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新生 学校の怪談  作者: 周防まひろ
第一章 復活ノ刻
7/58

遭遇

 

      16


「翔ちゃん?」

 開いた扉の向こうから現れた相手に、おれは拍子抜けして張りつめていた警戒心を緩めた。

「母さん」

「何をしてるの? さあ、帰りましょう」

「母さん、どうしてここにいるんだよ?」

「教室まであなたを迎えに行ったの。だけど、あなたの姿がなくて、ここまで探しに来たのよ。さあ、遅いから帰りましょう」

 いつも聞き慣れていた母さんの声に安堵してしまい、おれは歩み寄ろうとした。だが、足が固まった。背中に悪寒が走る。何かがおかしい。目の前に立つ母さんに違和感があった。それが何なのかが判然としないので、余計に気持ち悪く思った。

「佐奈田に酷い事言われたのか?」

「もう、気にしないで。翔ちゃんは何も悪くないの」

「でも、おれのせいで……」

「あなたは正しい事をしたの」 

 母さんはゆっくりと歩み寄る。

「バカな人にはね、手を上げてでも分からせたらいいのよ。思い知らせてやるの。自分の方がずっと偉くて、ずっと強いんだって」

 いつもの母さんから想像できない言葉だった。おれの知っている親は、暴力を嫌っていたはずだ。母さんはいつも、父さんの遺言を聞かせてくれた。暴力で物事を解決する人に、誰も信じてくれないと。

 ふと、自分の足元に目を落とした時だった。突然、違和感の正体に気づいてしまった。あるべきものがない。気持ちが悪いほどに優しく、おれの暴力を擁護する母さん。

 その足元には影がなかった。

「翔ちゃん?」

「お前は母さんじゃない」

「何を言ってるの。あなたのお母さんでしょ?」

 母さんじゃない何かは、扉から離れている。旋回して扉から逃げるには今しかなかった。脚に力を込めて左に走り出した。

頭の中が空っぽになる。

目指すは入口の扉――。

 だが、乱暴な力に肩を掴まれた。いつの間に、母さんの姿をした何かが眼前に立っていた。たった数秒の間にだ。

「どこに行くの、翔ちゃん?」

「は、放せ!」

「駄目じゃない。お母さんにそんな事を言って。誰のせいで、こんな顔にされたと思ってるの?」

 母さんの姿をしたそいつの顔は、全くの別人に変わっていた。青白い肌をした細面の女だった。目だけが異様に大きく。瞳孔が猫みたいに大きい。そして、顔の下半分は大きなマスクで隠されている。

