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無事にサブナックと合流した三人は、馬車の荷台に揺られて一路マンバニ砦を目指していた。
荷台ではネルとディエゴが肩を並べて寝息をたてている。
御者台で馬を操るサブナックの隣にちょこんとノイが座っていた。振り返って二人の安らかな寝顔を見ると、ノイはなぜだか嬉しい気分になっていた。ノイが二人の寝顔を見るのは、銀狼の森の中で過ごした夜だけだった。街から帝国の兵士達が去って、三人で広場のぼろ屋を使えるように片付けた。雨漏りがひどくて、屋根や壁を補修した。そうして使えるようにしても、ノイだけは別の場所で寝ていたのだ。ディエゴとネルが何度一緒に寝ようと誘っても、ノイは毎晩同じ所に帰っていった。広場の前の篝火は、ディエゴがノイのためにこっそり設置したものだった。暗闇に足を取られないようにと。
「本当に来てくれるとは思ってませんでした」
「わはは、正直な奴だ。だが、そうやって疑ってかかるのは悪くないぞノイ」
サブナックは肘でノイの頭を小突くと、歯を見せながら豪快に笑っていた。
「世の中、全員が良い奴なわけがねえ。もしかしたら、俺も良い奴じゃないかもな。お前らを故郷から引きはがそうってんだから」
「いえ、ディエゴもネルもわかっていますから。あそこにいても、僕らに先はないって」
「おい」
サブナックの肘がまたノイの頭を小突く。何事かとノイが驚いてサブナックを見た。冗談を言ったわけでも、サブナックの機嫌を損ねたようなことを言ったわけでもなかったからだ。
「その顔、やめろ。子供がしていい顔じゃあねえ」
その表情は真剣そのものだった。サブナックの真剣な表情は、最初に森で出会った時以来見ていなかった。ずっとサブナックは笑顔で接していたし、食事時にはみんなを笑わせてくれるとても気さくな男だったからだ。
「ノイ、前に言っただろ。お前は子供だ。いいか、子供は笑う権利がある」
「あはは、そんなこといいましたっけ」
「そう、その顔だ。なんだよ、笑えば可愛い顔してるじゃあねえか」
「僕は男ですよ、サブナックさん」
「んなこたわかってる。いいか、子供の笑顔ってのは可愛いもんなんだよ」
少しだけサブナックの語気が強くなった気がした。
日は高く昇れば落ちるのみ。すでに傾き出して久しく、空は赤々とした幻想的な背景にまばらに広がった雲が連なっていた。サブナックが水浴びをしようというので、少し道を外れてサンエルテ川の辺に赴いた。
「あれがマンバニ橋ですか?」
橋に入る手前でサブナックが言いだしたため、彼らは橋を渡らずに近くの辺へ降りていた。
大陸を流れる二大河川の一つ、サンエルテ川。その雄々しさに三人は見とれてしまうほどだ。その幅は、対岸に見えるマンバニ砦の城壁がいまだ遠く、小さく見えるほどだ。幸い、流れ自体は緩やかなため多少なら入り込んでも大丈夫なようではあるが、ひとたび中腹まで流されようものなら二度と帰ってこれないだろう。
ノイは大きく視界に入る大橋を指さしながらサブナックに問い掛ける。一見してみればただの石造りの橋だが、ところどころで淡い紫色の発光が見られる幻想的な雰囲気の橋だ。夕焼けの茜色とサンエルテ川の雄大な流れも合わさって、まるでその風景だけが切り取られたように美しい。
「ああ、そうだ。あれが見えたら、マンバニ砦は目と鼻の先ってとこだな」
「あそこで最近まで戦争やってたんだよな」
ディエゴの呟くような声だったが、サブナックはそれを聞き逃さなかった。
「そうだな。勝ったとはいえ、人が大勢死んだよ。帝国も、王国もだ。っと、とりあえずお前らしっかり身体洗っておけ。町中に入るのに獣みたいな臭いばら撒いてたら、衛兵に何言われるかわかったもんじゃねえ。俺の家についたら服も風呂も用意してやるから、いまだけ川の水で我慢してくれよ」
三人はそれを聞くなり、ぼろぼろの服を脱ぎ始める。ノイも、ディエゴも、もちろんネルもだった。
「おい、おいネル!」
サブナックがネルだけを慌てて止める。
「なに?」
