味方のいない教室
13
小学五年生の頃、おれは五組のクラスにいた。正直、あまりいい思い出はない。
親父は、おれが幼稚園を卒園する前に死んだ。消防士をしていたが、ある火事場で殉職したと母さんから聞かされて育った。そんな親父を誇らしく思うように努めたのは、母さんのためだった。実際、記憶が乏しいからどんな人柄だったのかもあまりよく覚えていない。「高い高い」してもらったのはおぼろげながら残っているぐらいだった。
親父が死んで以来、母さんが一人で働いておれを育ててくれたが、それでも家は貧しかった。そんな黒澤家の家庭の事情を、クラスの中には同情というより、いじめの理由に取り込んだ連中もいたのは確かだった。
「ねえ、なんかさ、この教室臭くない?」
いつも休み時間になると、女子の安堂寺春香はまるで目覚まし時計のアラームみたいに決まってそう言い放つ。わざとらしく口元を覆いながら。親は少し有名な弁護士らしいが、その品性は最低だった。
「ホント、臭いよね。誰のせいかな?」
安堂寺の取り巻き、渡辺美加、佐藤愛も賛同する。それぞれ、小太りと痩せ型とバランスよく引き立てている。他の男子もニヤニヤしながら、「知らねえよ」とうそぶきながら、おれの方を眺めて鼻をつまむ仕草をする。遠巻きでは、その動向を期待する奴もいたし、自分は関わりないと無視するのもいた。
とどのつまり、この教室におれの味方は誰もいなかった。
「おい、貧乏人の黒澤よお」
机に座ってじっとしていると、五組の餓鬼大将格、三宅茂が近づいてきた。体格は普通の男子の二倍はありそうな、典型的なジャイアンみたいな奴だ。女子は安堂寺、男子は三宅。二人はいつも、おれの事を目の敵にしていた。
「なんで、学校来るんだよ? お前、金も払ってねえんだろ」
おれは無視して、窓に向かって頬杖をついた。毎日飽きもせず嫌がらせできる。変に突っかかってもつまらない結果になるのがオチだ。
「おい!」
茂がバンッと机を叩いた。
「安堂寺も皆迷惑してんだよ、お前、分かってんのか。お前みたいな貧乏でかび臭い奴がうちのクラスにいるとよ、空気が汚れるんだよ」
その日はやけにしつこかった。おれが無様に泣く姿を、こいつらは心の中で期待しているに違いない。心に耳栓を詰め込んだつもりで、休み時間は校庭を眺めていた。六月の下旬でそろそろ梅雨も強まりつつあるのか、遊んでいる奴らは少し少ない気がした。無駄に明るい流行歌がムードを盛り上げるために、空しく流れている。
「おい、聞いてんのか、貧乏人! 安堂寺はな――」
「うるさいな。安堂寺、安堂寺って……」
あまりのしつこさに、おれは窓から茂へ目を映した。やめておけ、あまり熱くなるなよ。
「教室が嫌なら、外で遊べばいいだろ。お前の大好きな安堂寺と」
最初は自分が何を言われたのか理解しきれていなかったのか、ポカンとした顔をしていた茂は徐々に頬を紅潮させた。
「てめえ!」
そして、おれの胸倉を力づくで掴んだ。
「貧乏人のくせにこの俺をなめてんのか! 俺の親父はな、ヤクザなんだよ」
「だから? 親がいないと貧乏人一人殺せないのかよ?」
殺すという言葉に、教室の中がざわめいた。茂もそうだった。どうせ、こいつに命をかけるつもりなんてない。母さんは言っていた。弱い者いじめをする人は、本当に強い人には弱いんだと。おれは弱くなりたくなかった。こいつは一発でも殴れば、死ぬまで殴り返すつもりだった。
「そこの二人、そこで終了だよ」
一人がいきなり仲裁に割って入ってきた。これまた、お馴染みの黒ぶち眼鏡がトレードマークの学級委員、竹井寛和だった。
「三宅くん、また黒澤くんにちょっかいを掛けたの?」
「何でもねえよ、学級委員。俺と貧乏人の問題だ」
「彼は黒澤君だ。このクラスに貧乏人なんて名前の生徒はいないし、それは差別だよ。生き物の中で差別をできるのは人間だけど、その欲望を止められるのも人間なんだ。差別を嫌う善い大人になるか、差別が好きな悪い大人になるか、僕らは試されている。三宅くんだって例外じゃないんだ」
「なんかよく分からん屁理屈を言うなよ。それに安堂寺も迷惑がってんだぜ」