「ねえ……わたし、きれい?」

 女が聞いた。そのフレーズはどこかで覚えがあった。きれいだと答えてはいけない。なんとなく、そんな気がした。

 女は両手でおれの首を掴んで一気に持ち上げた。恐ろしい力が気道に食い込んだ。自分の脚が床から離れる。ジタバタ暴れたが、女の手はびくともしない。

「きれいかって聞いてんだよ!」

 ダメだ。答えてはいけない。そう思った矢先――屋上に誰かの笑い声が響いた。。

「きれいって言ってやれよ」

 別の声が言った。屋上の縁の上に、一人の少年が腰をかけていた。さっきまで、おれとマスクの女しかいなかったはずなのに。

「お前は、もう逃げられない」

 黒い学生服を着た、半ズボンのガキだった。年は同じぐらい。いや、年下にも年上にも見える。はっきり言って、子供というだけで何歳かはっきりと分からない。

 その特徴のない坊主頭の丸い顔は、血管の青い筋が浮かび、大きな口からは邪悪な笑みを浮かべていた。充血したような赤い瞳は異様に大きく、輝く視線をこちらに向ける。

 直感的に、おれは思った。こいつは人間じゃない。目の前の女もきっとそうだろう。

「野村健斗はうまかった。お前はどうかね? 少し臭いが、喰い甲斐がありそうだな」

「お前がワタルか?」

 ガキはクスリと笑ったまま何も言わない。

「あいつをどうした? 俺をどうするつもりなんだ」

「知らなくてもいい」

 あいつの口を大きく開いた。そこから覗く歯の並びは異常に多い。まるでサメの牙のように隙間なく口の中に広がっている。

「お前も同じ目に遭う。つまり、オレの肥やしになるのさ。生きながらにしてな」

 女がさらに首を締め上げる。気が遠のく寸前、無我夢中で足をばたつかせた。女の腹や顔を蹴り上げる。口元のマスクがはじけ飛び、腕の力が一瞬だけ緩んだ。

 地面に落ちたおれは、女の顔を見た。マスクの下から現れたのは、耳まで伸びる口だった。顔の上半分が後ろにめくれ上がり、逆さからおれを睨みつけた。

 おれは逃げようと縁の向こうを越えた。その先は、足を踏み外したら下にまっさかさまになる。眼下に広がる校庭が赤く染まっている。それが大きく歪んで人の顔に変わった。

「飛び降りろ」

 ワタルは言った。

「お前は生きる価値のない人間だ。親にも見捨てられて、友達もいない。さっさと、オレに喰われて楽になれ」

 手すりの向こうには、大きな口を露わにさせた女が待ち受けている。その手には血みどろになった糸鋸を携える。

 目の前にいる口の裂けた女はどう見ても人間じゃない。あのガキもそうだ。野村はこんな化け物どもに襲われた。おれも二の舞になる。

 ――口の裂けた女。

「え?」

 ポケットから別の声が聞こえた。

 ――口裂け女は、ポマードが嫌い。

 おれはとっさに、その声に耳を傾けた。

 ――三回唱えて。

「ポマード」

 女の顔が歪んだ。一瞬ひるんだように見えた。

「ポマード」

「があぁっ! 言うな! 止めろ!」

 女が頭を抱え出した。充血した両目から黒い涙がにじみ出て、顔に滴り落ちた。

「ポマード、ポマード、ポマード、消えろ、化け物!」

 女の体から一気に炎が上がった。けたたましい断末魔が響き渡らせ、瞬く間に口裂け女は火ダルマに包まれる。のた打ち回る黒い塊は、やがて灰に変わった。

 おれは柵を飛び越え、屋上を駆けて目的の扉の前に到達した。早く逃げないと。その時、何かの力が俺をドアから引っぺがした。巨大な足が俺の体を掴んだのだ。

「うわあっ!」

 急に体が浮き上がった。鋭い爪を持った細い脚、大きく広がる赤い翼、猛禽類の鋭いくちばしと、空洞の目を持つ鳥だった。何倍もある大きな鳥だった。おれの体を軽々と持ち上げながら、赤い鳥は空へと舞い上がる。眼下の校舎が徐々に小さくなっていく。

「極楽鳥だよ」

 あいつの声がした。鳥の上に乗りながら、あいつがケタケタ笑う。強い風が頬を叩いた。

「亡者をあそこへ連れて行く。地獄の鳥だ」

 ワタルが指さす方には、銀色に輝く山がそびえていた。暗雲の下、それは無数の針が飛び出す山だった。所々に、骸骨が突き刺さっている。その中に見慣れた服をきた白骨があった。野村だ。

「あいつは地獄へ落ちた。お前も串刺しになるといい」

 ちきしょう! そうなってたまるか。何か手はないものかと、おれはポケットの中を探した。すると、ある物を見つけた。野村のお守りだった。

 考える間もなく、俺はそれを強く握りしめた。すると、鳥の飛行が上昇したり、下降したりを繰り返した。苦しそうにもがきながら、何度も針の山の上を旋回する。

「お前、一体何をした?」

 ワタルが四つん這いに近づいてきた。関節がおかしな方向に曲がる。その顔は憤怒に燃え、人間の形をとどめていない。大きく歪んだ手がおれの体を鷲掴みにした。

「オレから逃げられると思うな、黒澤翔!」

 ワタルが手を放した。中空に放り出され、支えがすべて消えた。後は重力のまま、風に包まれるようにして、おれは落ち続けた。暗い、暗い闇の底に向かって。

 一旦、意識が途切れた。


  17


「気がついたら、踊り場に倒れていた。もちろんだが、そこにはワタルも口裂けの姿もなかったし、屋上への扉には鍵もかかっていて出られなかった。夢か幻だったのかもしれない。当時はそう思ったよ。野村と、あいつのお守りを確認するまではね」

