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新生 学校の怪談  作者: 周防まひろ
第一章 復活ノ刻
9/58

トイレの怪

 

     23


 常盤台南小学校の校舎は二棟からなる。運動場に面した表校舎、中庭を挟んだ裏校舎である。それぞれ、南棟と北棟という名称はあるが、大抵の生徒は分かりやすいように、表と裏で区別していた。それは翔のいた頃から変わらなかった。

 三時間目が始まってから、裏校舎の三階、五年生の教室が並ぶ男子トイレの個室、その一番目に翔はいた。何かあれば逃げやすい場所だし、未来を早く合流できる理由として選んだ。

 本日二本目のフィルターを口にくわえながら、彼は新たに書き込んだ手帳を読み直していた。

 この学校もかなり様変わりしているのに、まずは驚かされた。校庭にあった丸太のアスレチックはなくなり、代わりに芝生の小山になっていた。ブランコの数も減ったし、大きな滑り台もない。校舎も壁面に太い鉄骨で固定され、窓にはネットが張られている正門もオートロックで物々しく厳重になっていた。教室の数も減って、各学年は四クラスになっている。便所も昔より綺麗になって、便座もウォシュレットになっていた。障がい者用のエレベーターもあったし、天井の照明もまぶしいぐらいだし、手洗い場も手をかざすだけで自動で流れるし、手を差し込むだけで強力な温風で乾燥してくれる。

 とどのつまり、すごくゴージャスになっていた。

 あまりにも理不尽すぎる。自分の頃はトイレなんて汚かったし、手洗い場の石鹸だってあまりなかったし、楽しい危険な遊具だってたくさんあった。

 深い息を吐くと、翔は本題に取り掛かった。

 未来には黙っていたが、昨日から消えた子供はあの四人だけではなかった。あの時間帯、他に残っていた生徒もいたようだし、今朝早く学校に来て、運悪くワタルの犠牲になったのもいる。

 一人で人気のない場所にいれば、奴はいつでも現れる。逆に言えば、周りに人がいる場所にいれば、襲われる事は滅多にない。だから、九五年の時、なるべく教室の中以外でも人ごみに紛れたし、用を足すのも誰かが数人いるのを見計らっ。もっとも、複数でいたら絶対に安全という保証は何もない。相手は人間ではないのだから。

 翔はメモに書かれた人数とクラスを凝視した。


 四年一組が女子二人。

 六年二組が男子一人。


 あの四人の他に、今のところ、新たに三人がワタルの犠牲となった。彼らがいつ襲われたかは不明だ。昨日の放課後に、未来達の他に誰かが残っていたかもしれない。もしくは今朝、日直か何かで早く学校に来てしまい……というのも考えられる。いずれにせよ、目を覚ましたワタルの猛威はすでに始まっている。 

 奴は無差別に子供をさらっている訳ではない。選んでいる。その理由は、奴の魔力と密接に関係している。それに気づいて自分に教えてくれたのは、かつてのクラスメイトだった。翔にとって、ワタルの襲撃のヒントを知るきっかけになった。

 もっとも、それなりの代償を払う羽目になったが。


      24


 一九九五年六月末。その日は朝から小雨が降り続いていた。空も暗雲で夜のように暗く、不快な湿度が肌にまとわりつき、憂鬱な朝に変えた。

 騒動と遭遇の日から一夜明けた翌朝、通学路を一人でトボトボと歩きながら、昨日の出来事を思い出していた。昨日の夕方、おれは野村のお守りに入っていた住所の書かれた紙を頼りに、あいつの家を訪ねたのだ。もしかすると、あれはすべて夢か幻で、本物のあいつは家で休んでいるだけかもしれない。そんな希望を早く知りたいと思ったのだ。

 野村の家は、学校からかなり遠い区にあった。そこを通り過ぎれば、別の学校が目の前にある。後で聞いた話だが、そこの学校が定員割れになったため、あいつは常盤台南小に行かざるを得なかったらしい。

