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目を開ける。
たったそれだけのことが億劫でたまらない。
その身に感じる寒さを振り払うように、まるで芋虫のように身悶えさせながら身体を動かす。瞼を開けるとそこは一条の光すら刺してこない真っ暗闇。まだ自分が眠りについているかのように錯覚させる。地面に手をついて起き上がる。手に付いた砂を払い自分の腰の後ろに下げたある物を確認する。
しっかりとそこにそれはあった。安堵し、ほっと溜息を吐く。腕周りや背中などについた砂や泥を払い落し軽く伸びをする。ここでようやく、自分が目覚めたという実感が沸いてくる。
「おはよう」
と、それだけ呟いた。
自分が男で、擦り切れて泥にまみれた服を着て、でも今日から新しい世界が幕を開ける。次に起きるときを楽しみに眠りについたのを思い出した。高揚する気分が抑えられない。温かな麦飯や、口の中でふわふわと溶けるパン。香ばしい肉汁溢れる獣肉に色取り取りの野菜達。それらを口にすることができるようになるのか、と思うと不思議と顔が緩む。逸る気持ちのまま、この暗闇の場所から抜け出した。
淡い月明かりが、瞳に入り込んでくる。自分の眼もようやく光を取り戻したのが嬉しいのか、辺りの景色が飛び込んできた。木で造られた大小の様々な家々が並ぶ、その通り捉えるならば大規模な集落だ。そのどれもが焼け焦げ、崩れ、家として誰も守ることのできないものとなっていなければ。
水音がする。家の瓦礫をしたたりながら、しとしとと水滴が落ちていた。その下には、水溜り。少し覗けばゆらゆらとした水面に月明かりに照らされたぼやけた鏡像が映る。自分はこんな顔をしていた。そう思い出させるにはこの程度で十分だった。
少年。そう表現するのが最も適当なその姿。男とはいえまだあどけない女性的な可愛げのある部分を残しているのは、年齢的な側面というよりも彼の個性とも言えるだろう。髪はぼさぼさとしていて、切り揃えられた部分はどこも一定。とても誰かにはさみで整えられたというような具合には思えない。その髪の色は闇に溶けそうな黒色で今にも夜の闇に溶け込みそうだ。少年は水面に映り込んだ自分の顔に向けてゆっくりと両の手を差し込み、その手に水を受ける。水の波紋がもう一人の自分を掻き消してしまった。代わりに本物の自分の顔を掬った水で洗う。温い泥水であったが、少年がそれを気にすることはなかった。
歩くたび、背でかたかたと音がする。起き抜け、真っ先に確認した少年の大事なものだ。それは短剣。なんの装飾もなく、鍔もない、くたびれた鞘に収まった片刃の刃。木片に不器用に布を巻き込み、実に簡素に作られた柄。刃は手入れもなされた様子はなく、錆びついている。鞘についた紐が少年の腰に巻かれて堅く結び目を作っていた。
歩く内、風景も少々変わってきた。相変わらずの瓦礫と化した家々が連なるが、特に道がある。瓦礫も多少は残っているが、人の往来もあるようで泥の不安定な足場だが踏み固められて少々歩きやすい。とはいうものの、この踏み固められた地面は少年が作り出したものであるのだが。ようやく光源も月明かりに頼ることがなくなる。篝火がひとつ、赤々と周囲を照らし出してくれていた。
篝火の先は広場だった。広場の中央にはくたびれ、ひび割れ、半身を失ったかつては人の形をしていた石像が立っていた。その石像を取り囲むように家が円状に並ぶ。家の様子はどれも焼け焦げた様子で倒壊し、人が住んでいる様子など微塵もない。
そんな広場の一角。篝火と同じ赤々とした光を漏らす家を見つける。まだ瓦礫の塊となっていない、家としてはまだ骨格を保ったという印象だった。不格好なつぎはぎだったが壁や屋根は補修されているようだ。なんとかそれは家として面目を保っている。大きさはそこそこ、小さな飲食店くらいなら開けるのではないだろうかといったところだ。少年はそこに足を向けていた。
扉は半開きで、中から人の声がする。騒がしいといった雰囲気では全くなく、その声色から重苦しい様子は理解できた。ぎいと軋む音と共に扉をゆっくりと開いていく。その内装は外観と違って全く別物だった。崩れた屋根や壁が瓦礫となって空間を作っている。そこは小さな飲食店なんてとてもじゃないが開けそうにはない不自由な空間だった。
「やっぱり、いかなきゃだめなのかな」
「ああ、たぶんそれが一番いいんだ。ここにいたって、何も変わらないんだから」