 翔は長い話を終えると、大きく息を吐いた。

「それでどうなったの?」

「もちろん校長室へ戻ったよ。さすがに一人で教室にはいられないからな。あの日以来、憩いの場だった踊り場には、二度と行かなかった」

 何だかそわそわしたようにポケットをまさぐっている。どうやら、つい先ほど取り上げた煙草を探しているようだ。外でなら吸ってきてもいいかもしれない。

「これじゃないの」

 隠し持っていたタバコを返してやると、「悪いな」と彼は恥ずかしい笑顔を浮かべた。

「吸い過ぎたら肺がんになるよ」

「分かってるよ。にしても、三丁目の角にタバコ屋の婆さん、まだ生きてんだな」

「吉岡さんの事?」

 タバコ屋の吉岡さんは、副業に書道の教室もしていた。未来は四年生の頃まで通っていた。その時でも八十歳は軽く越えていたはずだ。

「最初は自販機で買おうと思ったんだが、カードか何かないと買えないらしいんだ。そんで、あの店に行ったんだ。親の代わりに買いに来たって言ったら、あの婆さんは疑わしそうにしていたよ。相変わらずだな。でもまあ――この町もだいぶん変わったな」

「浦島太郎みたい?」

「ああ。駅前に大きなデパートがあったんだ。サニーサイド・タワーって言うんだが、そこの最上階で、アーケードの他に、家庭用のゲームができる広場があったんだ。百円を入れたら、ゲームオーバーにならなければ、ずっとプレイができたんだ」

「ずっと、入り浸りだったんでしょ?」

「まあな。勉強だってそこそこやったぜ。でも、付き合えるダチなんていなかったから、一人で遊んだ。つらい事も忘れられたし」

 翔の言うサニーサイド・タワーのあった場所には、今では全国規模で展開している某ショッピングモールが建っている。未来が物心つく頃には親に連れられていたので、遠い昔の話になる。この時代には、翔の知るものは何も無くなっているかもしれない。そう思うと、彼が気の毒に思えた。