「君や安堂寺さんが、彼が貧乏で臭いと思っていたとしても、それが彼をいじめてもいいという理由にはならない。どんな理由があっても、いじめはしてはいけない」
「俺は別にいじめなんか……それに黒澤はマジで臭いぜ。竹井も嗅いでみろよ」
竹井は無遠慮におれの周りを嗅いだ。
「男らしい良い匂いだと思う」
教室中が爆笑と顰蹙で二分された。下らない。委員長のお節介にいらついた。まるでおれはいじめられっ子みたいじゃないか。
竹井は、ドラえもんの出来杉くんみたいな奴だった。本当に出来過ぎた優等生の上に、人柄もいいという評判があった。おかしな言動もあるが、それでも女子の受けもいいのが不思議である。
もっとも、おれからすれば、信用のできない人間の一人だ。裏ではどんな事をしているのか分からない奴に限って、外面だけは立派なのだ。
「俺はいじめられてないから」
俺はそれだけ言うと、教室から出て行こうとした。
「待ってよ、黒澤くん。君は出て行かなくても」
「ただの便所」
それはそれだけ言うと扉を力一杯に閉めた。どいつもこいつもクソばかりだ。
学校は広く、当然、一人で落ち着ける場所などいくらでもあった。
おれはいつもの場所である屋上の入口にいた。扉の鍵がかかっているものの、小さな踊り場になっているそこには人の姿はない。
そこに座り、古い漫画雑誌を読んでいた。近くの公園のゴミ箱に捨ててあった先週号である。発売されてから三日ぐらい経つと、大抵捨ててある。二百円か三百円かするだろうが、非常にもったいないと思った。たぶん、一度読めば飽きて捨ててしまうのだろう。
「へえ、ドラゴンボール終わるのか」
やっぱり一人でいる方が気楽だった。馴れ合いなんて苦手だった。あの輪の中に入るぐらいなら村八分になる方がましだった。
その時、誰かの足音が聞こえたので咄嗟に漫画を隠した。教師だったら何を言われるか分からない。
上がってきた相手を目があった瞬間、そいつはよっぽど驚いたのか、階段を踏み外しそうになる。
おれは駆け寄り、そいつの体を支えた。
「何やってんだよ、お前」
相手は下級生だった。四年生と分かる緑色の名札には、『野村健斗』とあった。うちの学校では学年ごとに名札の色が違っている。組は二組か。野村という少年は何かをつぶやいた。何度も繰り返して。
「た、たすけて……」
「ん?」
「ぼく、このままだと連れて行かれる!」
野村はおれの方を掴む。小柄で青白い顔にもかかわらず、異常に強い。
「落ちつけよ」
「きっと、お守りを落としたせいだ。あれがないと、あいつに目をつけられる」
「あいつ?」
野村は壁の方を向くと目を見開いた。口元が金魚みたいに震えている。
まるで、後ろに誰かがいるような気がして、おれが振り返った途端、野村はまた悲鳴を上げて階段を駆け下りて行った。もちろんだが、天井にあいつが怯えるような恐ろしい怪物なんかいなかった。古いモルタルに浮かぶシミが人の顔に見えなくもないが。
予鈴が鳴った。そろそろ教室に戻らないといけない。変な奴のために台無しだ。おれはため息を漏らすと、重い足取りのまま教室へ戻った。
14
給食の終わった休み時間。ゴミ袋を焼却炉へ運んでいた。焼却炉は校舎の裏手、花壇とウサギ小屋を過ぎた雑木林の中にぽつんと立っている。あまりにも薄気味の悪い場所なのか、なかなかゴミ出しをする奴はいない。おれは何とも思わなかった。
焼却炉にゴミ袋を放り込むと、教室に戻ろうと花壇を通った時だった。一年生が植えたチューリップ畑の中に何かが落ちているのに気がつき、なんとなしに拾い上げた。それはお守りだった。紫色の模様が入っている。常盤台神社のやつだ。そして、後ろには持ち主の名前が書かれていた。
おれは思わず笑いそうになる。偶然というのは本当に現実離れしている。終礼が終わったら、持ち主の『野村健斗』に届けてやろうと思った。
教室に戻ると、学校の中で一番会いたくない奴と鉢合わせした。
安堂寺と三宅と一緒に話しているそいつは、別のクラスの奴だった。佐奈田恭一、五年四組。安堂寺と三宅と並ぶ天敵だ。いつものように掃除をサボってきたに違いないが、同じクラスメイトは佐奈田を注意したところを見た事がない。その理由を知らない者はいなかった。