簡単に木組みをした小さな火を囲んで二人の男女が腰を落ち着けていた。少年とそう歳も変わらない、十代そこそこの少年少女。少年の方は金髪で少々身体も大きく、鍛えているようで筋肉の付きもいい。その年齢にしては、という所だが。少女の方は今でこそ少々泥に汚れているが、元は綺麗な赤茶色の髪をしていた。体も小さく縮こまっているせいで余計に小さく見える。その表情は今にも泣きだしそうで、その黒い瞳の下に涙を溜め込んでいた。二人に、いや三人にあわせて共通しているのは、汚らしいぼろぼろの服、泥にまみれてやせ細った身体だ。
「やっと来たか。ネルがいまさら弱音を吐くんだ。なんとかいってくれよ、ノイ」
ノイ。
それが名前だった。そして気さくに話しかける少年の名前をディエゴ。今にも泣きだしそうな少女はネルという名前だ。二人の子供達はノイの友人、いやそれ以上のものかもしれない。
「ネル、昨日ちゃんと話し合ったじゃないか」
「で、でも、食べ物は森からとってくればなんとかなるよ。いままでそうしてたじゃない。小さな動物とか、キノコとか木の実とか食べたり。わざわざここを離れることなんかないよ。今まで通りやっていけるよ」
ネルの表情がますます落ち込んでいく。ぱちぱちと焚き木が音を立て崩れる。ノイは扉を閉めた。とはいえ、半開きなのは変わらなかったが。火で暖められた空間は心地よかった。小さな火の傍に二人と同様に腰を落ち着け、短剣が床とぶつかってがたりと音を立てる。
「昨日も話しをしたじゃないか。食べ物の問題じゃない。僕達、このままずっとここで過ごしていくのか」
「それは」
「僕らはあの夜を生きた。ここで生きていることはできるかもしれない。でもこのままじゃ僕らはすぐに死ぬよ。何もできないまま、野垂れ死ぬ。ネルはそれでもいいの」
ネルの表情はますます曇るばかりだ。
「それは私だって嫌」
「それなら」
「でも!でも!!」
ネルの瞼から頬を伝っていくものが見えた。それはノイにもディエゴにも覚えがあるものだった。
「私はここを離れたくない!お父さんもお母さんも一緒だったこの街を捨ててなんて行きたくない!ずっとずっとここに居たかった。居たかったから」
「ネル・・・」
少女の涙のなんと暴力的なことか。その言葉と泣きじゃくるくしゃくしゃとした顔は、ノイの胸に重く鋭く突き刺さる。ノイもディエゴも、出来得ることならここにいたいという気持ちがある。だからこそ、その言葉は鉛のように重くのしかかるのだ。共感することができる、いやできてしまうから。
「俺さ」
ディエゴが重苦しい空気の中で口を開いた。ネルも、ノイでさえ顔を俯けてしまっていた。
「俺、騎士になりたい。強くなって、騎士になりたいんだ。強い騎士になったらさ。俺も英雄って呼ばれるくらいの凄い奴になって、帝国なんか滅ぼしてやるんだ。そしたら、ここ買って復興させる。へへ、ここをラウンデルじゃなくてディエゴって名前に変えてやる。そしたらそしたら、またここに三人で住めるだろ?ここで美味い飯を食って、柔らかいベッドで眠ってさ。また野菜を作ろう、前みたいに豊作になったら祭りをやるんだ。な、ネル」
満面の笑みで語るディエゴの表情は希望に満ち溢れていた。そんなとびきりに明るい顔に答えるには、ネルもノイも、もはや暗い表情を見せるわけにはいかなかった。
「ネル、怖がってばかりじゃずっと前には進めないんだ。僕らは、森で学んだろ」
ノイがそういうと、ネルもそれきり涙を流すことはなかった。
いまだ涙を拭いているネルを連れて外に出る。
ディエゴもノイと似たような短剣を腰に下げていた。ノイのように後ろではなく、しっかりと脇に。まるで騎士の様に誇らしげだ。すでに白み始めていた空を見上げる三人は、それぞれに思いを秘めていた。
「最後の最後までこなかったな」
ディエゴが半身を失ってもいまだに立っている石像を見上げて言う。その姿は半身さえ失っていなければ勇んでいるように見えただろうが、こうなってしまっては滑稽な道化のようだった。英雄ラウンデル像。それがこのがらくたにつけられた唯一の価値だった。
「これるわけないよ、何年も前に死んでるんだし」
「そういうことを言ってるんじゃないんだ」
ディエゴはただじっと、そのがらくたを見つめていた。
「もう朝になるね」
空を見上げてネルが呟く。一体幾度、この瓦礫の街で朝を迎えたかはわからない。そのたびに、ネルはこんな風に呟いていた。まるで朝になってほしくないと、そう願っているように見えて二人は口を閉ざしてその物憂げな表情を見つめる。それがいままでの朝だった。
「朝になる。そうだ、朝になったんだ」
「え?」
「今日から僕達は違う」
「ああ、そうだ。きっと、朝が楽しみになる、きっとだ」
ノイもディエゴも笑った。釣られるようにネルも小さく微笑んでくれた。