 当たり前のようにフィルターを口にくわえたので、未来はそれを取り上げる。

「外で!」

「へいへい」

 翔は窓に出ると、紫煙を吹かした。傍から見ると、小学生が喫煙しているという、由々しき光景に映っている事だろう。

「それで、どうなったの?」

「さっき話した通り、なんとか無事だった」

「その、キモいクラスメイトを殴ってさ。ホントにそいつの名前って、佐奈田っていうんだよね?」

「ああ。それがどうかしたのか?」

「ううん、いいの。それで黒澤くんは転校したの?」

「ああ、なるほど。話の続きをしよう。ワタルとの遭遇にすっかり気が動転したおれは、校長室に駆けこんだんだ」


   18


 死に物狂いに廊下を駆けると、滑り込むように校長室の扉を開けた。血相を抱えたおれの姿に、大人達は一様に驚いた。

「どうしたの、翔?」

「母さん、今、今……」

「黒澤くん。あなたは教室にいるはずでしょう。謹慎もできないのですか?」

 担任が冷やかな言葉を突き刺した。さっきの出来事を話すべきか迷った時、職員室に続く扉が開いた。全校集会でしか見た事のない顔であり、この部屋の主が入ってきた。

「校長!」

 教頭が驚きの声を上げる。

「出張に行かれたのはで……」

「いやあ、急に先方の都合が悪くなったので急きょ帰ってきたんだが。何かあったようだね?」

 白髪に白い髭がトレードマークの赤松校長は、好々爺か仙人を想起させた。

「いや、それが……」

 待っていたというように、教頭を押しのけるようにして、佐奈田先生は説明した。すると、校長先生は白いひげをさすりながら、低く唸った。

「さっき、入口にいた生徒から事情を聞いた。その内容とほぼ似ているね」

「それならば、話が速くて助かります。実は、加害児童の転校手続きを受理していただきたいのです」

「転校、とな?」

「ええ。五年四組の佐奈田清が、五組の黒澤翔くんに暴力で怪我を負わされたのです。さきほど、親御さんとの説明で決まったところです」

「ふうん……」

 校長はまた髭をさすりながら、おれを見た。忘れかけていた現実問題を思い出し、暗澹たる気持ちになる。もう転校でいい。こんな薄気味悪い学校にいたくはなかった。

「なるほどな。だが、僕が聞いたのはとは違う点があるようだね」

「と、おっしゃいますと?」

「件の児童の話によると、怪我を負った佐奈田清……おや、先生と同じ苗字ですか。こりゃあ珍しいですな」

「私の息子です」

「ああ、それは気の毒な事ですな。その清くんが殴られる前、彼は黒澤翔くんに対して、親を侮辱するような言葉を吐いたらしいじゃないか。具体的な事はここでは言及せんがな」

「え?」

 佐奈田先生の顔は固まった。無表情に焦りが生まれるのを感じ取った。

「栗田くん」

「あ、はい!」と教頭先生が慌てて返事をした。まるで威厳を感じない。宿題を忘れて、答え合わせで先生に指名された生徒みたいだった。

「君のご両親は隣の県に住んでいるね。もしも、今ここで僕が君のご両親を侮辱したら、どうするね?」

「そ、それは反論します。怒りますよ」

 怒る感じには見えない。先生に怒られる印象しか浮かばない。

「それはなぜかな?」

「自分の親の悪口を言われたら、誰だって気分を害します」

「そう、正解だ! 人を殴るのは確かによくない。暴力では何も解決せん。しかしな、何事も例外があるように、暴力を起こす原因も無視するわけにもいかない。佐奈田先生、ご子息と面談させてもらえんかな?」

「清は今、病院です」

「そうか。では、明日にでも話を聞く事にしようか」

「それは私が。親の私から聞く方がいいでしょう」

「おお、忘れておった!」校長が急に素っ頓狂な声を上げる。「実はもう、本人から話を聞いておるんじゃった」

「そんな……いつですか?」

「件の生徒からですよ、佐奈田先生。それで僕はその病院に向かって、佐奈田くんから話を聞いた。正直に話してくれましたよ」

「そんな、校長先生あんまりです。それではまるで、だまし討ちみたいじゃないですか」

「すまん、すまん。最近物忘れが著しくてな。学校運営には支障はない程度なんだが。まあ、今回は子供の喧嘩の範疇を出んと思うのだよ。栗田くんの言う通り、自分の親を侮辱されたら大抵は頭に来る。殴られたら、誰だって怪我をする。今回は喧嘩両成敗でどうだね」

「あの、校長先生。一つだけうかがっても宜しいですか? 密告した生徒は誰ですか?」

「佐奈田先生、子供の喧嘩に大人げない事は憚るべきだと思いませんかな。密告という言葉もあまりよろしくない」

 赤松校長は少し強い口調で言った。さすがの佐奈田先生は口をつぐみながら沈黙しながらも、俺や母さんを冷ややかな目で一瞥したのは忘れられない。

「では、黒澤くんの今後は?」

「そうだね……」とあごを撫でつつ、校長先生はいつもの飄々とした調子に戻った。「では、今週いっぱい、休み時間はここの清掃をしてもらおうかな。僕は掃除嫌いなんでね。それでいいですか、黒澤さん、佐奈田先生、それと、五年五組の黒澤翔くん」

「ありがとうございます」

 母さんは深く頭を下げた。おれもまた、同じように感謝した。なんだが、今更ながら自分のした事に後悔した。

「佐奈田先生はどうかね?」

「正直承服しかねます。父に、教育委員長にこの件を報告させていただきます。ぶしつけながら、今以上の処分を……」

 その時、扉をノックして、五年の学年主任が入ってきた。太鼓腹と二重顎の目立つ江原先生だ。

「なんですか!」

佐奈田先生がやや大きな声でどなり、上司であるはずの江原がたじろいだ。 

「すみません。佐奈田先生に御電話が」

「私に?」

「ええ、女の子で声で『佐奈田秋枝先生に』って。外国の名前でメリーさんと。先生の生徒さんですか?」

 佐奈田先生はいきなり血相を変えると、「失礼します」と校長室から逃げるように退出した。「うちの学校に外国人の生徒なんかいたかな……」と江原先生は、一人首をかしげながら後に続いた。