 玄関から出てきた野村の母親に、おれは単刀直入に聞いた。

「あの、健斗くんはいますか? 同じクラスの黒澤と言います」

「健斗……? うちにはそんな子はいないわよ」

 その時、別の少年が顔を出した。健斗の兄だろう。

「どうしたの、お母さん?」

「うちに健斗っていう子がいないかって、聞いて来ている子がいるの。うちには、この子しかいないわよ。人違いしてるんじゃない?」

 家族がいないと言い張る以上、こちらが食い下がっても埒が明かない。彼らが嘘をついているようには見えないのが、余計に不気味だった。

 おれは一応謝ると、野村家を後にした。

 野村健斗は消えてしまった。文字通り、この世から存在を抹消されてしまった。あの魔物、ワタルに。あいつは消える寸前、次はおれの番だと言った。

 一体どうすればいいんだ……。

「黒澤くん!」

 後ろから呼びかける声がした。学級委員の竹井寛和だった。朝っぱらから鬱陶しい奴に出会ったしまった。

「おはよう、黒澤くん。この間は大変だったね」

「何が?」

「佐奈田先生の息子を殴っちゃった事だよ。あの後は大丈夫だった?」

「なんとかな」

「そうか、よかった何もなくて」

「ところでさ、学級委員の家って、この近くだっけ?」

「そうだよ。黒澤くんの家とはすぐ近くだから、時々会ったりするよ」

 竹井の言う通りだが、何かがおかしい。そもそも、今日に限ってあの騒動の結果を聞きに来るなんて。まあ、教室ではハブられてる俺と口を聞くのは、少しやり辛いだろうが。

「学級委員の家の方が学校から近いだろ。わざわざ、こっちに戻っておれを待ちぶせしてたのか?」

「うん、待ち伏せうをしてた」

「え?」

 竹井はあっけらかんとそう答えた。おれは正直引いた。昨日といい、今といい……まさかな。

「昨日の事が気になったんだ。あの時、僕が彼らを止めていれば、黒澤くんが辛い目に合わなかったかもしれないのに。僕って、学級委員失格かな」

「転校させられそうになった」

「ええっ!」

「でも、校長が擁護してくれたから助かった。原稿用紙一枚の反省分で済んだ」

「そうなんだ。よかった」

 あ、そうか。何かをひらめいたので、俺はすかさず言った。

「学級委員が校長に話してくれたおかげで、ホントに助かったよ」

「校長先生、僕の事を話しちゃったの?」

 竹井は自分の失言に気づいて、すかさず口を噤んだ。分かりやすい奴だ。

「お前か。校長にチクったのは?」

「ごめん。心配だったから、つい……」

「余計な事しやがって」

「校長先生は僕が言ったって話したんだね」

「話してねえよ。ふん、そんなに怖いなら最初からしなきゃいいんだろうが」

「僕にも責任があると思ったんだ」

「責任?」

「あの時、僕は佐奈田くん達を止めるべきだったんだ。それなのに言い出せないまま、馬鹿みたいに何もできずに」

「あれはおれの自爆だ。もう、もめごとは起こさないから安心しろ」

「黒澤くんが気と使う事ないよ。でも、どうして、あの三人は君をいじめるの?」

「俺はいじめられているつもりはない。あいつらが勝手に絡んでくるだけだよ」

「でも、黒澤くんは何も――」

「しつこいな。もうおれに関わんな。もう、誰ともつるむ気はないから」

「分かったよ。だけど、もしも、何か悩みがあったら、僕に言ってくれよ」

「なんで、お前に言わないといけないんだ?」

「僕は学級委員だから」

「それだけ?」

「そうだよ。クラスメイトが困っていたら助けないと」

 馬鹿馬鹿しい。俺は竹井を無視して足早で学校へ向かった。

 こういう奴が大嫌いだ。人当たりが良さそうで、本当はこちらの都合なんて何一つ考えていない。貧乏人を助ける自分に酔っているだけだ。

 親父が死んでから、一体どれだけそんな奴が近づいては離れて言っただろう。皆は口をそろえるように言う。私でよければ、相談に乗る。力になるよ。一人で背負いこまないで。ああ、もうたくさんだ。

 学校に着いてから廊下を進んでいると、視界の端に映る奇妙な光景に足を止めた。

 他のクラスの教室の中にある机の数が極端に少ないのだ。生徒の数も二十人もいない。もうすぐ予鈴が鳴るのに……。他のクラスも同じだった。

 まあ、気のせいか。俺は五組に入ると、いつものように蜘蛛の子を散らすようにクラスメイトは押し黙ったが、その数に俺はまたある事に気づいた。

 佐奈田先生が来て、無味乾燥な朝礼をしている間、教室の中にいる奴らの数が少なかった。知っている名前が何人もいなくなっている。机の数も好きない。五年五組は二十八人いたはずなのに、今は二十一人しかいない。どういう事だ。俺はすぐに昨日の事を思いめぐらした。野村の時と同じだ。あいつも存在を消されたようにいなくなった。

