cent soixante‐quinze 弥生
夏絵ちゃんが外部異動を打診された日の夜社長から呼び出しのあった私は、課長と三人でとある高級料亭へ向かいました。社長のお車はさすがブル……コホン、高級感溢れる外国車でこんなに広い普通車に乗ったのは生まれて初めてでしたので、緊張はダブルパンチで心臓に悪いです。
我が社海東文具の役員様方は他所と比べるとフランクで取っつき易いとは思いますが、やはり海東家は財界人のご家系ですので私たち庶民とは違う世界を生きていらっしゃるようです。
「あなたこういう車お好きじゃないでしょう」
課長は同期でいらっしゃるだけあって平然としていらっしゃいます。
「まぁな、けど社長業なんか見栄とハッタリかましてナンボなんだよ。それなりに動きの良い社員を揃えりゃ何とかなるってもんさ」
えっ? そんなので良いんですか?
「仕事のシステムはこっちが作っても運営は社員に任せるもんだ、中途半端に優秀な奴は思い通りにしたがるからあれこれ口出しちゃあ反感買って基盤が揺らぐ。ある程度で口出すんやめて信頼した方が確実に上手くいくってもんなんだよ」
「あなたの場合は面倒臭いだけでしょう」
「必要以上の管理はこっちがしんどいだけだ」
社長は開き直ったかのように仰いました。まだ三十代後半で歳上の社員さんもいらっしゃいますから、そういう方相手に押さえつけるやり方だと色々揉めるんでしょうね。
「ところで社長」
「本題は店に入ってからだ」
「分かりました」
お二人はお店に着くまで世間話をなさっていましたが、私はブルジョワもとい高級感溢れすぎる空間になかなか気持ちが落ち着きを取り戻せませんでした。
今回お邪魔した高級料亭は城址公園のすぐ側にあるので、会社からはそう離れていなくて大体十五分ほどで到着しましたが……あれ? このお店両親が贔屓にしている和食割烹料理店でした。
「海東様、本日のご利用ありがとうございます。早速お部屋へご案内致します」
何かちょっと安心しました。このお店は両親がお付き合いをしていた時に父が母のために見栄を張って予約をして、プロポーズをした場所だと聞きました。それ以降我が家で大きなお祝い事をする時はこのお店を利用させて頂くんです、なので実は去年健吾君との婚約報告もここでさせて頂きました。
「三井様、ご両親様はいかがお過ごしでしょうか?」
「ご無沙汰致しております、両親とも息災にしております」
「左様でございますか、どうか宜しくお伝えくださいませ」
「はい、そのように伝えます」
今回は顔馴染みの従業員さんが接客をなさっているのでさっきまでの緊張がすぅっと落ち着きました。
「何だ三井、この店知ってんのか?」
「はい。父が母にプロポーズした場所なんです」
「うお〜、お父さん頑張ったんだなぁ」
「相当見栄を張ったと聞いてます」
課長は部屋を見回しながら凄ぇなぁと仰ってる。お父さん、職場の上司に妙な尊敬をされてるよ。
「おい四郷、本題に入るぞ」
「はい、五条のことですよね?」
おぅ。社長は食前酒と突き出しをつまんでおられます。
「何故また五条を外部異動リストに? まぁ秘守義務もあるでしょうが」
「何でんなこと知ってんだ?」
まぁ当然の反応ですよね、本来であれば機密事項ですから。
「本人がうわ言のように呟いてました。その場にいた社員には口止めしておきましたが」
「そういうことか。ならいい、九重の推薦だ。アイツに西日本倉庫の異動を打診しててな、そん時に誰連れて行きたいか聞いたんだよ」
そういうことだったんだ。係長と夏絵ちゃんは業務上のパートナーシップを組んでいるので、信頼度が一番高い彼女を推薦したようです。
「それで五条を……」
「他にも候補はいるがそういうこった。打診だけしてみたが予想以上の狼狽えようでな、多分辞退するだろうけど何か変わったこと無いか?」
変わったこと……このところ付き合いも良くないし、ケータイと向き合ってニヤニヤしてたり業務のミスも目立ってる。でもどこまで話していいものなのかの境界線が……。
「このところ業務のミスが酷すぎる」
課長は把握していることを洗いざらいお話するつもりのご様子です。
「そうか、今のところこっちに報告は無いが」
「そりゃそうですよ、俺と九重でフォローしてますので」
「そんなもんしなくていい、今後はてめぇでケツ拭かせろ」
「今は他に響きます、早くても休日出勤明けからですね」
「そんなじゃ休日出勤させない方が捗るんじゃねぇのか?」
「そんな気がしてます」
課長はため息を漏らされました。係長もそうですが、いくら独身だからといってもこうも毎日誰かのミスフォローで残業っていうのはキツいと思うんです。私も気を付けないとなぁ。
「三井、普段の年はどうしてるんだ? 毎年のことだが事前に言ったりとかするのか?」
「はい、誰か彼か初めての社員がおりますので」
今年に限って言えば課長以外は経験済みなので必要無いかも知れません。
「今年は俺だけだな。敢えて告知無しでも問題無いだろ」
「大丈夫だと思います。さすがに五条さんもお忘れにならないかと」
彼女は経理課ひと筋七年ですから、ある意味忘れる方がビックリです。
「今年はそれでいい、忘れたならそれで構わんだろ」
ですねと課長も頷かれます。それにしても夏絵ちゃんの信頼度が一気に転落してしまっているのがちょっと悲しいです、私みたいに鈍臭い人間からすると、何でもそつ無くこなせる彼女は羨望の対象だったりもするんです。
「三井、お前は何か無いのか?」
「そうですねぇ」
う〜ん、特に何もって状況じゃないって社長もお気付きだから私今ここにいるんだよね?
「アイツ男でもできたんじゃねぇのか?」
「その可能性は、あると思います」
「そうなのか?」
課長は意外そうな表情をなさっています、彼女結構モテるんですよ。
「このところ付き合いが悪くなったり、一緒にお昼食べていてもケータイ見てニヤニヤしていたりって感じです」
「なるほどな。男に舵を渡すタイプか」
だとしたらちょっと危険なような気がします、ヘタをすると人格が変わって……こういう場合良い風に変わる方がまれだと思います。
「あの女大学時代に男いたらしくてな、その時期は人格変わっちまって家族放っぽって男んとこに入り浸ってたって」
「それどこ情報ですか?」
きっと春香さんでしょうね。社長は夏絵ちゃん本人とよりも春香さんとの付き合いの方が古いそうなので。
「企業秘密。今回は西日本倉庫経理課のテコ入れ最優先で異動のメンバーを考えてるから、五条が辞退しても本社経理課からもう一人引き抜く予定だ」
「だとしたら仲谷が妥当でしょうね」
「あぁ。そうなると本社の方が人材不足になるから新人と経験者の補充はするが……今の感じだとそれで回せるとは思えねぇ。そこでだ三井、退職時期ちょっと延ばせねぇか?」