久しぶりです、恵茉です。忘れてないですよね」
さっきまでの続きを話すかのように飾らなく飛び出した語調は、きっと友達がいないなんて嘘だろうと思えるほどに、はつらつとしている。
「いろいろお待たせしました。えーと、まずどこから行きましょうか」
「は?え、マジでなに?というかもう来ないと思ってたけど」
「いや、来ますよ。恵茉の一番にできた友達なんですから、高瀬君は。というかそんな口調聞かないでください、恵茉の方が偉いんですよ、多分」
そこそこ大きなぬいぐるみがついたスクールバックにはまた害獣が増えている気がする。その中から一枚のペラ紙を取り出して俺の前に置いた。
「ハイこれ、部室の使用許可証です。須藤先生に当面の顧問になってもらいました、部員はまだ二人だけですけど、これできちんとココは恵茉たちのものになりました。恵茉、そういうのキチンとするんです」
印字された文字は『文芸同好会』と読める。部員、というか同行会員の名前に俺と彼女の名前。
「いや、お前何勝手に」
「分かってますよ、大丈夫です。この文芸同好会ってのは仮の姿です。本当はミステリ研究会ですから、ね、高瀬君。これからも謎を追っていきましょう。もちろん探偵役は恵茉に任せてください」
「それこそ何勝手に」
「あ、あと須藤担任から伝言です。問題児二人が集まってるのは都合がいいけど、問題だけは起こすなって。たばこもNGですって」
吸わねーし。
「今日から精力的に活動していきますから、よろしくお願いしますね」
ここで嫌と言える男子生徒はどのくらいいるんだろうか。多分だけど、俺は彼女の問いに首を縦に振っていたはずだ。
「ということで同好会結成の祝杯でも挙げますか。自販行くのでついてきてくださいよ。恵茉立場上、会長になるんであまり逆らわないでくださいね」
「なにそれ」
「行きますよ」
しぶしぶ、なんてそんなことはない。俺は内心めちゃくちゃ嬉しいハズだ。表には絶対に出せないけれど。
「そういえば、この前誤解解くって言ってたけど」
あぁあれですか、興味がなさそうに呟く。
「呼び止めて多分違いますよ、って言って。その後副委員長さんにきちんとしなさいって言っておしまいです」
「お前に迷惑かけたことになんの?」
「なりませんよ。恵茉が引っ張ってきたのも悪いんですから」
この廊下を二人で歩くのはもう何回目だろうか。数えれば出るけど、多分、これからも増えていくのだろうか。
「それよりも、恵茉的な謎が引っかかってるのがあるんですよね。須藤先生も普通だったんですけど、高瀬君のソレ、校則違反ですよね」
俺のピアスと髪色を指さして尋ねてくる。
「あぁそういえば言ってたな最初に」
「そうです、いろいろうやむやになっちゃたかんですけど何でですか?恵茉的な推理だと弱みを握ってるとか考えたんですけど」
犬走りを抜けて一学年の渡り廊下を横切る。ネタ晴らしでもないけど、なんで許されているのかなんて、というか別に許されてるわけじゃないんだけどな、とは思った。
「弱みなんて握れるわけがねぇじゃん、これだよ」
そう言って壁に掲示されたプリントに目をやった。釣られるように彼女の大きな目も動いて止まる。
「結局、進学校だから。ここまで頭が良かったら許されるんじゃね?」
「え、ちょっと待ってくださいよ。高瀬瑛斗。一位?嘘ですよね、そんな気持ち悪いことなんてあります?……許されてるというか黙認されてるって感じなんですね、きっと」
前回のテスト結果が張り出された掲示板には1番に俺の名前が入っている。ギリ許されているのはこのおかげだろう。普通の高校生活にあるのは謎なんて一つもないんだってことがまた分かっただろうか。
「マジでやめてくださいよ、恵茉、あのテスト散々だったんですから。渡されてた本を読んだせいで、最悪の結果ですよ」
悪態をついてこっちを睨む。興味本位で何位?なんて聞いてしまったのは間違いだったかもしれない。
「……です」
「え、なんて?」
「……恵茉は最下位ですよ」
思わず笑ってしまった。片や不良の好成績者と、可愛い学年最下位レベルの女の子。これほど不釣り合いな2ショットかもしれない。
「噴出さないでください、あーもう。今度マジで勉強教えてほしいですけどね」
「まさか最下位だとは思ってなかったから。ごめん、でもめちゃくちゃ面白いな、それ。恵茉が最下位なんだ」
膨れていた顔が驚きに変わる。
「あれ、いま恵茉のこと恵茉って呼びました?」
「……呼んでないけど」
「絶対呼びましたよ!うわー嬉しいです、コレで本当の友達ですね」
「呼んでないって」
「何恥ずかしがってるんですか~。今日は友達記念日ですね。高校生活の第一歩目です、感動ですよ」
そのまま購買まで走って行ってしまう。
ムカつくけど、今日はマジで記念日かもしれないな。