前編
――眠れない。
ベッドから起き上がり、眼鏡を掛け直す。そして机の上にあるタバコとライターを持ち、ベランダへと出た。
外は肌寒く、眠ろうとして少し暖まっていた体を程よく冷ましてくれた。
カチリ、と。取り出したタバコへ火を点ける。
マンション5階のベランダから見る夜の町は普段よりもずっと暗く、透き通る静けさがあった。
ゆっくりと煙を吸い込み、ゆっくりと紫煙を口から吐き出した。
煙は夜の闇に吸い込まれるように、静かに消えていく。
こんな眠れない夜、いつもあの頃のことを思い出してしまう。
もう10年も前になる高校時代のことを、だ。
あの時の僕は、新しく始まる高校生活に期待と不安を抱えたまま、自分の教室へと初めて入った。
中にはもう十人ほどの生徒が席についていたり、辺りをキョロキョロと見たりしている。不安なのは自分だけじゃないと知り安心した。
そしてそこで僕は止まってしまった。どの席に座ればいいかも分からない、どこで待てばいいのかも分からないからだ。
教室内には先生の姿もなく、自分は途方にくれながら教壇に何かないかと近づく。
それらしき物を見つけ、ほっとしたときに声をかけられた。
「席、出席番号順みたいだよ?」
目の前にいたのは、当然名前も知らない人。これから一年クラスメートとなる、黒髪の女の子。
特別可愛いわけでもなく、格別な魅力があったわけでもない。
だが、彼女を見たときの僕には違った。
頭の上から足の先まで電撃が奔るような衝撃。それは、実際に自分の体が震えたのかと思うほどだった。
……陳腐な言い方になってしまうが、僕は彼女に一目惚れをした。
教室の席は、まず男子が出席番号順に並び、次に女子が出席番号順に並ぶ。
必然的に、男女が接している列は一列だけであった。
出席番号で僕は後ろから二番目だった。
つまり、僕の隣には女子たちが並ぶ列がある。そして、あの時の彼女は出席番号では前の方。
……僕の隣となっていた。
隣の席に一目惚れした相手がいる、これは運命だ。
そんなことを考える余裕は僕にはなかった。
ただ、彼女と何とか話したいとだけは漠然と思っていた。……ただ、思っていただけだった。
始めてだった、こんな気持ちは。だから自分は必死だった。
でも、そんな壁はあっさりと砕かれた。
彼女が平然と僕に話しかけてきたからだった。
「隣の席だったね。私、〇〇。よろしくね!」
「あ、僕は□□、よろしく」
彼女と話せた、そんなことが嬉しかった。もしかしたら、もっとたどたどしかったかもしれない。顔も真っ赤だったのかもしれない。でも、それで十分だった。
それから数日、男子と女子の入り混じったグループが出来るのに時間は掛からなかった。
僕も運良く、そのグループにいた。……彼女も同じグループだった。
毎日、同じグループの男子、同じグループの女子と話した。放課後に教室で遊ぶこともあった。
でもそれ以上の進展はなかった。
彼女はテニス部に所属しており、放課後はあまり一緒にいることができなかったからだ。
そんな中で、委員を決めることとなった。
僕はジャンケンに負け、保健委員となった。正直、面倒だし他のやつがやってくれればいいのにと思ったのを覚えている。
だけど、そんな気持ちはすぐに吹き飛んだ。
「じゃあ、女子で保健委員をやる人を決めてくれるか」
「先生! 私やります!」
手を上げたのは彼女だった。
さっきまで女子たちも委員をやりたくなく、全員が渋っていた。でも彼女が立候補してくれたのだ。
僕は彼女と一緒に保健委員がやれることが嬉しかった。でも彼女はなぜ立候補してくれたのだろう? たぶん、早く部活に行きたくて仕方なく立候補したんだろう。僕は、そんな風に考えていた。
「□□君、よろしくね」
「うん、よろしく」
彼女は僕が一目惚れしたということに気付いていない。
だけど、僕も全く彼女のことを分かっていなかった。ただ彼女と一緒に入れる時間が増えたことだけを、喜んでいる大馬鹿者だった。
そんな折、グループ内では携帯電話が流通し始めた。僕はまだ持っていなかったのだが、すごくみんなが羨ましかった。
そして、彼女も携帯電話を持っていた。
当然の様に、持っている人たちの間で番号やアドレスが交換され始める。
彼女はいきなりこちらを見ると、僕にこう言った。
「□□君は、携帯電話持ってないの?」
「あ、うん」
「そっか……。メールとかしたかったけどしょうがないね」
その言葉で僕は思った。メールをすればもっと仲良くなれるかもしれない!