「あ、貧乏人が帰ってきたぞ!」
三宅がそう言うと、佐奈田は振り向いて、薄い唇を舐めまわすしぐさをした。癖なのか知らないが、虫唾が走った。まともな男のする癖ではない気がする。
「やあ、黒澤くん」
痩せた頬骨はいかにも不健康そうだが、最初からこうだったらしい。家は裕福なので来ている服は毎日違う。
おれは無視して掃除の続きをした。こういう奴には関わらないのが一番だ。
辛い時には楽しい事を考えるのがいい、母さんがそう言っていたのを思い出し、サッカーをしている風景を想像した。スタジアムの芝生を、俺が相手の守備を巧みに縫いながら、ボールをゴールに叩きこむ様を。
……でも、ふと考えた。おれなんかと一緒にサッカーをするような奴なんていない。なぜなら、いつも一人だからだ。
「おい、おい、無視するなよ」
佐奈田が妙に高い声でまとわりつく。こいつは女子には評判が悪い。時々、肩や手、人によっては胸を触られたと泣いている子もいた。普通なら、教師や保護者に言えば、こんなスケベ野郎をどうにかできるだろう。
ところが、佐奈田の場合は普通じゃない。こいつの親は佐奈田秋枝といって、実は小学校の教師をしている。どこの学校の、どのクラスの担任をしてると思う?
「昨日の晩、君のお母さんを夜に繁華街で見たって話をしていたんだ」
おれはロボットみたいに掃除を続けた。うちの母さんは夜遅くまで仕事をしている。繁華街にいたらどうだというんだ。
「ビッグニュースなんだよ。ここで聞きそびれたら損するよ。特に黒澤くんはね」
さしずめ、こいつはスネオだな。ちなみに安堂寺は、性格の悪いしずかちゃんだ。あと、のび太とドラえもんがいれば、ドラえもんの完成だ。どうでもいい事が頭に浮かぶ。
床には大きなチリも残っていない。そろそろ箒を片付けようと思った時だった。
「しかも、男の人と手を繋いでね」
掃除箱に箒を入れた手を一瞬止めてしまった。嘘に決まってる。あいつの出まかせだ。
「相手は爺さんみたいに年を取った人だった。つまりさ、コレなんだよな」と指を立てる。「愛人だよ。金持ちの爺さんを捕まえたんだよ」
「出鱈目を言うな」
佐奈田はいやらしく舌をのぞかせて、薄い唇をなめた。
「ところが、僕一人が見た訳じゃない。何人か目撃したんだ。君のお母さんもやるね」
俺は佐奈田の前に立った。握りこぶしになっていた。抑えろと諌める頭の中の自分が訴える。こいつの挑発に乗るな。どんな理由があっても、誰かを怪我させたらいけない。ましてや、相手が佐奈田なら尚更だ。
俺は踵を返して、他の皆と一緒に机を元に戻そうとした。
「黒澤くんのお母さんは偉いね。金持ちの爺さんといやらしい事をして、はした金をせっせと貯めて、貧乏から抜け出そうとしてるんだから」
わざと大声を出した佐奈田。
そこから先はあまり覚えていない。ただ、頭の中が真っ赤になったのが印象的だった。爆発したような感じだったが、一瞬の事だった。その瞬く間に俺の足元で、佐奈田が倒れていた。床には点々と小さな血の粒がある。
ああ、あいつの顔を殴ったんだな。鮮明になる頭がボンヤリと認識した時、女子の悲鳴が耳朶を打った。
「誰か先生を呼んで来て!」
「怖いよ!」
「本当にやりやがった……」
無数の声が飛び交う中、恐怖と軽蔑の視線が突き刺さるのが分かった。
15
無人の校長室で待たされてから一時間ほど経過しただろうか。母さんが来るまでの間、おれは職員室に設けられた応接用の椅子で座っていた。
手にはまだ薄いながら赤い染みが残っている。石鹸で何度も洗ったが、完全には落ちなかった。
職員室の中は、立派な机と壁には歴代校長の額縁が飾られている。普段はいる事のない部屋に、こんな事で待つ羽目になるとは夢にも思わなかった。
結局、あの騒動の後、担任に事の次第を詰問されたが、おれが何を言うと否定された。だから途中から黙りこんでやったのだ。相手も教頭もしびれを切らせて、母さんに連絡したのである。
ドアをノックする音が響き、誰かが入ってきた。母さんが立っていた。
