cent soixante‐onze
日曜日は一切の外出をせず、明生君宅でまったりと過ごした。昼夜を問わず愛し合い、我が人生において五本……三本の指に入るほどの幸せな一日だった。
そして月曜日、私は彼との別れを惜しみつつS市から直接会社へ向かう。彼は送ると言ってくれたけど、私の方が始業が遅いので残念だけど遠慮させて頂いた。恋人の送り迎えごときで彼の仕事の評価が下がってしまうのは忍びないので、普段滅多に使わない南部の私鉄に乗っている。
月曜日になったばかりなのに早くも週末が恋しくて仕方がない。彼も仕事があるから次に会えるのは金曜日の夜、通話やメールでも話はできるけど、今の私は急性セックス依存症にでもなったのか? ってくらいに彼の温もりが欲しくてたまらない。
そう言えば金曜日の深夜からケータイの電源入れてないな……一人で電車に乗ってても暇だしと電源をオンにする。ちょっとネットニュースでも見ようかな? と画面をタップしようとしたらメールを受信の通知が来た。
「あっ……」
結局姉にメールしてないから心配させちゃったのかな? でも私は来年で三十歳になる大人である。このところ続いてた変男に好かれるという珍事のせいだと思うけど、今は私にはもったいなさ過ぎる素敵な彼氏ができたからもう大丈夫なのに。
メールアプリを起動させて受信してみると……えっ! こんなに! というくらいのおびただしい数のメール。姉から二通、秋都、弥生ちゃん、水無子さん、東さん、睦美ちゃん、係長、仲谷君、間中君……課長からも来てる。それから有砂、部長、安藤、降谷からも、みんな一体どうしたの? 取り敢えず古い順から読んでいこうとまずは降谷からのメールをタップする。
【この前も言ったけど、足跡に未来は無いからな】
ううん、そんなことない。彼との関係は過去の決断が間違っていたんだから。今はお互い素直になれたのだから絶対大丈夫、今度こそ間違えない。降谷のメールをスライドさると有砂からのメール、金曜日の夜に利用している私鉄で人身事故があったってのと、今後明生君との関係はどうするのか? という内容だった。返信は保留してスライド、部長と安藤からのメールは今度改めて飲みに行こうという簡潔な内容だった。
【奇遇よね? 中西君も風邪を引いて欠席だったのよ】
安藤のメールの最後の一文で手が止まる。何日か前に見かけた時にマスクをしていたのを思い出し、今は体調どうなんだろう? と思いを馳せてしまった。私は残っている未読のメールをそっちのけにしててつこ宛の新規メールを作成していた。
【風邪を引いたと聞きました、体調はいかがですか?】
それだけの文面を送信し、残りのメールを……で金曜の深夜に届いた姉からのメールで私は石化レベルに固まってしまった。
【明日休日出勤よね? 二月最終週だから】
嘘ッ! 私はカレンダーアプリを起動させて今月のスケジュールをチェックすると、確かに先週末は二月最終週だった。ヤバい! 決算の最終追い込みで無断欠勤しちゃった! ってことは今日は代休、出勤しても仕方がないのか……どうしよう、変な汗が出てきた。私は自分の失態に耐え切れず、次の停車駅で電車を降りてしまった。
一旦気持ちを落ち着けようとホームのベンチに座る。二月下旬の冷たい空気に触れながら呼吸を整える。それで職場の面子からのメールがやたらと多かったのか……みんなに心配掛けていたのかと思いながら改めて未読メールをチェックする。
【支度中に体調を崩したと伺いました。お大事になさってくださいね】
弥生ちゃんからのメールで、職場には姉が上手く執り成してくれたことを知った。他のみんなからも似たような内容のメールが届いていて、普段メールのやり取りまではしない仲谷君とか間中君とかも心配してくれていたのかと申し訳無くも嬉しい気持ちになった。
【ご心配おかけしました、土日しっかりと休んだので明日から出勤できそうです】
弥生ちゃんにメールを送信してから未読メールを更にチェックすると、秋都からはドジ踏んだなとの茶化しメールが、姉からは取り敢えず体調不良ってことで会社には連絡しておいたというメールが届いていた。
はぁ〜。自分自身のミスではあるけれど、表面上は何とか格好が付いてるとホッとしたところでケータイが動きを見せる。振動からするとメールだから弥生ちゃんだろうなと思って受信すると社長からだった。
【おいクソアマ、どこほっつき歩いてやがる?】
えっ! そう思った瞬間ピカピカに磨かれた革靴の男が私の前に立つ。誰だよ? と顔を上げると、超絶人相の悪いホストもとい社長がケータイを片手に仁王立ちしていた。
「何だその服? ピ○○○ウかド○○○○んかと思ったぞ」
そういうあなたこそ何故ここに?
「どこをどうすりゃそんなダッセェ服選べんだ?」
「……」
「仕事放っぽって男と懇ろかますたぁ良い根性してやがんなってそれはまぁいい」
「すみません」
と頭を下げたが『まぁいい』のかよ?
