第⑰話 「玉ねぎって目に染みるよね」
麻衣は骨折をしてから病院に1週間入院して、手術後はギプス固定をされて無事自宅へ退院した。
俺にはよく解らないけど、医者の説明によると、骨と関節を安定させるためにピンニングってのをしてるらしい。
写真を見せてもらったが、一部の骨が粉砕骨折状態になっており、手術の時に人工骨も使用したとか何とか……
ってか、それだけ柿崎ちゃんのスマッシュの破壊力が絶大だってことが分かり、俺は別の意味でぞっとした。
あの子を敵に回すと怖い。ただそれだけが俺の脳裏にインプットされる。
「……兄貴、お父さんって今日遅いの?」
「ん?確か部下と一緒に新しい仕事の打ち合わせ行ってるから、今日は帰ってこねーぞ?」
「そっか……」
タイミングの悪いことに、母さんの実家の親が具合が悪いとかで、山梨の方まで行っている。
ちょっとじいちゃんの状態が芳しくないとかで2週間くらい帰れないかもと先ほど連絡があった。
普段であれば、麻衣が基本的に家のことをしてくれるので食いっぱぐれる心配はない。
掃除や洗濯くらいだったら俺と親父で出来るのだが、料理はそうもいかない。
困っているのはそこだったらしい。麻衣は利き手は右だが、包丁と箸は左なのだ。
俺はそうだ、と手を叩き、いそいそとキッチンに向かい、母さんが使っている白いエプロンをつけた。
「どうだ、麻衣!俺が今日は料理作るぞ!」
「…………」
物凄く冷たい目で見つめられる。出来るの?って完全にその目が言っている……
そ、そりゃあ俺が作ったことのある料理なんて――ないか。
昔調理実習でやった時は女子が殆どやってくれたもんな。でも今の世の中、男子も料理が出来た方がステータス高いって言うだろ?
今がその時だ。多分そうに違いないっ……!
まぁ、俺が出来るスキルなんてレンチンくらいだ!威張って言えることじゃないけど、世の中コンビニが増えたお陰でとっても便利になってくれた。
「よし、麻衣先生っ。今晩は何をつくれば良いでしょうか」
「……兄貴が、料理なんてできるの?」
「おう。具材切るくらいなら出来るぞ」
大威張りしながら俺は冷蔵庫の中身を確認した。大抵母は色々なものを買い置きしてくれているし、野菜と肉は揃っている。
これにしようと思って決めたのはカレーだった。初心者が一番安心して取り掛かれる料理の一つ。
カレーって便利だ。3日は食えるし、記載されている通りにざくざく野菜切って煮込んで?ついでに気がむいたら隠し味的な。
箱のルゥも美味しいし、よくもまあこんなもん考えたと思うよ。カレーを作ってくれた人に感謝したい。
「えぇっと……じゃがいもは大きく…ニンジンはこんなもんか?玉ねぎ……いってぇ」
「あ、兄貴…そのやり方だと目に染みるよ」
玉ねぎを切っていたら思い切り鼻につーんと来て涙が溢れてきた。
よくありきたりな光景だ。何だっけなぁ。これ。玉ねぎってどうしてこんなに涙が出るんだろ。
「あぁ、危ないよ兄貴……お肉、ひき肉だから切らなくてもいいよ……」
包丁慣れしていない俺の姿は相当不安だったのだろう。しかも玉ねぎにやられて号泣している姿はかなり滑稽だ。
麻衣も手を出したいのだが、ギプス固定をしているので口しか出せない。
「もう…いいよ……玉ねぎ、私がやる」
「まいぢゃんむ”りだよ……いてえ~染みる」
「じゃあ、兄貴の手貸して」
麻衣は仕方がないんだから…と呟きながら俺の背後に立ち、俺を背後から抱きしめるような形で立つと、包丁を握っている右手の上に自分の手を添えてきた。
「そのまま、包丁下ろして」
「お、おぅ」
麻衣の手が温かい。後ろにかなり密着してるし、首に麻衣の甘い匂いの髪がかかる。
包丁が動く度に麻衣の身体もちょっと揺れて背中にあの、女性の象徴が当たるんですけど。
何とも言えない気分になり、軽く身じろぐと異変を察した麻衣の鋭いツッコミが入った。
「……兄貴、変なこと考えてないよね?」
「へっ?い、いや。そんなことないですよ麻衣先生。俺は今玉ねぎって辛いなぁと……」
「――嘘ばっかり……」
麻衣はわざと胸を背中に押し付けているようだった。俺の理性を試しているような挑発的態度を見せるくせに、こちらがそれに乗ると絶対に拒否する。
蛇の生殺し状態だ。そんな麻衣の小さな悪戯には絶対に乗るもんか。
あと1個…あと1個玉ねぎをカットしたら俺の戦いは終わる。そうしたらさっさと風呂に入って――……
玉ねぎを切り終えて安堵の息をつくと、麻衣が少しだけ残念そうな顔をしていた。
ルゥを入れてカレーが出来るまで待っている間も、麻衣は手持無沙汰なのか、キッチンの周りをうろうろしている。
そんな麻衣にちょっかいをかけたくなって背後からきゅっと抱きついてみた。
「麻衣、俺もやれば出来るでしょう?」
「……カレーなんて、今時小学生でも作れるよ」
初めての料理なのに麻衣様は褒めてもくれない。しょんぼりしていると俺の背後に再び抱き着いてきた。
……今日の麻衣は何処となく積極的な気がするのは気のせいだろうか?
親がいないからなのか?俺はふと抱き着いてきた麻衣の顔をじっと見下ろす。
10センチ小さい麻衣は首を傾げながら俺の眸を真っすぐ見つめてきた。何が言いたいのか分からない。
しかし、先に口を開いたのは意外なことに麻衣の方だった。
「……兄貴。栞さんのこと、好き?」
「へ?何で……」
「別に……ちょっと気になるだけ」
気になる?どうして麻衣が栞のことを気にするんだろう……
俺は少し考えながら正直に返答した。
「好きだよ、多分。まだそんなにいっぱいデートしてないからなぁ。誰かさん達が先回りして俺のプラン崩すんだもん」
麻衣は俺の言葉を聞いて少し表情を無くしていた。元々喜怒哀楽の激しい子ではないが、どうも俺に女の影が過ぎるのは気に入らないらしい。
前程泣かなくなったが、こうして新たに女が出没すると不機嫌な態度を見せる。
「麻衣はさあ、俺のこと好き?」
「……兄貴のことは、嫌いじゃないもん」
「じゃあ、好きってこと?」
「うるさい……」
麻衣の背中にゆっくり手を回して、トントンすると恥ずかしくなったのか、突然右手で俺の腕を振り払ってきた。
耳まで真っ赤になっていた麻衣はそれ以上栞と俺の関係について追及してくることもなく、勝手にカレーの火番を始める。
「俺は、麻衣のことが好きだよ?」
「……え?」
麻衣が驚いた顔をしてこちらを振り向く。その眸は次の言葉を求めて僅かに揺れていた。
「だって、可愛い妹だもんな。俺のこと好きだし?」
「う、うるさいよ兄貴は……別に、好きじゃない……さっさとお風呂行ってきたら?」
いつもそうやって答えをはぐらかす麻衣だが、そのちょっと不貞腐れた態度や、俺が栞と仲良くしていると見せる嫉妬は間違いなく好意があると思える。
――麻衣は可愛い思春期の女の子だ。きっとそのうち俺からさっさと離れていい男と付き合うに決まっている。
それなら、今だけは俺もシスコンでもいいやと……ちょっとだけそう思えるようになってきた。