 このクラスにもいるのだ。あの怪物に。あのワタルに捕まり、どこかへ連れ去られた奴らが。

 休み時間になり、用事を済ませてから机に座った途端、尻に激痛が走った。何かが突き刺さったようだ。ズボンからポタポタとガビョウが床に落ちていく。同時に誰かが小さく笑った。

 安堂寺と三宅と数人が離れた場所から、こちらの反応をうかがっていた。俺が睨みつけても悪びれる様子もない。

 そうか。佐奈田の一件から、俺が何も反撃してこないと踏んでいるのだろう。悔しいが手を上げれば、怒られるのはこちらだ。この嫌がらせだって、佐奈田の入れ知恵に違いない。

「どうしたの、黒澤くん? 血が出てるじゃないか!」

 竹井が飛んできて、ガビョウを拾い上げた。

「ひどい……保健室に行かないと」

「別にいい。大した事ないし」

「大した事だよ。消毒しないと」

「ほっといてくれ」

 おれは何も言わずに教室から出た。すぐ角にある男子便所に行くと、人がいないのを確認し、奥の個室に入った。ズボンをずり下げる時に突き刺さったままのガビョウがポトポと落ちた。傷口を感触で確かめると、掌に小さな血の点が付着していた。

「ちくしょう……」

 自然と口から出た言葉。そして、目の周りが熱くなって来る。何かがこみ上げるのを必死に抑えた。

 泣くものか。こんな事しかできない奴らのために泣きたくない。おれは負けたくない。

 今に始まった事ではない。低学年の頃から感じていた疎外感。中学年の頃になると、三宅が露骨に絡んでくるようになった。殴り合いの手前で、あいつを殴り返した事もある。五年になると、安堂寺が加わり、クラス中でハブられるようになった。

 父親がいない。しかも、家が貧しいという理由が、連中には気に食わないのだ。こっちが卑屈にならないのも、あいつらをいらいらさせるのだろうと、最近思うになった。

 そろそろ、次の授業が始まる。教室に戻ろう。いつまでこもっていても仕方がない。

 その時だった。真下の便器から何かが聞こえた。

「……赤い紙ほしい?」

 おれはぎょっとした。

「……青い紙がほしい?」

 どこかで聞いたフレーズ。

 そうだっ。赤い紙と青い紙の怪談だ。トイレに入った奴にさっきも同じように問いかける声。赤い紙がほしいと答えると、血まみれになって殺される。青い紙を選べば、全身の血を抜かれて、真っ青になって殺される。どちらを答えても殺されるパターンだ。

 ワタルだ。この間のような事がまた起きた。野村のお守りも引き裂かれた。今は母さんからもらったお守りを持っているが、そんな物で効き目があるのかは分からなかった。

「赤い紙ほしい? 青い紙ほしい?」

 便器の声がもう一度問いかける。一体どうすればいいんだ?

 このまま、何も答えずにいるとどうなるのだろう。まさか逃がしてくれる訳ではない。きっと、こちらが選ぶまで逃げられない。だが、一つだけ言えるのは赤も青も答えてはいけないはずだ。答えたら最後、死が待っている。俺は個室の端に固まって、終わりのない問いかけを聞き流し続けた。

 すると、しばらくして――。

「じゃあ、白い紙ほしい?」

 便器の声は確かにそう言った。一か八か、おれは答えた。

「白い紙をくれ」

 ……ふと、思った。白いと言えば骨。白骨死体にされてしまうのではないかと。

 その時、上から粉状の物が一斉に降りかかった。目の前は真っ白になる。俺は小さく叫んで、咄嗟に扉を蹴った。すると、今までびくともしなかったドアが開いたのだ。外に躍り出ると個室の中を確かめた。タイル張りの床が一面白くなっていた。

 恐る恐る近づいて、それに触れた。チョークの粉だ。手洗いの鏡に映るおれの頭は真っ白になっている。まるで老人の白髪みたいに。

「白い紙……白い髪か。ふざけやがって」

 命を取られるよりマシと思うべきか。安心した矢先、さっきまで入っていた個室の隣から音がした。今まで気がつかなかったが、ドアが閉まったままだった。誰かが入っている。だが、おれは入ってから誰かが来たような音は聞こえなかった。

