cent quatre-vingt-cinq 弥生
三月に入って更におかしくなっていく夏絵ちゃんに経理課内の面々は徐々に敬遠、というよりも急激な変貌に戸惑っていらっしゃるみたいなんです。私は同期なのでさすがにそれを表には出せませんが、このところの彼女の勤務態度は腰掛け気分のヤル気無しOLにしか見えないんです。
「弥生さん、少しお時間頂けないかしら?」
口調までお上品になった彼女は毎日のように真っ黄色のブランド服を身に着け、バッグや靴といった小物まで黄色くなっていってるんです。何でそこまで黄色にこだわるの?
「うん、少しだけなら。『ライムライト』にする?」
正月明けに火災があって以来行ってないなぁ、ミカヅキさんのカクテル美味しいから久し振りに飲みたい気分。
「それよりも市駅ビル八階のカフェにしない?」
えっ! あそこ高いよぉ、座席のチャージ料金も取るんだよ。コーヒーだって安いのでも一杯千円ぐらいするから一般職OLの懐にはキツいって。
「あそこ高くない?」
「でも美味しいわよ、たまの贅沢なら良くないかしら?」
「うん。健吾君七時上がりだからそれまでなら」
こんなことが続くのであれば夏絵ちゃんとの付き合い方を考え直した方が良いかも知れません。半年後には専業主婦になる私がこの金銭感覚に付き合うと破産してしまいます。う〜ん、いつになったら元の彼女に戻ってくれるんでしょうか?
就業時間を終えて同期二人で市駅ビルのブルジョワカフェ(そんな店名じゃないけど)に入りました。う〜んこのお店昔電車が動かなくなった時に避難がてら入店したことあるのですが、空いててラッキー! ってお値段知らずに入っちゃってびっくりしたことがあったんです。それ以来このお店苦手で……やっぱり落ち着かない。
「凄く良い香りがするわね」
普通のコーヒーショップと変わらないと思うけど。それなら江戸食品本社ビル一階のカフェの方が良いよぉ。あ〜あそこならテーブルチャージ料金なんて無いし、ここの半額くらいのお値段で美味しいコーヒーが飲めるのにぃ。
「夏絵ちゃん、話って何?」
取り敢えずさっさと話を済ませてさっさと出よう! うん、そうする。
「もう少しゆったりしても良いんじゃないかしら?」
「彼と待ち合わせしてるの、ショッピングモールで」
「そうなのね。それなら……実は私結婚するの」
「ホント? おめでとう」
ありがとう。彼女ははにかんだ表情でそう言いました。
「それでね、四月末で退職するの。月末にはS市に引っ越すから通勤するには遠過ぎるでしょう?」
「そうかな? S市から通勤なさってる方結構いらっしゃるよ」
南部の私鉄は五分に一本ペースの本数があるから片道一時間ちょっとで通えるよ。
「でも実家からのことを考えるとやっぱり遠いわ」
そこ基準だとそうかもね、でも月末に引っ越すって随分と忙しなくないかな?
「時期的に引っ越しラッシュだから業者さん押さえてる?」
「土曜日に見積もりを出して頂く手筈よ」
「退職後にずらした方が気楽だよ、引っ越しって重労働だから」
「でも彼が一日でも早く一緒に暮らしたいって言ってくれているの、私もそうしたいから最近半同棲状態なの」
そうなの? であればJR線で見掛けてもおかしくないのに。
「その割には出会わないね」
「早朝に彼が実家まで送ってくれるの、『ご実家での時間も大切にして』って」
それって仕事終わったらS市の彼の自宅に泊まって、深夜帯とも言える時間に起きて実家に帰ってるってことだよね? 夏絵ちゃんは『彼優しいの』アピールしてるけど、それならそんなタイトなことしないと思うよ。
「夏絵ちゃん」
「何かしら?」
このところちゃんとお顔を見てなかったけど……更に痩せてない? というかやつれてきてるような気がする。そんなじゃいつまで経ってもケアレスミスは防げないよ、だって休めてないじゃない。
「最近、ちゃんと眠れてる?」
「えっ?」
どうしてそんな質問してくるの? 的に驚かれちゃったけど、その感じだと一日二〜三時間睡眠が続いてるんじゃないの?
