一九九五年七月、終わりの夜
自転車のサドルを踏み台にして、常盤市立常盤台南小学校の正門に手をかけると、翔は軽々とよじ登った。一方、門の外では、裕美子は彼を見守りつつ、周りの道に視線を配りながら警戒していた。子供が外にいる時間をとうに過ぎているため、人に見られると都合が悪い。
もっとも、今は土砂降りの雨が、熱帯雨林のスコールのように激しく激しく叩きつけている。こんな夜に外出する大人はいないだろう。翔はそれを見越していた。
先に門の向こうに着地すると、校舎の大時計を眺めた。時刻は午後十一時四十四分を指している。午前零時まで、あと十五分あまり。あまりちんたらするわけにもいかない。
常盤台南小学校の配置は、校門から向かって正面にグランド。右側には遊具とアスレチックの広場。左側には校舎が並び、シャッターの降りた表玄関と下足場が見える。校庭の奥には体育館。隣接する更衣室とプールがある。
そして、プールからやや離れたところにひっそりとたたずむ一軒の廃屋。生徒の間ではオボロ屋敷と呼ばれており、格好の肝試しスポットだった。
「裕美子?」
門の向こうで待つ少女を呼びかけてみたが、返事はない。
「祐美子」
少し強く呼びかけると、少女は弾かれたようにこちらを向き直った。
「大丈夫か?」
「う、うん、平気」
「じゃあ、どうしたんだ?」
「さっきから誰かに見られている気がするの」
そうは言っているものの、雨合羽から覗く顔はいつもにも増して青白かった。雨夜の中でははっきりと分かる。今にも倒れてしまいそうなほど弱々しく感じた。翔は心の中で後悔した。ただでさえ、気の弱い裕美子には荷が重すぎたかもしれない。
命がかかっていれば尚更だろう。
「無理をしてなくてもいい。ここから先は、おれ一人でも平気だから」
あまり気を使う余裕なんてなかった。大事な時間は刻一刻と迫っているのだ。
不意に近くの電燈が点滅した。裕美子は小さく声を漏らした。学校の近くには民家があまりなく、電灯も少ない。おまけに周囲を囲うように流れる川に分断され、夜になるとこの周辺は本当に真っ暗闇になる。当然、自動車もあまり通らない。
「裕美子は帰れ」
「でも……」
「今更引き返すつもりはない。“あいつ”をやっつけられるのは今夜しかないんだ」
「わたしでも分かってるよ、そんなの。でも……」
翔は無理に笑顔を作った。裕美子をあまり巻き添えにしたくなかった。一人になる恐れをかき消そうとして、明るく余裕ぶってみせる。
しかし、彼女が思慮深いのも知っていた。昔からそうだ。自分の知っている裕美子ならきっとだまし通せはしない。
「裕美子はたぶん大丈夫だから。帰れ。足手まといになるだけだ」
つい言い過ぎてしまった。翔は居心地の悪い無言を保ったまま、校舎の方へ向かおうとする。
「待って」
裕美子は同じ要領で門によじ登ると、そのままこちら側に飛び降りた。着地した時バランスを崩して倒れかける。すかさず駆け寄って支えたのはよかったが、お互いに抱き合う形になった。
どちらも雨合羽を着ているが、体温が伝わるのが翔には分かり、たまらなく恥ずかしくなった。裕美子も同じで、二人は同極の磁石よろしくいち早く離れた。
「ごめん」
「わたしこそ」
裕美子は彼の手を取り、先に歩き出した。
「急ごう」
無理をしているのは嫌でも伝わって来る。裕美子を絶対に守らなければいけない。翔は自身を強く言い聞かせた。
「二人なら必ず勝てる」
その一言を最後に互いは何も話さないまま、正面玄関の下足場を過ぎて、さらに駐輪場を抜けて校舎の裏手に回る。
狭い花壇が並び、向かいに道路のある側には高いフェンスが走っている。普段、遅刻をしそうな上級生の抜け道をして使われているのは、公然の秘密である。一応、《危険! のぼるな!》と注意書きはしてある。道路を挟んで田んぼが広がっていて、今の季節ならカエルの合唱が響き渡っているところだった。