「ただ春香にケツ拭かすってのが頂けねぇな」
結局はそこかよ。けどまさかのバレましたに私の汗腺は一気に広がる。
「それぞれがどこを最優先するかは個々で選択すりゃいいと思うが、オトナの行動したいってんならてめぇできちんとケツ拭きやがれ。今のお前は一流の振りしたハリボテだ」
「……」
やっぱり私には高級品は不相応なのか。彼が選んでくれたワンピースをボロカスに言われて凄く悲しくなった。
「それにしてもそのブランドから敢えてそれかよ?」
社長は私を上から下まで眺めて苦笑いしている。服を見てどこのブランドかが分かるってのは凄いと思うけど、ホストスタイルで仕事をするあんたのセンスも大概だろ? と言いたい。
『間もなく電車が参ります。黄色い線より内側に下がってお待ちください』
電車の到着を報せるアナウンスに社長が反応して私の手首を掴んだ。私は突然のことに抵抗したが、帰るんだろ? と言われて引きずられるように順番待ちの最後尾に並んだ。
「春香が心配してる、取り敢えず顔見せて安心させてやれ」
「えっ?」
ってことはまさか。
「『金曜の出勤から帰宅してない』んだろ? それに先週冬樹が気がかりなこと言ってたからな」
さすがに社長には言ってたか。
「ふゆが、ですか?」
「あぁ、春香の声色真似て……お前に通話した時のアレだ」
あぁ、『春香に代われ』って言われて冬樹にケータイ渡したアレのことか。
「あぁ、お気付きだったんですね」
「ったりめぇだろ、伊達に惚れてた訳じゃねぇ。冬樹はお前が近いうちに大迷惑なやらかしをしでかすだろうっつってたんだ」
相っ変わらず凄ぇ勘してやがるよな。そのタイミングで電車がやって来て話は一度中断する。私たちは列の流れに合わせて電車に乗り込み、次の到着駅で乗り換えるので入り口付近に立った。
「それ聞いた矢先に休日出勤すっ飛ばしの朝帰りときた。まさかこんな所で出くわすとは思ってなかったけどな」
「……」
「そんだけ気にかけてくれてるきょうだいを蔑ろにしてまで付き合う価値がその男にあるのか? 週末に届いたメールだって今見たとこなんだろ?」
何故それを知っている?
「ケータイ覗きました?」
「そこまで悪趣味じゃねえわ」
社長はそう言って私を睨んでくる。
「社長」
「あ"?」
「先日はご迷惑おかけしました、カレンダーの読み違いをしてしまいました」
私は改めて社長に頭を下げるが、何故か不機嫌そうになさってる。
「それはもういいっつってんだろ、そもそも謝る相手が違う」
「えっ?」
「直接迷惑被ったんは経理課の連中だ、お前の分のしわ寄せが来るんだからな。そんなに謝りたきゃまずはそっちだろ」
「はい、すみません」
「イヤだからよぉ……」
社長は盛大なため息を吐いてそれきり会話は続けてこなかった。それからすぐに乗り換え駅に到着し、社長はJR線へ、私は自宅最寄り駅を繋いでいる私鉄へと乗り換えた。
それから約一時間後に帰宅すると、姉が普段通りの表情で出迎えてくれた。
「お帰り、何か食べる?」
「ううん、少し休む」
「そう」
私は特に何も言わない姉をすり抜けて階段に向かうと、風呂上がりに秋都と遭遇した。
「お帰りなつ姉。珍しいポカしたもんだな」
「うん、カレンダー見間違えちゃって」
「そっか。体調不良ってことになってっからさ、明日は上手くやれよ」
「分かった」
秋都は本当に普段通りなのでちょっと安堵しつつも拍子抜けしてしまう。私はそのまま二階の自室に入って部屋着に着替え、さっきまで着ていたワンピースをハンガーにかけた。
「そんなに変かなぁ?」
社長にコテンパンに貶されたそれを眺めるけど、私は彼の心遣いの方がよっぽど嬉しい。いくら職場の社長だからって女性社員の私服を貶すなんて少しばかり酷すぎやしないだろうか?
なんてこと考えているとバッグの中にいるケータイがブーンと鳴り出した。取り敢えずワンピースから離れてケータイを探り当てると、コロンと何かが下に落ちる音がした。
ん? と思って床を見ると見覚えの無い手のひらに乗るくらいの黄色の小さなジュエリーボックスがコロンと転がっている。何だろう? と思ってそれを拾い上げて何の気無しに開けてみると、それなりにお高そうなピンクゴールドの指環が収まっていた。えっ? 何? こんなの知らない!
私はバッグをひっくり返して中身を全部出してみると、これまた身に覚えの無いカードサイズの封書が入っていた。んん? 更に疑問符全開でそれを開封して半分折りのカードを広げると、全て英字の短いメッセージが書かれていた。
【Dear Natsue
Happy birthday.
Please let me celebr your special day.
I love you.
Akio】
「……」
この三日間至れり尽くせりのおもてなしをしてくれたのにも関わらず、まさか指環までプレゼントしてくれるなんて思ってもみなかった。私は余りの嬉しさにケータイを掴んで彼にお礼のメールを送信し、早速指輪をはめて一人ニヤニヤと二泊三日の思い出に浸っていた。