2012
当時スクールカーストを縁の下から精いっぱい支えていたおれにとって、ある日何気なくTVで目にした2012年世界滅亡説は福音に等しかった。
《2012年12月22日、世界は滅びる!》マヤ暦の終焉によってだの、フォトンベルトによってだのと理由は様々だが、とにかく2012年世界が滅びるらしい。
世界は滅びる、とはなんと甘美な響きだろうか。
知能も出席日数も平均より幾分足りない類の中学生だったおれは、たった数年前にノストラダムスとその取り巻きに担がれたばかりだというのに、またもやそれを信じた。
信じたといって、件の恐怖の大王の時のように全力で信じたのではない。あればいいな、または、あるかもしれないなである。
何しろ恐怖の大王は、確かに当時の小学生に恐怖を与えはしたけれども、前半飛ばしすぎた。そして肝心の七月には地球に辿り着くことができなかったわけだ。
多少知性に欠けていたとはいっても、義務教育制度と成長ホルモンのおかげでおれも一応一端の中学生ではあったのである。本当に滅亡するのか、という懐疑の虫はおれの心の中で鳴いていた。
判断保留。どちらかというと信じる。
消極的なビリーバー。
そしてそれは最近に至るまで変わらなかった。
――――――
そんなおれの信心に変化が生じ始めたのは、いつまでも先の事であると思っていた2012年の、3月上旬のことであった。
「あつあつジューシーカツカレーと日替わり和風定食とドリンクバー二つでよろしかったですか?」
「はい」高校生のカップルは礼儀正しく頷いた。女の子の方はおれが注文を聞いている間もずっと、男の子にほほ笑みを向けている。
さて、かつては冴えない中学生だった俺も、年月の経過に連れられてすくすくと育ち、覚えの悪いウエーターとしてお客様に料理を供する身分にまでなっていた。
お客様は神様であり、神様に食事の注文を聞き、食事を運ぶ事ができるのだ。身に余る光栄である。身に余りすぎて他の人に代わって欲しいくらいだ。
地元の住民と、その大学にかかわる人間くらいにしか名前を知られていない大学を優秀な成績で卒業した俺も、就職難の世の中とあっては形無しということだろう。
俺は淡々と仕事をこなしていく。今ではファミレスの表も裏も知り尽くしていた。もちろん経営理念に関しては全くの無知なのだが、店の中の事だけは大方知っている。けれども世の中、ブラックボックスのままにしておいた方が幸せだったという事はいくらでもある。少なくともおれの場合、このバイトを始めてからは外食をしようという気が限りなく失せた。
注文を取り、注文をキッチンに届け、その代わりに料理を受け取り、その料理を客のもとに運ぶ。よくレジも引き受ける。
時々気が狂いそうになり、そのせいか注文を間違える。
人付き合いが苦手なおれが接客を行うのだ。そりゃあそうなる。
ただ、こんなルーチンワークの地獄の作業においても救いはあるもので、その子はキッチンなので持ち場は違うのだが、愛想良く話しかけてくれる大学生の女の子がいた。
その子は名前を真崎愛理といった。
女の子と仲良くお話する機会に恵まれない人生を送ってきたおれだが、どういう風の吹きまわしか、真崎さんとは会話のキャッチボールが成立したのだ。
真崎さんは園芸や生け花を趣味としているらしく、大学で農学を学んでいたおれとは話が合った。
昔取った杵柄というやつだろう。昔取った杵柄とは、「若いころ腕を磨いていて自信のある技量」という意味だから、まだ若いおれには適切でない表現かもしれないが、おれの様な元大学生にとって、一年以上前に学んだ事というのは、とんでもなく古ぼけた杵柄に他ならないのである。
「人も植物も弱酸性を好むんだ。だけどビオレはかけちゃだめだよ」今のおれはこんなジョークまで言えるようになった。2回に1回は気付かれずに話題を素通りしてしまうけれど、時々笑ってもらえるのは嬉しい限りだった。
と、そんなわけでおれは真崎さんに幼い恋心を抱いていた。
口をきいてもらえるだけで舞い上がるのが、もてない男の性というものだ。
そして一度そういう傾向が付くと、相手への想いは日ごとに水増しされていく。
膨れ上がった水風船はとても割れやすいのにも関わらず。
「田沼さんって、今日晩予定あります?」その時、真崎さんは田沼さん――つまりおれにこう訊ねたのだ。あまりの出来事に本気で何秒か呼吸が止まった。心臓が右ストレートを受けたミットのように跳ねた。
「え、おれ?」職場に田沼さんは他にいないのでおれに違いないのだが、ほとんど不随意におれは声に出した。まさか、……まさか!