ネルがきょとんとした様子で目をぱちぱちと瞬かせながらサブナックを見ている。おそらくワンピースだったであろうそのくたびれたぼろい服は、すでに胸元を離れて下半身を通ろうとしていた。ノイもディエゴも、ネルの姿を視界にいれないように後ろを、向いているわけではなかった。
「なにじゃあねえよ。おい、男どもはとっとと川でそのくせえ身体流して来い!ネル、お前なあ。お前は女の子だろう、もっとなんていうか。そのだなー」
「恥じらい?」
「そうそう、それそれ。いや、わかってるならお前もっと考えろよ」
サブナックが視線を外してネルの露わになってしまった胸元を見ないように努力していた。十代そこそことはいえ、やはり女の子の発育は早いもので乳房の膨らみかけた危うい色気とネル自身の魅力も相まって非常にまずい。よくもあの二人はこんな可愛らしい女の子と一緒にいて正気を保っていられたなと感心するほどだ。
「んー、慣れちゃってるし。それに」
「それに?」
「別に私は、あの二人になら見られても構わないから」
少女はにかっと笑った。ネルの見せる笑顔には一点の曇りもなかった。サブナックはその言葉をどう取ればよいのかわからず、前にネルを怒らせてしまったときよりも激しく顔をしかめてネルを見る。いや、見てはいけなかった。
「あ!サブナックさんはだめ!!」
くたびれ、汚れ、色の褪せたワンピースが塊となってサブナックの顔に直撃し、その視界を阻む。
「おい、ネル!すげえ冷たくて気持ちいいぞ!!」
「うん、いまいくから!」
「こらっ、ディエゴやめろ!目に入ったじゃないか!」
ディエゴとノイがはしゃぎ合っている場所へ、ネルが駆けていく。その光景はなんとも微笑ましいもので、夕焼け空の下、彼らは決して笑顔を絶やさなかった。サブナックはどこか物悲し気な表情で、それでもその目には温かな眼差しを持ってその光景を見守っていた。
「せっかく綺麗にしたのにまたこれを着るんじゃだめよね」
馬車の荷台でネルがぼろのワンピースを引っ張りながらぼやく。その隣でノイは眠っていた。御者台にはノイの代わりにディエゴがサブナックの隣で胡坐をかいている。すでに日は落ちて、辺りの平原は不気味な宵の地平線に変わっていた。川の流れる音を聞きながら、一行は橋を渡る。
「それにしても、凄い橋だな。なにで出来てるんだ」
「ん?興味があるのか」
サブナックがからかうような調子で言った。
「なんだよ、俺が興味を持つのがそんなにおかしいのかよ」
「わっはっは、そういうわけじゃあねえがよ。仕方ない、この俺が教えて進ぜよう」
サブナックが鼻高々に笑うと、そのふんぞり返った頭が後ろのネルの後頭部にぶつかる。
「いたいー!」
「すまんすまん。ディエゴ、お前はこの橋が何で出来ていると思う」
「石でしょ。なんか光ってるところあるけど、宝石でも埋め込んでんのか?」
サブナックが舌を鳴らしながら人差し指を左右に振る。そんな仕草をディエゴに見せて、ディエゴを煽っていた。ディエゴの頬がどんどん膨らんでいるのを、ネルが見て笑っている。
「石造りの橋ってのは正解だ。そしてその宝石ってところはかすりってとこだな。その宝石って部分にタネがある。今でこそミラン大橋みたいな鉄橋が作られたが、このマンバニ橋は凡そ二百年近く前に作られた代物だ」
「へえ、そんな昔からあんのか」
「ああ、王国が西へ進むにはサンエルテ川を渡ることは避けては通れなかったからな。それまでの王国は船で河川を行き来していた。だが、ある物の登場がそれまでの常識を覆しちまったんだよ」
サブナックの話に引き込まれるようにディエゴは聞き入っていた。ネルも背中越しではあるが、ノイに肩を貸しながら耳だけはサブナックの話を漏らさず聞こうとしている。
フローライト。そう呼ばれる鉱石は、エルゼヘルンに存在していた。もちろん、他の鉄や銀、金、様々な鉱物もエルゼヘルンに存在している。当時は鉱物の加工技術は確立されてはいなかったため、大きく削り取った鉄などの硬度をもった鉱石は重宝され武器類はもちろん、ガルデ山脈や各地の荒野に位置する鉱脈を開拓する道具などに多く使われていた。宝石のほとんどは価値を持たず、例え美しく光り輝いていようがいまいが、その辺に転がる石ころと同価値でしかなかった。