「でも今度買う予定なんだ」
嘘だ。そんな予定なんてない。彼女と仲良くなりたい、その一心から来るつまらない嘘だった。
だがそんなことを知らない彼女は、とても嬉しそうな顔をして僕を見た。
「そうなんだ! 買ったらすぐ教えてね!」
その後のことは言うまでもない。
僕は家に帰った後、両親に頭を下げて携帯電話を買わせてもらった。携帯料金はバイトをして自分で払うと約束もした。
両親もそれなら構わない、使いすぎない様に、と。あっさりと許しが出た。
次の休みの日、僕は渋る母親を引っ張り出し携帯電話の契約をした。受け取れるのは数日後らしい。
その日が待ち遠しくて、嬉しくて、まだかまだかと待っていた。
そして携帯電話をついに手に入れた僕は、学校に意気揚揚と持って行った。
だが、意気揚々としていたのはそこまでだった。
携帯を買った! そんな簡単な一言が、僕の口からは中々出て来なかった。
そんな時に、隣の彼女から手紙を渡される。
教室内で手紙を回すことも流行っていた。誰に渡すのだろうと彼女を見ると、どうやら自分への手紙らしい。
誰からだろうと開くと、その手紙は彼女から自分宛の手紙だった。
『これ私の番号とアドレスだよ! 携帯買ったら登録しておいてね』
僕はその手紙を見て、すごく嬉しかった。彼女の方を見ると、彼女は少し照れくさそうに笑っていた。
そんな彼女を見て、僕は恥ずかしがりながら携帯をポケットから取り出し、彼女にそっと見せた。
彼女は驚いた顔をした後、嬉しそうに笑ってくれた。
僕は授業中にも関わらず、隠れて彼女の番号とアドレスを登録した。
アドレス帳には、家族に続き彼女の名前が並ぶ。そんなことが、すごく嬉しかった。
メールを送ることが恥ずかしく、僕は手紙を書いて彼女に渡す。内容は僕の番号とアドレスだった。
彼女は不思議そうな顔をしたが、携帯の操作に慣れていないのだろうとでも思ったのだろう。番号とアドレスを登録して僕にメールを送ってくれた。
『初メール! 私が一番最初だね、いつでもメールしてね!』
僕はそんな彼女のメールにドキマギしながらも返事ができなかった。休み時間に、ありがとうと伝えるので精一杯だった。
そして僕の書いた手紙はなぜかクラス中に周り、僕の携帯には皆からの番号やアドレスが送られてきた。てんやわんやしながら、必死に登録をした。
メールをすれば彼女ともっと仲良くなれる。
そんなことを考えていたのに、僕は他の男子や女子とメールをするだけで、彼女には一通のメールも送れずにいた。
授業中にお互いの携帯をワン切りして驚かせたりすることも流行っていたが、そんなことすら彼女にはできなかった。
そして、僕が一通のメールも送れないまま、彼女が学校に来ない日が来る。
ホームルームで先生が皆に伝える。
「〇〇さんは入院されて、一か月ほど学校に来れません」
その言葉を聞いた僕は、崩れ落ちそうになった。
みんなが代わる代わるに、どうしたんだろう、大丈夫かな? メール送ってみるよ。そんなことを言っている。
皆があっさりとメールを送れることがすごく羨ましかった。
僕は何度もメールを作り、送信できない。こんな簡単なことができなかった。
それでも僕は、精一杯の勇気を振り絞り、何とかメールを送った。
『大丈夫? みんな心配してるよ』
気も利かない、本当にくだらない短文だった。
だが、それが僕の精一杯だった。
そして、すぐに僕の携帯が震える。送信相手は彼女だった。
『初メールだ! 嬉しい、ありがとう! すぐに学校いけるようになるね』
嬉しかった。とても、とても嬉しかった。
それからだった。僕が彼女とメールをすることが出来るようになったのは。
毎日、授業中も、夜も。たわいもないメールを50通も100通もやり取りした。
メールの受信にも送信にもお金がかかる時代に、そんなことは全く考えずにメールをし続けた。
――当然、その月のメール代がひどくて親に怒られたことは、言うまでもないことだった。