「校長先生、この度はうちの息子は大変ご迷惑をかけました。本当に申し訳ありません」

「もう謝らんで下さい、黒澤さん。学校というのは、本来子供の場所です。友好もあれば衝突も起きます。そこに子供のルールもある。大人である教師は、それを受け入れ、調整してやらんといかんのです」

 校長の方はおれの方に歩いてきた。

「君にはいいお母さんがいるな。あまり苦労をかけさせたらダメだぞ。分かったね?」

「はい」

「いい返事だ。ところで、君は佐奈田先生が転校を薦めてきた時はどう思ったね?」

「正直、こんな学校止めてやるって思いました。友達もいないし、その、良い先生も少ないし」

「翔!」と母さんが咎めた。

「では、今はどうだね?」

「分かりません」

「そうか。だが、この学校にも君を案じてくれる友人はいたよ。彼の注進に助けられたと言ってもいい。おっと、すまないが名前は聞かんでくれ。言わないでくれって釘を刺されたんでな」

 その時、佐奈田先生が戻ってきた。

「校長先生。私の方も反対はありません」

「そうかね?」

「はい。前言は撤回します。愚息が侮辱したというのが事実ならば、こちらにも非があります。仕方ありませんね。所詮は子供の喧嘩ですから。それに……」

「それに?」

「黒澤くんは、私の生徒の一人ですから。公私混同で邪険にした私の不徳も反省するべきでしょう」

 佐奈田先生は淡々とした口調でそう言った。さっきまでの激情が嘘のようだ。

「では、いいですか。この問題はこれでお開きと言う事で、事務的な処理は明日にでもしましょうか」

 校長の鶴の一声が終わりを告げた。

 結論から言えば、母さんは佐奈田の治療費を肩代わりする事になり、俺の転校は白紙となった。だが、おれの頭はまったく別の問題で一杯だった。ワタルという人間ではない何か、悪夢の黄昏時、そして、ドロドロに溶解して姿を消した野村だった。

 家路に着く間、母さんとはお互いに無言だった。でも、伝えておくべき事は伝えるのが筋だと思った。

「ごめん、母さん」

 消え入りそうな声になったのは、申し訳ない気持ちからだった。普段から母さんには迷惑をかけたくなかった。それなのに、今回の騒ぎを起こしてしまった。

「おれ、働いてでもお金返すよ」

「何バカな事を言わないの。教えてちょうだい。どうして、佐奈田くんに手を上げたの?」

 戸惑いながらも、周りに誰もいないのを確認してから、俺はおもむろに言った。

「その、母さんが繁華街で知らない男の人と一緒に歩いてたって。しかも、金持ちそうな爺さんと」

 母さんは最初、キョトンとしていたが、やがて、「もしかして、あの時の事かな?」

「あのさ、母さん」

 おれは母さんの正面に立った。

「父さんが亡くなって寂しいのは分かるよ。おれだって同じだよ。家だって貧しいけど、おれは絶対平気だから。どんなに大変でも我慢する。もう、嫌な相手でも暴力は振るわない。だから、その、変な男と一緒になるのだけは止めて。おれの親父は、町で一番カッコいい消防士だった人だけだ」

 母さんはしばらく聞いていたが、ケラケラ笑い出した。こういう仕草は、まるで十代の女の子みたいに見えた。

「馬鹿ねえ、この子は。誤解なのよ」

 おなかを抱えながら、おれに説明してくれた。

 その日、一緒に歩いていたのは、多田さんという人で、母さんがパートで働いているスーパーの常連さんらしい。多田さんは生まれつき目が不自由で、いつも白杖という道具で歩いてスーパーに通っていたのだという。

 ところがあの日、信号待ちをしている間に心ない人に白杖を盗まれてしまった。困って立ち往生していたところ、母さんが偶然通りかかった。多田さんは遠慮したらしいが、お節介にも家まで送り届けたのだという。この人は、実は繁華街でテナントの管理をしているすごい人で、謝礼を出したが、母さんは丁重に断ったのだという。

