第一話 「おはよう、の一声はラケットから」
俺には3歳年下の可愛い妹がいる。それはそれは……本当にお人形みたいに可愛い子だったんだ。
「……お兄たん」
ぐずぐず泣きながら熊のぬいぐるみを抱っこして俺の布団に入ってくる。
俺の家はあまり裕福な家では無かったので、ちょっとボロいアパートに1家4人で布団を並べて一部屋で寝ている。
時々、妹の麻衣は怖い夢を見ると鼻を鳴らしながら泣いていることがあり、俺はそんな麻衣の背中をトントン叩いてあやして眠るのが日課となっていた。
「お休み、麻衣ちゃん」
「うんっ。お兄たんおやすみ」
くるりとこちらに抱き着いてきて熊のぬいぐるみもセットで眠る麻衣は、その温もりに包まれると安心するのか、彼女は怖い夢を見なくなっていった。
そう……甘い、甘い兄妹のエピソード。
それが、一体どうしてこうなった……。
「……兄貴、いい加減起きろって!遅刻するからっ!!」
「いっでええええっ!!もうちょっと優しく起こしてよっ!!」
毎朝恒例行事となっている、麻衣の繰り広げる俺の「尻叩きの刑」……これだけの言葉だと、ある意味何か変態のプレイの一種かと思われそうだが、断じて違う!!
正直、これでもバドミントンのラケット一発で済むくらいだったらまだ軽い方だと思うんだ。
低血圧の俺は元来寝起きが悪く、昔から妹の麻衣に起こされて30分ぼんやりしてから学校へ行く。
親父は型枠工なので朝からの出勤が多く殆ど家に居ない。母は小学校の栄養管理を行っている為、これまた朝から仕事に行っていない。
昔っから俺、田畑 忍と妹の麻衣と二人で過ごすことが多かった。
小学校の頃は麻衣もとても素直で可愛くて、毎日俺と一緒の布団で寝てくれたのに、中学校に入ってから彼女の態度は豹変した。
それも、麻衣が小学校の頃に何故かバドミントンを始めたのが理由の一つかも知れない。
……ほら、よく言うじゃん。スポーツやってると精神が鍛えられるとか何とか。
昔の麻衣はどっちかと言えば根暗なタイプで、あまり自分から言葉を発することも少なく、何を考えているのかよく分からない子と言われていた。
特に友達という友達も作らず、一人で過ごして居ることが多いように見えた。
俺も小学校の頃は麻衣のことが心配で何度も教室を覗きに行ったことはあるけど、大体麻衣は誰かと仲良くすることなくグラウンドの方をただじっと見つめていた。
何か学校で虐められてるのかと思って俺も何度かクラス担任に相談したことはあるけど、麻衣は成績優秀で別に誰かとのグループワークでも輪を乱すこともなく、ただ淡々としているとの情報だけあった。
「ふぁ~……まだ眠い……」
大あくびをして布団から出たもののシャツをめくってお腹をぼりぼりしていたら蔑んだ眸で見つめられていることに気付いた。
相変わらずだが、麻衣の目つきは本当に悪い。黒髪はさらさらしてお人形みたいなのに、目つきの悪さは多分型枠で親方をやってる親父の顔に似たんだと思う。
う”っと言葉を呑み込み麻衣を見つめると、彼女はさらに目を細めながらラケットを持つ手に力を込めていた。
「へぇ…今日は目覚めが悪いんじゃない?もう一発食らいたいの?」
「いやぁ~やめて~麻衣ちゃんったら朝から凶暴なんだからぁ」
「……あ~キモ。もうさ、いい歳なんだから…そのおネエ言葉止めてよ……」
ようやく布団から出て来た俺を重いため息をつきながら見送り、ぶつぶつ文句を言いながらも俺の布団を律儀にたたんでくれる麻衣は本当に優しい妹だ。
まだ低血圧のせいでソファーから動けない俺は、既にしっかりと準備されている朝食を見つめながらテレビをつける。
焼きたてのトーストにかじりつきながらも、頭はまだ半分眠っている。
母親も低血圧できっと遺伝なんじゃないかと思うのだが、母は3時間以上前に起きて出勤するから本当に立派だと思う。
ぼんやりしている俺の背後に立っていた麻衣は困ったような顔でこちらを見下ろしていた。
何?と思い顔を見上げると、視線が合うと恥ずかしいのか、麻衣は必ず顔を背ける。
「……兄貴、私今日から朝練あるから……1人で起きれんの?」
「おぅ。頑張れば何とかなるさ」
まだ低血圧の所為で顔が青白い俺を心配しているのか、なかなか麻衣は朝練に向かおうとしない。時計を見るともう7時を過ぎている。ダッシュしないと遅刻するだろうに……
俺は小さくため息をつくと口元でにっと笑い、ちょんちょんと中指を動かして”顔貸せ”と合図した。
「――麻衣。ちょいちょい」
「……何?」
麻衣は可愛い顔をしているのだが、俺が呼ぶと必ず眉間に皺を寄せる。
すごく迷惑そうな顔をしながらも、拒否することは無い。絶対に呼べば来てくれる可愛い妹だ。
「いってらっしゃい?」
麻衣の肩をぐっと引き寄せてこつんとおでこを合わせた瞬間、バチンと小気味よい音が響く。
左手に感じるじんじんと染みるような痛み……思い切りビンタされてしまった。
全く手加減ないその力に俺はソファーから思わず落ちそうになる。
「ば、ば、ば、馬鹿兄貴っ!!!もう知らないからねっ!勝手に遅刻してろっ」
顔を真っ赤にしながらラケットを持って慌てて玄関を出ていく麻衣にソファーの下から手を振りながら、俺はあと10分だけだらだら過ごす。
殴られても、蹴られても…麻衣が部活で遅刻して先輩に怒られないんだったらそれでいい。
「あ~……しかしいってぇなぁ……手加減ゼロだもんな麻衣は」
苦笑しながらビンタされた頬を手で冷やしながら、少しだけ温くなったパンをかじる。
それからいつものように遅刻ギリギリで学校に行くと、頬に真っ赤な手形を残していた俺の顔を見た友人の弘樹が、一体何と戦ったんだと心配そうに声をかけてくれていた。
まぁ、軽い痛みのある愛情表現はいつものことです。