裕美子は小さく叫んだ。翔も思わず立ち止まる。
裏庭には無数の墓地が広がっていた。もちろん、いつもの風景ではない。いつの間にか、空が夕焼けのように赤く染まり、見た事のない巨大な鳥が飛び交う。墓石の上に止まったそれは、目玉だけが飛び出し、羽や体は骨と露出した内蔵しかなかった。
すると、どこからともなく御経が聞こえてきた。
墓地を縫って、白い被り物をした行列が、フェンスのそばを横切っていく。一団の中には、大きな桶を四人がかりで担いでいるのが見える。
桶の数は二つある。どちらもフタがない。
「あれ……わたし達よ」
桶の中にはそれぞれ、翔と裕美子が収まっていた。葬列者と同じ白装束を着せられ、頭には三角の布を被らされ、もうつろな目を虚空に向けていた。
行列がこちらを向いた。桶の中の自分達も恐ろしい形相で睨みつけてくる。裕美子が翔の背中にしがみついた。
「お前達はもうすぐこうなる。魂を抜かれるだけと思うな」
もう一人の翔がそう叫んだ。
「弱虫裕美子は家に帰ったらいいわ」
桶の中の裕美子がケラケラ笑った。
「走るぞ!」
二人は駈け出した。後ろから御経が追いかけてくるが、「振り返るな!」と翔に怒鳴られ、裕美子は前だけを見るようにした。低学年が植えたチューリップ畑は、彼岸花の群れに代わり、拳ぐらいの昆虫がバリバリと葉を食べている。
「ここだ」
翔は立ち止ると、教室の窓を開けた。鍵は放課後のうちに内側から外してあったのだ。
一年三組の教室に入ると、翔は急いで窓を閉めた。ガラスの向こうで、お面を被った葬列者達が開けろと言わんばかりに何度も叩いてくる。瞳孔が小さく、爬虫類を思わせる瞳が仮面からのぞく。その中には二人の死人もいて、さらには見知った顔もいた。
「黒澤くん」
「委員長……」
「君に関わったせいで僕も死んじゃった。責任を取ってよ」
意識がボンヤリとしかけた矢先、裕美子が肩をゆすったおかげで正気に戻った。
「だまされないで。あれは本人じゃない」
「ああ、そうだ。急ごう」
暗い廊下に出ると、二人は白い息を吐いた。体が芯から凍える寒さだった。さっきまで雨を当たったせいではない。今の季節は七月なのに、まるで明らかに真冬の寒さである。足元にはなぜか、ドライアイスのような霧が漂っていた。
「奴が近くにいる。用心しろ」
翔はポケットから一枚の護符を取り出した。本当に効き目があるのか、裕美子は気懸りでならなかった。
その時、足を何かが引っ張った。下を見た裕美子の目に映るのは、霧の中から飛び出す白い手であった。
裕美子は悲鳴を上げた。振り向いた翔が、護符を向けるや否や、白い手が霧になって消えた。やがて、廊下を隠す霧が逃げように壁を伝い天井の穴へ流れていく。裕美子には、それらが生き物のように逃げていく様に見えた。
翔達は再び歩き出した。
一年生のクラスが占める西側の校舎、その三階に五年生の教室がある。目的地は、翔のクラスの五組だった。“儀式”に必要なものは、あらかじめ隣の社会科準備室に保管してあったので、運び出すにはあまり時間はかからない。
階段を上がりきり、角を曲がりかけたところで、翔が立ち止った。
「隠れろ」
二人は角の手前にある洗面所に隠れた。
廊下の向こうから何かが近づいてくる。二本の足で歩いて、両腕をだらりと下げている、人の形をしている何か。決して、人間ではない。そいつは服を着ていなかった。髪は固めたように頭に張りつき、無表情の顔を前に向けている。そして、胸から腹にかけて、臓物が露出していた。
吐き気を催しそうな姿に目をそむけながら、裕美子は、その正体に気づいた。
「あれって、理科室の――」
「人体模型だ」
