第十話 「据え膳なのに食べられません」
「――弘樹……俺の悩みを聞いてくれ……」
「ど、どうした田畑……」
俺はここ2日程全く眠れない夜を過ごしていた。それも、全て麻衣がおかしくなってしまった所為なのだが。
先日俺は人生初めて後輩から告白されたものの、自宅でいい夢を見てしまって勝手に気持ちよくなったという醜態を曝した所為で麻衣に彼女と別れろと脅迫されて、たった1日で花音ちゃんと別れた。
俺が申し訳なさそうに断ったのに、彼女はいいんです、分かってましたからと屈託ない笑みを浮かべ、麻衣ちゃんがいるから仕方がないですよねと言った。
問題はその麻衣ちゃんなんだ……
俺の睡眠と理性を奪うのはっ……
「なぁ、弘樹。お前んとこの雪ちゃんはお前の布団で寝てたりするか?」
「いや…うちは部屋がそもそも別だから……田畑の家は仕方がないんじゃないの?だって今も親と一緒の部屋なんだろ?」
うちは残念だがあまり裕福な家ではない。だからってそのことを悔やんでるわけではないんだ。
俺もきちんと学校に行かせてもらってるし、麻衣に至っては金のかかる女学校に行っている。
子供の為に親が必死に働いてくれてるんだから、そこには何の文句はないし、別に親と一つの部屋に寝るのは仕方がないからいいんだ。
そこじゃないんだよ問題は。麻衣は小学校の頃散々俺をなじってきたのに、今になって急激に距離が縮まった。――何よりもそれが怖くて仕方ない。
昨日も俺が寝返りを打ったら隣に麻衣が居た。明らかに自分の布団から逸脱している。
麻衣は昔から寝相の悪い子ではないので間違いなく確信犯だ。
「麻衣ちゃんみたいに可愛い子が一緒の布団に入ってたんだろ~?忍、お前それ幸せな悩みじゃん」
いつの間にか会話に加わっていた雄介がいちごオレを飲み干しながらにやついて話に食いついて来る。
俺にもう一つ買ったという抹茶オレを投げて寄越しながらそんなの悩みにならねぇと一蹴する。
「だから、ただ布団の中にいるだけだったらいいんだよ別に……問題はそこじゃなくて」
麻衣は眠っている時に必ず俺に抱き着いて来る。寝相のせいなのか分からないのだが、その腕が抱き枕を持っている夢でも見てるのか、俺の太腿を完全にロックしてくる。
つまり、俺が寝返りを打つと麻衣の手に俺の相棒が当たってしまうのだ。
ちょっとでも麻衣が身じろいだり、俺の寝相が悪いと股間を擦る形になってしまうので、理性が……瀬戸際まで追い込まれる。
何度も麻衣を引きはがすのだが、彼女も寝ぼけているのか少しむっとしたような顔でさらにきつく太腿を掴んできて、さらにひどい時は胸まで腹の辺りに当たってくる。
こんな…据え膳なのに全く食えないような悲しい思いをするくらいだったら、昔みたいにキモイ臭い寄るなとか言われて離れてもらった方がどれだけ楽だったか。
「……つまり、忍は麻衣ちゃんに欲情しちゃったわけだ?」
「ぶふぉっ!!!」
「うわっ、きったねぇな……弘樹にかかってんじゃん」
俺が思い切り噴出してしまった抹茶オレが弘樹の顔面にかかってしまった。申し訳ないと謝りながら麻衣が制服のポケットに入れていたハンカチで拭う。
その丁寧にアイロンのかけられている白いハンカチを見た弘樹がくすくすと笑っていた。
「麻衣ちゃんは本当に忍のこと大好きなんだね」
「はぁ?どこにその話の着地点があるんだよ……」
「だって、兄貴の制服に勝手にそんなの入れないでしょ?それ、忍が選んだの?」
あぁ言われてみたら確かに……
俺は白いアイロンのかかったハンカチを手に持ちながら、麻衣の決して言葉には出さないさり気ない優しさを噛みしめていた。
今日も麻衣は部活で遅いので、俺はこの歳になって初めて台所に立った。
母さんは最近管理栄養士の資格を生かして近所の老人ホームで夕食まで作るようになったので帰りが遅くなったことと、型枠の親父も今は大手の遠方の仕事が入っているので単身赴任で不在。
ハンカチの件もあり、いつも夕食の支度を部活で疲れている麻衣にさせるのは申し訳ないという気持ちに漸くなったのだ。
俺は包丁ですら持ったことないのに、冷蔵庫に入った野菜を確認してから、iPadを使って簡単な料理について調べていた。
「なぁ~んだ、これくらい簡単じゃん。えぇっと皮を向いていちょう切り?いちょうって何だ……」
野菜の切り方については全て箇条書きで書かれているのでどういう切り方かなんてわからない。
遠い昔に調理実習というものをやった気がするけど、あの時は確かグループの女子が異常に張り切ってて全部任せていたっけ。
俺はイカの皮むきとか、野菜を洗うとか、そういう簡単な雑用しかしなかったから覚えていない。
「……まぁ、食えりゃいっか。それで、こっちは普通にざくざくっと切って……」
「あ、兄貴っ……何してるのっ!!」
いつの間にか部活から帰って来た麻衣は、俺が台所に立っている姿を見て自分が部活から帰るのが遅れた所為で俺が腹を空かせていると勘違いしたらしい。
急に背後から近づいて来た麻衣にびっくりした俺は、持っていた包丁でざっくり指を切ってしまった。
「いっでええっ!!」
中途半端な傷よりもさっくり切れたので血は出たものの傷口は酷くなさそうだった。
俺は血液を押し出して止血を試みてると、バックをフローリングに投げ出した麻衣が俺の手を強く引っ張って傷口にいきなり噛みついていた。
「ま、麻衣!?」
じわりと血が滲んでいる人差し指を優しく唇で食まれ、ちゅう、ちゅうと血を吸い上げる音と、最後にはちゅっと音をたてられ俺は何だか変な気分になった。
麻衣は消毒だから、と言い無表情のままポケットからごそごそとカットバンを取り出す。
「私が全部やるからいいよ……兄貴は台所になんて立たなくていいから。ほらこれ巻いて」
「あ、りがと……」
されるがまま状態の俺は麻衣に手を取られ、可愛い猫のマークのついたカットバンをつけられた。
俺とチェンジする形で麻衣が何事も無かったような顔をして台所に立つ。
――麻衣ちゃん、まさか…消毒とか言って他の人にもあんな傷口をちゅうするとかしてるんだろうか……
「麻衣……まさかと思うけど、他の人にも今みたいなことしてないよね……?」
「するわけないじゃん……兄貴だけだよ」
料理をしてる麻衣の耳が僅かに赤くなっているように見えた。そりゃあ恥ずかしいよな、あんなこと……
俺は自分が料理のセンスなんて無いことは知っていたので、台所は麻衣に任せて先に風呂を洗ってシャワーを浴びることにした。
先ほどの麻衣が指をしゃぶる様子が脳裏を過ってしまい、俺は申し訳ないと思いつつも麻衣の顔を思い出して気持ちよくなってしまっていた。
……あぁ神様ごめんなさい。
まさか――……妹で抜いてしまいましたなんて……っ
こんなんじゃ、絶対彼女なんて出来ない。俺はせめて、せめて弘樹よりも先にDTを卒業したいんだっ!!
風呂場でまた誰にともなく懺悔しながら、俺はがくりと頭を項垂れた。