「夏絵?」
と私たちの会話を遮る男性の声に彼女が嬉しそうに反応しました。パッと見た印象は凄くきちんとされた方だけど個人的には苦手なタイプです。
「お待たせ、今日も家に泊まっていくんだよね?」
「うん」
夏絵ちゃんは仕事では見せない乙女な表情で頷いているけど、一見伺い立ててるようで彼女に選択権を与えない言い回ししてるよね? この人。
「じゃ、行こうか」
「えぇ」
二人は私を無視したまま立ち去られてしまいました。嘘? 誘われたの私なんだけど……放置されてしまった私は、泣く泣く二人分のコーヒー代とテーブルチャージ料金を支払ってお店を出ました。ううぅっ、こんなのに三千円近くの出費って痛すぎる……。
その後健吾君とショッピングモールで待ち合わせたのですが、さっきのモヤモヤがどうにもならなくてついつい彼に愚痴ってしまいました。
「えっ? あんなとこ行ったの?」
「誘われなきゃ行かないよぉ。大して美味しくもないのにぃ」
「痛いなぁそれ。なら今日は飯当番代わる」
やった! とは言っても彼台所に立つの大好きなんですよね。でも嬉しい、せっかくだからお手製ハンバーグお願いしちゃおうかな?
「ホント? なら明日のお風呂掃除は私がする」
「それじゃ意味無いだろ。何が食べたい?」
「ハンバーグ!」
「分かった、買い出し行こう」
私たちは手を繋いで一階の食料品売り場に向けて歩いていると……。
「弥生ちゃーん!」
とちょっと高めの男性の声。誰だろうと思って振り返ると降谷君と安藤さんと知らないカップルさんの四名様がひと塊でいらっしゃいました。
「こんばんは、貴方ちょっと煩いのよ」
と安藤さんが降谷君の肩を叩いています。安藤さんなら健吾君も面識があります。
「しばらく振りですね、そちらの方は彼氏さん?」
「いえ違いま……」
「はいそうで〜す。俺降谷尚之って言います、そっちの二人は後藤慎と武智つかさ」
降谷君は安藤さんの肩を抱いてご満悦なのですが、安藤さんに手の甲を抓られていました。私たちは後藤君と武智さんとご挨拶を交わすと、武智さんが一枚のチラシを広げました。
「実はこれからこのお店に行こうって話してるんだけど、オープン企画で一組五人以上で一人分無料になるんですって」
とチラシの下の方にあるクーポンを指差して説明してくださいます。
「四人で行っても一割引にはなるんだけど、こっちの方がお得じゃない? って話になって。こうしてお会いできたのも何かのご縁ですし、お嫌でなければご一緒しませんか?」
これは嬉しいお誘い、彼は飲み会が大好きなのでニンマリしています。うん、悪いけど今日の分奢って。
「今日は二人分出すよ、それなら良い?」
彼は私のお財布事情を気遣ってお伺いを立てています。
「うん、良いよ」
それくらい良いよ、ここひと月飲み会に行ってないもんね。
「そんなことしなくても良いじゃない、割り算したら三千円にもならないよ。この店『安い上に美味い!』を売りにしてて実際その通りだし」
「それがですね……弥生、さっきのレシート見せて」
私はブルジョワカフェ(そういう店名ではないですが……)のレシートを彼に渡すと、かくかく云々と降谷君に事情説明をしています。因みに夏絵ちゃんのことは実名を出さずに『職場の子』って言っていました。
「何でそこ入ったの? 百円のコーヒーを千円で出す店だよ」
降谷君もご存知だったんだ、私だって自ら入らないよあんな店。
「誘われなきゃ入りませんよぉ」
「それよりも『職場の子』って誰よ? まさか五条じゃないわよね?」
「そのまさかです」
嘘でしょ? 安藤さんは意外そうに目を丸くされています。
「ならこうしようよ、弥生ちゃんを抜いて五で割ればいいじゃない。それでも一人三千円ちょっとで収まると思うよ、併用可能なクーポンもあるし」
武智さんのご意見に私以外の全員が賛同し、予定を変更してオープンしたての居酒屋さんへ行くことになりました。