人体模型のマモル君。生徒からはそう呼ばれて、からかいの太陽になっている備品だが、翔の知るところでは、マモル君に捕まった者は二度とこの世界に戻ってこない。今や、この学校のすべてが自分達を狙う魔物と化しているのだ。気を抜けば、他の奴らの二の舞になる。
マモル君が足を引きずりなら廊下を歩いてくる。トイレの前まで来た時、その足をピタリと止めた。首だけ巡らして、入口をうかがっている。そして、ズリッ、ズリッと臓物を垂らしながら、男子用の洗面所へと入っていく。
個室のドアが乱暴に開かれる音が響く中、隣の女子トイレからゆっくりと出ると、翔達は忍び足で男子便所をやり過ごした。
「裕美子、俺が女子便所に入った事は内緒だからな」
真剣にそんな事を言う翔に、裕美子はつい笑いそうになった。
つい一週間前に再会したばかりの幼馴染は相変わらずだった。どこも変わっていない少年に、裕美子は安堵とは違う感情を覚えていた。
五組の教室の前に来た。翔太は扉に手をかける。中にもっと恐ろしい何かが待ち構えているのかもしれないのだ。
扉を開けると、教室の中はひっそりとしていた。ほとんどの机の上にある物がなければ、違和感のない風景であったに違いない。
五組の机には、一人のそれを除いて、花瓶が置かれていた。挿してあるのは菊ではなく、彼岸花だった。暗闇の中で赤い輝きを放っている。
「俺のクラスは、みんないなくなった。なのに、佐奈田のやつ、俺しかいないのに当たり前みたいに授業をしていた」
佐奈田は翔の担任である。三十代後半の陰気な女性教諭で、担当クラスはもちろん、生徒の評判は芳しくない。もちろん、翔自身も苦手な人物であった。
教室の中に立ち入ると、明らかに気温が変わった。雨でぬれる肌を針が刺すように痛いし、少し息苦しい感じだ。空気の薄い山の頂上にいるみたいだ。
教室の隅に布で覆われた置物が二つある。それぞれ、黒い文字で塗られた護符が何枚も貼られており、その上をチェーンで厳重に固定されている。翔は白い息を吐きながら足早に置物に近づくと、ポケットから出した鍵でチェーンを外していき、分厚い布を力一杯に引っ張った。
中から出てきたのは、全長二メートルはあるくらいの、大きな鏡だった。縁には鬼に似た怪物だか妖怪だか不気味な生き物が彫られていて、こちらに獰猛な牙と白眼を向ける。どちらも同じ形をしていた。双子の鏡である。
鏡台の足にはキャスターが付いており、二人で動かすのはさほど苦労はいらなかった。
「こいつらが別の階か外にあったら、お手上げだったな」
小さく笑いながら、翔は言った。三階の社会科準備室奥の片隅で、双子の鏡が埃に被っているのを見つけたのが一週間前。存在を知らないままだったなら、何一つ“あいつ”に立ち向かう術はなかったに違いない。
一方で、今頃になってこんな事でうまくいくのかと不安がもたげてきた。
双子の鏡を向かい合わせると、周囲を囲うようにチョークで魔方陣を描いた。机には蝋燭を立てて火を灯したところで、翔は時計を見て安心した。零時三分前、ギリギリセーフといったところか。ここからが正念場だが、とりあえず第一段階は成功したわけだ。「ふう……」と息を吐くと、雨合羽を脱ぎ捨てた。
やや長い前髪に後ろ髪を束ねた顔は雨で濡れていたが、精悍な印象を与える顔はやや安堵の表情であった。二重瞼の瞳はその幼さにしては鋭い印象を受ける。
裕美子もずぶ濡れの雨合羽を脱いだ。彼と同じぐらいの身長で、端整な顔は幼さを残しつつも、大人っぽさを覗かせる。だが、肌は青白く影が差している。目の前の幼馴染の心情を証明していて、翔は後悔した。やはり、ここまで連れてくるべきではなかったかもしれない。
二枚の鏡のうち、こちらに向いた方に彼女の姿を映し出す。細い首、濡れている服に視界が入った途端、翔は思わず視線を窓に移した。雨合羽を着ていても、あれだけの大雨だ。隙間から雨が入ったのか、薄着の肩から胸にかけて肌が透けて、薄い水色をした下着の模様と肌が浮き出ていたのだ。
