cent soixante‐seize 弥生
社長は夏絵ちゃんの変貌に危機感を覚えていらっしゃるようです。挙式は十月ですし、少しくらいであれば延長しても問題は無いのですが。ただ健吾君のお仕事がシフト制で就業時間もまちまちなんですよね、それも見越して来月末の退職を決めているので彼との話し合いが先ずは必要です。
「少し時間を頂けますか?」
「あぁもちろんだ。一応今月いっぱいに返事は欲しいが多少は遅れても構わん、こっちの勝手で打診してんだからさ」
「何もそこまでしなくても」
課長は社長の決断に眉をひそめていらっしゃいます。
「悪いが経営者としては後手に回ってらんねぇんだわ」
「それは分かりますが……」
「なら配置する新人をちゃんと育てろ、この際五条は人員に入れるな」
「分かりました、新人育成は東に任せます」
それが良いと思います。菜苗さん(東さん)も元は経理課畑ですし、戻ってからの時間は短いですが新人育成指導員にはうってつけの方です。
「体がキツかったら対応する、考えてみてくんねぇか?」
「分かりました、彼と話し合います」
ん。社長はお膳のお料理に箸を入れられます。さすがに英才教育を受けておられるので、喋り方、ホストスタイルをお止めになると一流の紳士になるのですが……敢えて外していらっしゃるんでしょうね。
「さすがは坊っちゃん」
「うっせぇわ」
と照れ臭そうに悪態を吐いていらっしゃいました。でも社長って結構エリートイケメンなんですけどねぇ……放っておいても誰か彼かはお隣に立ちたがると思うんですが、人類全員恋愛対象を地でいく方なのでそれで引く方も多いんじゃないでしょうか?
何はともあれ夏絵ちゃんの件で少々面倒になってきました。何とか良い風に事が運べば良いのですが。
社長に送って頂いて帰宅したのが午後八時、健吾君は十時上がりなのでまだお仕事中です。深夜帯には向かない内容だから止めておこうかなぁとも思うのですが、あまり悠長にもしていられません。
ブーン、ブーン、ブーン。
何だろう? 私は動きを見せたケータイを掴んで操作するとメール受信の通知でした。誰だろう? と思ったら健吾君、小休憩中みたいです。
【明日休みになった、代わりに明後日が出勤】
彼の職場ではこういったことがままあります。明日がお休みになるのであれば今日話しておいた方が良いような気もします。
【帰ってから話しておきたいことがあるの、聞いてもらっていいかな?】
いきなりよりもワンクッション置いた方が彼の性分には良いので事前に心づもりして頂こう、彼サプライズとか突発的な出来事の対応が苦手なので。
取り敢えず彼の帰り待つことにした私は、先にお風呂に入ることにしました。
「そっか、良いと思うよ」
只今午後十時半、帰宅した健吾君に早速勤務期間延長の話をしてみました。今日は食料品売り場のお弁当の売上が不調だったとかで、そういった時の夕飯はお弁当になるんです。
「そもそもは続けるつもりだったんだから」
「うん、前向きに考えようとは思ってたの」
「式の準備も早めに始めてるし、盆くらいまでなら大丈夫だよ。それにしても五条さんがそんなことになってたなんてね」
そうなんですよね、私がいる間に元の彼女に戻ってほしいなぁと思う今の私。かと言って人って変化する生き物だから変わっていくのは当然だとも思うのですが……今の夏絵ちゃんは決して良い変化をしてる感じがしないと余計なことを思ってしまうんです。
彼との話し合いは穏便に進んだので社長にはなるべく早く返事をしよう、彼が夕飯を済ませてお風呂に入っている間に明日の支度をしておきました。
翌日のうちに社長にはその旨を報告し、七月末日まで海東文具にお世話になります。課長には報告しましたが、他の皆様には辞令公開日となる三月最終週まで機密事項ということになりました。それから何日かは滞りなく過ごせていましたが、Xデーとなる二月最終土曜日に懸念していたことが現実になってしまいました。
「「「おはようございます」」」
JR組の課長と仲谷君とオフィスに入ると他の皆さん何故か慌てていらっしゃいます。