 その光景を、佐奈田母子が勘違いしたに違いない。それにキレてしまった自分は、とんだ大馬鹿野郎だと思った。でも同時に安心した。

「ああ、よかった。てっきり、母さんがヒヒジジイの愛人になったのかと思った」

「コラッ、どこでそんな言葉を覚えたの?」

 帰り道の足取りは軽くなっていた。ポケットに収まっていた物を、家に帰ってから見つけるまでは。それは野村のお守りだった。結局、本人に返す機会もないままだった。だが、返したところで、お守りの効果は消えているだろう。

 ポケットの中に収まっていたそれは、原形を留めないほどバラバラに引き裂かれていた。まるで、持ち主の身に起こった行く末を暗示するかのように。


   19


「今にして思うと、あのお守りが助けてくれたんだと思う。持ち主の身代わりになってくれたんだ。もしも、あの日に花壇であれを拾っていなかったら、おれはたぶんここにはいなかったかもしれない」

 時間は午後十時を過ぎていた。いつもならもうとっくにベッドで眠っていたが、今の未来には眠くなかった。

「今日はこの辺でいいか?」

 翔は未来からもらったシーツを持って、窓を開けて外へ出て行こうとした。

「どこへ行くの?」

「公園で寝る。さすがに同じ部屋はまずいだろ」

「別に気にしないよ」

「おいおい。今時の女子はおかしいんじゃないのか。おれの頃の女子は、その辺は厳しかったと思うぞ」

「だって、外は蚊もいるよ。それに……」

「それに、何だ?」

「黒澤さんはロリコンじゃないでしょ」

 未来は先にベッドの中に入って寝てしまった。翔はクローゼットの中に入ると、丸まりながら眠りに着いた。

 未来はまどろむ直前、翔から聞いた話を反芻していた。

 孤独な学校生活。暴力事件。ワタルとの遭遇。そして、消えた下級生。だが、未来が一番気がかりな事が一つあった。

 翔をいじめていたリーダー格の佐奈田清、そして、そのクラスの担任で、清の母親でもある佐奈田。嫌な予感を抱きつつも、「まさかね。同姓同名だってあり得る訳だし」とうそぶいた。

「変な寝言だな」

「ううん、何でもないよ。ねえ、一つ聞いてもいい?」

「何だ?」

「私に似てるって言ってた子、裕美子っていう子はどんなだったの?」

「何を言うかと思えば……あまり冷やかすな」

「宿泊代と思って教えてよ。どんな人だったの?」

「頭のいい子だった。内気だけど優しくて、頑固なところもあって。その子は幼稚園の幼馴染でよく遊んだよ。家族ぐるみで遠足や旅行にだって行った事もあったかな」

 翔は眠たそうに大きな欠伸をした。

「でもさ、親父が亡くなってからかな。生活が苦しくなるとさ、なんていうか、お互いに付き合い辛くなったんだ」

「でも、そんなのあんまりじゃない。だって、それは黒澤くんのせいじゃないのに。私だったら、関係なく付き合うよ」

「ずっと、逢わなかったわけじゃない。彼女とはワタルの事件の時に再会した」

「え、なにそれ? 教えてよ」

「また今度な」

「けち」

 翔の静かな寝息が聞こえ始めた頃、未来は暗い天井を眺めながら、今日あった出来事を反芻していた。あり得ない事が当たり前のように連続で起こった。

 もしかすると、これは全部夢かもしれない。本当の自分はかくれんぼうの途中で眠りこけて、こんな悪夢を見ているのだと思いたかった。いつか、美穂が呆れて叩き起こしてくれて、そこには皆がいて、大人の翔もどこかで生活していて、彼の母親も元気なままで――。

 ……やめよう。今、自分の身に起きているのは、全部現実なんだ。ワタルという魔物も、消えた友達も、二十年前の姿のまま行方不明だった翔も、そして、あの自分の口を引き裂こうとした口裂け女も、すべてリアルなんだ。そこから逃げても何も解決するはずがない。

 でも、これからどうなるんだろう? 私も、翔も、そして美穂たちも……。

 結局、彼女が眠りについたのは、翔よりも一時間後だった。

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