 よせばいいものだが、どうしても気になった。おれ助走をつけてドアの前でジャンプした。そしてヘリを掴んで、個室の上から中を覗いた。

「うわあ!」

 相手は驚きの声を上げた。少なくとも妖怪には見えなかった。見知らぬ(と言っても知ってる奴なんかほとんどいないのだが)顔の奴が慌ててポケットに何かを隠したが、口にくわえているそれを隠す余裕はなかったようだ。おまけに個室の中は煙が漂っている。

「なんだ、君は? 覗きをするなんて失礼じゃないか!」

 そいつは加えていたフィルターをトイレに流した。

「なんだよ、お前?」

「そっちこそ何だい。タバコを吸う小学生がそんなに珍しいのか?」

 俺は床に着地すると、ドアの向こうからそいつが出てきた。喫煙していたのを悪びれる様子はない。

 背の低いチビだった。女みたいな顔をしているが、口ぶりはすごく生意気だ。名札はしていないが三、四年生ぐらいか。自分より年下の奴がたばこを吸っているのは、ある意味衝撃的である。

「困ったな。いくらなら黙っててくれる?」

「別に気にしねえよ」

「そうか。さては、何か目的があるのか?」

「何もないって。金払うほど有名人じゃないんだから」

「何だと! この僕を知らないというのか!」

 目の前の少年は、おれなんかとは比べ物にならないほど服装が洗練されている。整髪料で撫でつけたようなでオールバックにしている。大人の女がするような香水のにおいまでした。

 そいつはポケットから一枚の名刺を渡してきた。


 青空 小宇宙

 リトル・スター★芸能プロダクション所属

 

「あのさ、質問していいか? その名前がお前の名前だよな?」

「そうだよ」

「なんて呼ぶんだ?」

「僕を知らないなんて、君はどうかしてる。そうか、ミーハーなものは嫌いなのか。テレビを付けたら、五分に一回は、僕の顔を拝めるはずだぞ」

「家にテレビがない」

「嘘つけ。日本国民が僕を知らないなんて、警察に逮捕されるぐらいの犯罪ものだ」

 大袈裟に胸を張ると、青空は言った。

「僕の名は、あおぞらこすも。百年に一人の逸材と言われている、天才子役だ。今日は一年ぶりに学校に来たんだ。黄色い声援とサインくれの嵐だったな」

「小さな宇宙と書いて、“こすも”って呼ぶのか?」

「そうだよ。自分で考えた芸名だ。なかなか洒落てるだろ?」

 おれは口を固く閉じて肩を震わせた。ダメだ。これ以上、こいつの前にいたら笑ってしまう。本人にも失礼だ。

「どうしたんだ、君? 具合でも悪いのか?」

「い、いや、違う……」

 俺はトレイに出ようとするが、青空が手を掴んできて逃がしてくれない。

「分かったぞ! そうか、なかなか会えない天才子役を目の前にして緊張してるんだろ。うん、うん分かるよ、その気持ち。僕も撮影現場で大物俳優の大先輩を前にすると石になっちゃうもの。よし、さっきの口止め料として、これをやるよ」

 そう言うと、そいつはどこからともなく取り出した大きな色紙にサインを書いて、それをおれに渡した。

「こいつを大事に取っておけ。僕がいずれ子役から脱皮してアイドルか俳優になって、晴れてハリウッド二まで進出した頃には、きっと、すごいプレミアがつくだろうから」

「プラモ?」

「プレミアだ。すごい価値になる。君の家の家宝にするといいよ」

「お、おう」

 そう言うと、あいつは颯爽と自分の教室に戻って行った。

 喫煙中の天才子役か。うちの学校には変な奴ばかりいるな。教室に戻ると、朝礼は終わっていた。佐奈田先生の姿もなかったのは安心した。

「大丈夫だったかい?」

 席に戻ると、待っていたと言わんばかりに竹井がやって来た。本当にうるさい奴だな。

「もう平気だよ」

「本当?」

「ああ、保健室にも行ったし」

「そうか、よかった!」

「それよりさ、いいのかよ? ハブられている俺に話しかけても」

「君がハブられてる? そんな事ないよ。安堂寺さんや三宅くんはともかく、他の人は黒澤くんをいじめたい訳じゃないんだ。ただちょっと怖くて近寄りがたく思っているだけだ」