ではなぜ、硬度も劣り美しく光り輝くことに長けたフローライトがエルゼヘルンで名前を授かり石ころ同然として扱われなかったのか。硬度の高いダイヤモンドやコランダム、アレキサンドライトならまだしもフローライトはそれらよりも特別な扱いを受けていた。ただ、それは厳密にフローライトではないのだが。
ガルデ山脈で淡い光を放つ鉱石が発掘されるようになったのは三百年ほど前だった。大陸に住まう人々はその淡く輝く様子から神の石と呼ぶようになり、多く採掘しては持ち帰るようになる。そして持ち帰ったあとも、フローライトはより神の石として知名度を上げていく。それはまさしく、鉄鉱石を溶かしやすくするという性質をもっていたからだ。当時のエルゼヘルンでは鉄の用途は多岐にわたり、溶鉱炉が姿を現してからは特にそれは顕著になった。一時期は鉄が最も高価値となった時期もある。その上でフローライトは鉄と共にその価値をあげていった。
そんな中、ある人物が意外な着眼点に気付く。
「金とダイヤモンドが繋がった!!」
まるで溶接したかのように、金の塊とダイヤモンドの塊は溶け合い繋がったのだ。それは一人の鍛冶屋の生み出した、奇跡の発見だった。溶鉱炉で溶かし、液状にした神の石はどんなものでも繋ぎ合わせるという信じられない現象を引き起こしていた。それもまさに、一体化といっても遜色ないほどの精度でだ。それは神の石の発見から、およそ八十年のときが経過していた。しかし、その繋ぎ合わせるという現象を引き起こす石は稀であった。紫色の光を放ち、フローライトよりも強く発光する石。それはフローライトではなく、まったく別の鉱石だと気付くにはさらに多くの時間を必要とした。
さらに十五年のときを経て、フローライトとは一線を画した真の神の石が生まれる。
ガルデ山脈でのみ取れる、紫色に強く発光する石の名は紫焔石と呼ばれその性質を使った最初の建造物として、サンエルテ川を渡る橋が作られた。その竣工にはおよそ十年近くの月日を擁した。サンエルテ川を渡らねば、王国は紫焔石を入手できなかったからである。
「そうして、紫焔石が当時のまだつたない技術で加工された石を繋ぎ合わせる役目を果たしたんだ。結果、それは二百年近く経ったいまでも強固なまま、その姿を保ち続けている。この橋から紫色の光が漏れてるのは、接合部の紫焔石が放っているらしい。当時からどれだけ光ってたんだか知らないが、だんだん光の加減も劣化しているっていう話だ。そのうち崩れるんじゃないかって話も出てるくらいだな」
二つの寝息が話し終えたサブナックの耳に届く。まずひとつは隣で熱心に聞いていたはずのディエゴだ。もうひとつは、後ろで聞き耳をたてていたはずのネルの寝息だ。サブナックはやり場のない怒りと語り切った達成感とが合わさって実に奇妙な表情をしていた。
「ったく、人がせっかく勉強させてやってたってのによ。とんでもねえガキ共だ」
「それで、神の石はどうなったんですか」
突然に後ろから聞こえた声にサブナックはびくりと身体を震わせる。その振動が馬にも伝わったのか、静かな夜の橋で馬の嘶きが響き渡った。
「ノ、ノイか!?お前、起きてたんならいってくれ。はぁー、びっくりした」
「あはは、すみません。実は最初の方で起きてたんですけど、ネルの肩を借りちゃってたのが恥ずかしくてなかなか起きられなくて」
「っかー、お前らろくな大人にならねえぞ」
「それでもう一度聞きますけど、神の石はそのあとどうなったんです?そんな凄い技術があったのに、僕らは紫焔石なんて見たことも聞いたこともないですよ。ラウンデルから出たことがなかったからかもしれないですけど。でも神の石って呼ばれていたくらいなら、書物にくらい書かれていたはずだし。ラウンデルは木造の家ばっかりだったからなあ」
サブナックはこいつ本当に子供か、と疑った顔をしていた。しかしながら、自分の長話をちゃんと聞いてくれていたと思うとサブナックも嬉しい気持ちを抑えられない。
「ああ、神の石。紫焔石は、捨てられたのさ」
「捨てられた?」
「そうだ。ラウンデルは特別、なんだよ」
「それはどういう?」
そのあとサブナックは橋の先に見える城壁を顎で指し、
「言ってみればわかる」
とだけ言うと珍しく先の言葉を濁した。