「おはようございます、五条が来てないんです」
休日出勤の遅刻は原則お咎め無しですのでそこまで慌てる必要は無いのですが、普段の年であればもう出勤されていてもおかしくない時間です。
「夏絵さんのケータイ繋がりませぇん!」
えっ? 彼女滅多にケータイの電源落とさないのに。
「メールだけでも入れておきなさい」
「先に入れましたぁ! 普段ならすぐ折り返しがあるのにぃ」
「休日ダイヤだと乗り換えで会うので変だなとは」
と仰っているのは唯一の既婚男性小池さん。彼は夏絵ちゃんと同じ私鉄の普通車をご利用ですので、平日ダイヤだと時間がずれるのですが休日出勤の時だけ一緒に出勤なさるんです。
「この前のこともありましたので早目に入られたのかと思っていました」
「小池が気を揉んでやることないさ、体調不良の可能性もあるから業務をこなしながら連絡を待とう」
課長のひと声でざわついた空気は収まりましたが、皆さんも彼女の状況が気になるみたいで(もちろん私もですが)メールだけ打ってから業務に取り掛かられました。その後社長がオフィスを覗きに来られまして、春香さんから体調不良で休んでいると連絡があったと教えて頂きそれなら仕方が無いかと気を取り直して休日出勤を乗り切ったのですが……。
日曜日は係長、菜苗さん、間中君の三人がさらなる休日出勤をなさって夏絵ちゃんのフォローをされました。他の皆は代休が明けて火曜日に出勤すると、体調不良だったはずの彼女が左手薬指に指輪をはめた上に真っ黄色なワンピースを着て出社されたのでした。
「夏絵さん、本当に体調不良だったんでしょうか?」
仲谷君は午前の勤務から彼女の変貌を怪しんでいます。他の皆さんは何も仰いませんがきっと似たようなことをお考えだと思います。
「もう目がチカチカします、オフィスワークであの黄色は勘弁してください」
私に言わないでよ。
「夏絵さん何があったんですかぁ? あんな黄色滅多に着ないじゃないですかぁ」
私に聞かないでよ。
「三井さん何かご存知無いんですか?」
知ってる訳無いでしょ。
【ご本人に言ってください】
私は業務メールを送り付けてやりましたが……。
仲谷:【無理です】
八木:【無理です】
小池:【無理です】
やっぱりね。
お昼休み、お弁当組の私はさくらちゃんと食堂でお弁当を食べて少し早目にオフィスに戻ると、夏絵ちゃん以外の外食組が既に戻られていました。
「あれ? お早いですね」
皆さんは私を見るなりうわ言みたいなことを呟き始めました。
「黄色い夏絵さんに彼氏が……」
「車も真っ黄色なんですぅ」
「アレ県知事の甥です」
ねぇ、説明する気あるの?
「外で夏絵ちゃんの彼氏を見たのよ。真っ黄色なスポーツカーに乗ってた男と往来でキスしててね」
菜苗さんがようやっとまともな説明をしてくださいます。外でってことはすぐそこでってことよね? 夏絵ちゃん県知事の甥っ子さんとお付き合いしてるの?
「もう映画のヒロイン気分でね、悪いけど見てられなかったわ」
「そりゃあお殿様家系といえば玉の輿ですものぉ。でもどうやって知り合ったんでしょうねぇ?」
「案外そういうのを狙うタイプなんでしょうか?」
それはどうなんでしょうか? そう言えば夏場にミッツさんのお店に乱入された大男もお高いスーツを身に着けてらしたことを思い出しました。これまでの感じだとそうでもないと思うのですが、それを考えると否定はしきれません。
「それくらいにしなさい、もうじき戻ってくるわよ」
水無子さんのひと声で全員がそれぞれのデスクに散って午後の業務の支度をします。それから程なくチャイムが鳴ってお仕事を再開させましたが、事もあろうに夏絵ちゃんは遅刻してオフィスに戻り、遅くなりましたと軽く頭を下げて業務の支度を始めます。
「夏絵、二日連続やらかすと外食禁止令が出るわよ」
「すみません、気を付けます」
水無子さんの窘めに一応は真顔で返事をなさっていましたが、どことなく浮ついていて真面目に聞いていらっしゃらない印象を受けました。