「正直な感想だな」

「皆に心を開いていったら、気が楽だと思う」

「俺が意固地だからいけないのか?」

「黒澤くんはあの二人がいなくても、いつも誰にも話しかけずに一人でいるよ。誰かが話しかけようとすると、怖い目で睨んで。それじゃあ、友達もできない」

 竹井の甘い見通しを聞いているうちに、俺は体中が冷たくなるのを感じた。脳裏によみがえるのは、親父がいなくなってから変わった生活の日々。疎外された学校生活の始まりだった。

 いじめを注意してほしくて、初めて担任に頼んだ時に言われた一言が今でも忘れられない。

『でもね、黒澤くんにも落ち度があると、先生は思うよ。もっと、皆に心を開かないと。それに身だしなみも整えて……』

「委員長って、ズバッて言うんだな」

「うん。そうじゃないと人に思いは伝わらない。黒澤くんもそうだよ」

「お前も、父親がいなくなった暮らしをすれば分かるさ。貧乏な暮らしをすれば、心を開くなんて事が夢物語であるかすぐに分かるだろうよ」

「黒澤くん……ごめん。君が傷ついたなら謝るよ」

「ふん、優等生が」

 俺はちらっとあいつを見た。申し訳なさそうに顔を下げている。まるで、こちらが悪者になったみたいじゃないか。

「おれも言い過ぎたよ。これ、この間の礼にやるよ」

 さっきの子役からもらったサイン色紙を竹井に渡した。どうせ、すぐに捨ててしまう予定だった。すると、あいつは大声で叫んだ。

「すごい、これ、コスモくんのサインじゃないか! どこでもらったの?」

「便所」

「そうか。休み時間にトイレでいたら会えるかな」

 あいつは本当にうれしそうな顔を浮かべていた。


   25


 隣の個室から響いた物音に、翔は回想を中断した。

 二十年と同じ轍を踏まないように、便器にふたのある様式を選んでいたが、やはりトイレに一人でいる迂闊だったか。自分だって、ワタルに狙われない保証はない。むしろ、一番恨んでいる相手だろう。

 翔は便器の蓋の上に乗り、仕切りに手を掛けると、ゆっくりと隣の個室を覗いた。同時に、中にいた人物と顔が合い、どちらも悲鳴を上げる羽目となった。

「うわぁ!」

 翔は床に落ち、相手はきっと、後ろに下がった勢いで頭を壁に打っただろう。

 個室から出ると、相手も顔を出していた。

「なんだ、子供か?」

 三十代前半ぐらいの男だった。髪の毛を後ろに撫でつけている。着ているスーツはやたら高級そうだった。

「タバコを吸っているのか?」

 フィルターを口にくわえたままなのをすっかり忘れていた。翔は悪びれもしなかった。

「タバコを吸う小学生がそんなに珍しいですか?」

「いいや。珍しくない。吸いたい奴だけが吸えばいいだけだ」

 おかしな感覚だった。これに似たような状況が前にもあった様な気がする。それがいつどこで会ったのかは残念だが思い出せなかった。少なくとも、目の前の男は教師ではないだろう。教師ならば、かなり問題がある。

 男もまたタバコを吸っていた。

「ホントに最近の学校は、どうしてこう、喫煙コーナーみたいなのがないのかねえ。タバコも値上がりしてるし、ますます、我々みたいな愛煙者の肩身が狭くなってる。賭けてもいいが、坊やが大人になる頃には、タバコは千円になって、家で喫煙してても犯罪になっているかもしれない」

 男はぺらぺらと、軽い口を動かす。良くしゃべる奴だなと思いながら、翔は彼の話を聞いた。

「ところで、おじさんは誰ですか? 先生ではないですよね」

「ちょっと仕事でね。これでも忙しいんだ。今はマネージャーから隠れてタバコタイムなんだけどね。まあ、昔はもっと忙しかったけどな」

 その時、トイレの入り口が開いた。眼鏡をかけた女性が顔を出す。

「青山さん、ここにいたんですか! 早くして下さいよ。撮影始めますよ」

「へいへい。じゃあ、これは記念に取っておいてくれ」

 男はそう言うと、一枚のサイン色紙を手渡した。『佐藤太助』とあった。聞いた事のない名だが、この時代では有名なのだろう。

 男がいなくなった後、二時間目の終わりを告げる鐘が鳴った。廊下に出ると未来と落ち合った。

「これやるよ」

「サイン? 誰の?」

「学校に来てるタレントらしい。有名人のだと思う」

 未来が言うには、隣の二組でテレビの撮影をしているらしい。

「ふうん……でも、佐藤太助なんて聞いたことないよ」

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