「翔くん?」
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「見てないから」
裕美子がクスリと笑った。
「翔くん、おかしい」
「おかしくなんかない」
「じゃあ、顔が赤い。風邪でも引いた?」
「ひ、ひいてない。絶対に引いてないし、見てないから」
翔は言い淀むと、同じように口元を崩した。なんだか、おかしくなったのだ。こんな状況だというのに楽しくなるなんて。
「あと少しで、あいつと決着がつくかもしれない。俺達が消えるか、あいつがいなくなるかもしれないのに。なんだか、さっきより緊張が少なくなった感じがする」
「上手くいくかな?」
「分かんない。俺が言ったらダメなんだけど、絶対っていうのも変だし」
「私も臆病だし」
「裕美子は臆病なんかじゃない!」
翔は真剣な顔で答えた。
「私ね、幼稚園の時からママの言う事しか聞いてなかった。おじさんが亡くなってから、翔くんと遊ぶなって言われてきたの。私は馬鹿みたいに言う通りにして、翔くんが辛い時も知らないふりをしてた」
「いじめてくる奴らは、自分の力で何とかする。誰かの手を借りるつもりはない」
これは決して強がりではなかった。
幼稚園を卒園して間もなく父親が死んでから、翔は母と二人きりで暮らした時からそうだった。世間の偏見や同級生のからかいには無視を貫いてきたし、時には拳で仕返ししてやった。喧嘩をする度に母が謝っても、翔は絶対にしなかった。悪い事をした奴らに謝る理由なんてない。痛い目が嫌なら喧嘩を売らなければいい。そっとしてくれたらいい。心の中でそう叫んできたつもりだった。
「裕美子は臆病じゃない。ここまで着いて来てくれたろ? 正直、俺は一人で戦うのが怖かっただけかもしれない」
翔は鏡を背にもたれた。
「俺は、あいつと戦って死ぬかもしれない」
突然の言葉に、裕美子は「ダメ!」と反論する。
「そんな気がするだけだ。裕美子には関係ないよ」
「関係あるよ」
ニ対の鏡に挟むように、二人は向かい合った。
「翔くんに助けてもらえてうれしかった。おばさんだって優しかった。また、昔のように一緒にいられて、わたし、とっても楽しかったよ」
「裕美子……」
「わたし、わたしは――」
その時、場違いな嘲笑によってかき消された。翔の表情が堅くなる。
「やつだ」
二人は事前の通り向かい合わせの鏡の間に立った。これから起こる事はきっと恐ろしいに違いない。そして、あっという間に終わる。
裕美子は汗で濡れた拳を握り締めながら、身の内からこみ上げる恐怖と向かい合おうとした。そして、幼馴染の手を握った。
バンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッ!
無数の白い手が窓ガラスを叩いた。顔を近づける赤い二つの目。
時計の針は、間もなく午前零時に近づきつつあった。
雨は次第に激しさを弱める事なく、暗雲は常盤台小学校の真上に漂っていた。
雷の閃光が闇夜を貫いた。間を置いて轟音を地上にぶちまける。
――その時、一筋の落雷が走った。校舎の頂に直撃し、校舎中の窓ガラスが粉々に吹き飛んだ。時計盤は火花で散った。火の粉と共に時計が校庭に落下し、時計盤から吹き飛んだ長針と短針が地面に突き刺さった。
一筋の断末魔が校舎から響いたのを最後に、雨が嘘のように止んだ。雲も逃げるように露散していき、星と月が空を照らし出す。やや遅れて、校内でベルが鳴り響き、夏の夜の静寂をかき鳴らた。
一九九五年七月十七日――その雨夜を境に、長く続いていた何かが終わりを告げた。代償であるかのように、一人の子供が姿を消えた。