「母さん……」
走ってきたのだろう。その汗ばんだ顔は蒼白だった。
「翔……一体何があったの?」
職員室とつながるドアが開いて、教頭と佐奈田の保護者が入ってきた。校長の姿はなかった。母さんは慌てて、二人の前で頭を下げた。
「この度は、息子がご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありませんでした」
「謝ってもらうのは勝手ですがね、黒澤さん」
枯れ葉をイメージさせるような小柄な教頭は何度もハンカチで禿頭を拭いた。
「おたくの息子さんも腕白が過ぎるんじゃないですかね。はたく程度ならこんな問題にはなりませんよ」
「それで、佐奈田くんの容態は?」
「うちの子は、鼻にひびが入りました」
さっきから無言で睨みつけていたあいつの保護者が冷やかに説明する。
「三針も縫うほどの怪我を負ったのです。怪我が治っても、翔くんに暴力をふるわれた心の傷が、一生ついて回るでしょうね」
母さんは深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした、佐奈田先生!」
「謝るだけなら簡単ですよ、黒澤さん」
「もちろん、清くんの治療費はお支払いします。誠意の限りを尽くすつもりです」
「いいですよ、そんなの。私は翔くんの担任ですよ。黒澤さんの家庭の事情も存じ上げておりますから、お金の要求は致しません。どうせ、払う当てもないのでしょう?」
ねちねちと佐奈田は言った。そう、この女はおれのクラス、五年五組の担任である。息子ほどではないが、おれや母さんを陰湿に冷遇していた。清が譲り受けた、相手を小馬鹿にした冷やかな瞳は、人間とは思えなかった。
「代わりに、翔くんの転校を希望します」
教頭が慌てて間に入る。
「佐奈田先生、それはいくらなんでもですよ」
「教頭先生、察していただけませんか? 私は翔くんの担任なんですが、それと同時に清の母親でもあるんです。自分の子供に大けがを負わせた加害者を教え子として教室に置いておきたいと思いますか、転校という要請は、寛大な方だと思って下さい。本当なら警察に訴え出る事も出来るんですから」
「それはちょっと……」
教頭は反論もできずにただ、顔に染みついた脂汗をハンカチで拭っていた。
教頭が佐奈田先生に逆らえないのには理由がある。先生の親は、教育委員会の理事か何かで、しかも、この町の名刺でもあった。何度か、選挙ポスターで清に似た陰険な顔が映っているのを見た事があった。
「黒澤さん、再度申し上げますが、私の希望は翔くんの転校です。それを拒否するというのなら、しかるべき場へ訴えるつもりです」
「待って下さい、佐奈田先生。一つだけ教えいただけないでしょうか。喧嘩の原因を教えて下さい。今回、翔は清くんに手を上げました。それは誠に申し訳ない思いでいっぱいです。しかし、うちの翔は、理由もなく人に怪我をさせる子ではありません」
「本人から聞いたらどうですか?」
母さんは俺に聞いた。
「何があったの?」
おれは答えるどうか迷った。こんな場所で答えたくない。母さんが知らない男と繁華街を歩いていたなんて。
「どうして答えないの? 翔、お母さんの目を見て」
「おれが悪いんだ。別に転校でいいから」
「そんな問題じゃないの。これははっきりさせないといけないわ。翔は何も理由もなく人を殴ったの?」
母さんの詰問は真剣だった。おれは後悔で一杯だった。反論もできず、謝る事も出来ない。あんな奴が絡んでこなければ、あいつの挑発に乗らなければ、今頃いつものように過ごしていたのに、立った一人で――。
「もういいです。加害者のいい訳を聞くほど、私も暇ではありません。黒澤さん、翔くんの今後について、説明しますので……」先生はこちらを冷ややかに向くと、「翔くんは教室に戻りなさい。時間が来るまでの間、自分のした事を猛省なさい」
おれは無言で校長室を出て行った。まるで、負け惜しみだ。ちきしょう、とおれは壁を蹴りつけた。何もかもが嫌になった。こんな学校、自分から止めてやる。
教室のある階に来た時だった。頭上から物音がした。三階の上は屋上しかない。いつもいる踊り場からだった。
どうしても気になり、階段を上がり踊り場にやってきた。そこの壁の隅に丸まっている物体に驚いた。
「お前、何やってんだよ?」
怯えた顔を向けたのは、長休みに会った野村だった。あの時よりも憔悴し切った様子だった。今にも死にそうな感じが、今では死人のようだ。
ふと、あいつのお守りを拾ったのを思い出した。持ち主とすぐに会えるとは思わなかった。自分はもうどうせ転校のだ。今のうちに返しておこう。
「これお前のだろ?」
そうだ。こいつが誰かに似ていると思った。のび太だ。挙動不審なのび太くん。あと、ドラえもん似がいたら完璧だと思った。
野村は弱々しく笑顔を見せると、首を横に振った。
「ありがとう。でも、もう遅いんだ」
「遅い?」
「僕は捕まってしまった。もう、人間には戻れない」
「何言ってんだよ。お前はここにいるだろ」
「これは空っぽの僕なんだ。本物の僕は今あいつの食べられているところだ。もうすぐ、こっちもいなくなる」
「おい、しっかりしろよ」
半ば冗談と思いながら、あいつの肩を揺さぶろうと触った瞬間――その手が肩を擦り抜けてしまった。
突然の出来事に俺は言葉を失った。そこで初めて気づいたのは、野村の体がやけに薄ぼんやりとしていたのだ。向こうの壁が透けて見えるぐらい。まるで、映写機に映し出されたみたいに実体がないようだ。
「どうなってんだよ、これは!」
「逃げた方がいい」野村は力のないで言った。「あいつがお兄さんに気づいたみたい」
「あいつって何なんだ? 教えてくれ」
「ワタル」
「……ワタル?」
「早く逃げて。あいつは、今度はお兄さんを食べようとしてる。階段を上がって来る」
おれは振り向いた。下へと続く階段の方から足音がした。ゆっくりとこちらへ近づいてくる。何かを壁に引っ掛ける金属音と共に。
「そのお守りを持っていて……そうすれば……」
「野村?」
「もうすぐ……お前もオレの餌になるんだよ!」
野村ではない声が放たれた。あいつの顔は崩れていた。まるで火で焙られた蝋燭のように、目と鼻が口の下まで流れ落ちている。その口元から歯が抜け落ちる。
おれは声を上げてのけぞった。
野村はぐずぐずに溶けて、大きな血だまりに変わる。そして、そのまま蒸発した。瞬く間の出来事だった。
どうなってんだよ、これは――。階段を上がって来る何かの気配に、おれの頭はすっかり混乱していた。転校どころの話ではなくなっていた。
こちらに近づいてくる気配が徐々に大きくなる。夏の前だというのに、体の底から冷えていた。口から白い息が漏れる。指先がかじかんだ。まるで真冬と同じのようだった。このままではいけない。他の逃げ場所を探そうとしたが、今いる場所は屋上の踊り場なのだから、逃げられる場所は一つしかない。そこでさえ、鍵がかかっているに違いない。
おれは屋上の扉に手をかけた。するとどうだろうか、普段は鍵がかかっているはずの扉が難なく開いたのだ。躊躇する暇なんてなかった。急いで屋上に飛び出した。広く周りに何もない屋上は夕日に当たり、薄い黄金色に染まっている。狭い踊り場よりはマシとはいえ、逃げ場がないのには変わりはない。
その時、扉の曇りガラスの向こうに人影が映った。その手が取っ手に伸びる。俺は屋上の手すり近くまで退いた。
どうする、どうすればいい? このままだと、さっきの野村のようにドロドロに溶かされちまう? 何かがあいつに何かをしたとしか言えない。
扉がゆっくりと開いていく。おれは身構えた。何が来るにしても慌てたら捕まってしまう。何かが近づいてきたら、咄嗟に左右どちらかに走る。そいつは当然、こちらを追いかけて来るに違いない。その時には逆に転換して入口を目指す。
頭の中で思い描いた逃走経路は、今にして思えばあまりにもあやふやで稚拙だった。だが、要領はガキの鬼ごっこと変わらない。足には自信はある。
だが、得体の知れない何かに追いかけられた時、おれはどれだけ早く走る事ができるだろうか?
そもそも、逃げきれるだろうか?
そして、ドアがおもむろに開かれた。