「能見さんが、バイトの若いので今晩飲みに行かないかって誘ってくれたんですよ。それで、田沼さんはどうかなって」
もしおれがコミックのキャラなら肩を落としすぎて地面にめり込んだだろう。おれは落胆を表さないように気をつけながら言った。
「え、誰が行くの?」
「能見さん、わたし、田沼さん、弓削さん、横山さん、だと思います。多分」
「へえ」
そうは言ったものの、別になにさんでもよかった。真崎さん以外はみんな。
――――――
その晩、おれたちファミレスバイトメンバーは繁華街の赤提灯の元に集った。
その居酒屋は全国チェーンの小綺麗な店で、比較的若者が多い。全国チェーンのファミレス従業員が全国チェーンの居酒屋で呑む。なんともまあ芸のない事である。
セッテイングしたのは能見。おれは能見が苦手だった。どこがどう、というわけではないが、ちょっと言葉を交わしただけで「こいつとは見ている世界が違うんだな」と思わせるような相手だった。他の二人もタイプは違うが仲良くはできそうにない相手だ。ただ真崎さんのおかげで強酸性の土壌が弱酸性に軽減されていた。
「とりあえずビール5つでいい?」能見がみんなに聞く。何がとりあえずビールだ、とおれは心の中で毒づいたが、言えるはずがないし首を横に振れるはずもない。とりあえず頷いた。
おれは仕切り屋と要領のいい人間とは肌が合わないのだろう。
能見は真崎さんの隣に座っていて、しかもしきりに話しかけている。俺は能見が真崎さんに好意を抱いている事を知っていた。だから大嫌いな飲み会にわざわざやってきたのだ。たとえ場の添え物、いや空気以下になろうとも。
さいしょにビール、それから唐揚げとポテトの皿や、たこ焼き、枝豆が次々運ばれてくる。
場はそれなりに盛り上がる。弓削も横山も楽しげに会話に参加している。ただしこの場に一人だけ除け者がいた。それが誰かは言うまでもないし、言わないでおくのが優しさである。
それを弓削の馬鹿女は、たこ焼きに爪楊枝を突き刺すが如くタブーに触れた。
「田沼くん、こういう場苦手? もっと飲みな。じゃんじゃんと」酔いのせいか半ば掠れた声。酔っ払いボイスだった。
「そーだそーだ」それに追従して横山も言った。顔にキットカットの外装くらい赤みがさして、しかもろれつが回っていない。
これは気まずかった。話題に入らないわ。酒は飲まないわ。このままでは場の興を二月の夜の外気温並に冷やしてしまう事請け合いだ。場の空気を悪くするのは幼少の時からの名人芸のようなものなのでとりわけ何の事はないのだが、真崎さんにそのような印象を与えてしまうのはなんとしても避けたかった。
「田沼さん、お酒苦手なんですか?」しかしそこで真崎さんからの助け船が来た。アルハラ地獄に垂れてきた蜘蛛の糸だ。おれなんかに救いの手を差し伸べるなんて……! おれは一人その場で感じ入ったが、プライドが糸を断ち切った。
「と、得意だよ。得意すぎて控えてたんだ」俺はジョッキを握り、ごくごくと中身を飲み下す。
「お、そんじゃその腕前見せてみろぉ」弓削が次のジョッキをおれに渡す。
酔っ払いによる酔っ払いの為の鼓舞によって、おれはその腕前を見せる事となった。そして、腕前を見せすぎたせいか、おれはその後の事をほとんど覚えていない。
――――――
目が覚めるとそこはもう居酒屋ではなかった。
部屋の中は薄明るく、凍えそうに寒かった。この絶妙な家具の配置、埃っぽい臭い、毛羽立ったベッドカバーの肌触り。ここはおれの部屋だ。
窓の外で小鳥がおはようを告げている。おれは灯油ストーブを点けた。どんな時でもストーブだけはおれに対して暖かい。
ひょっとすると居酒屋の件は夢だったのかもしれないとも考えたが、頭痛と喉の渇きが証人としておれの泥酔を糾弾していた。
小型冷蔵庫からファンタを取り出して、一気に飲み干す。
ポケットをまさぐり、携帯を取りだした。メール通知が一件あった。おれは確認する。
「田沼くん、ちゃんと家に帰れた? お金はちゃんと受け取っているから心配しなくても大丈夫だよ。あのあと田沼くんは歩いて一人で帰って帰っていったんだ。覚えてなかった時の為、メール送っといたよ」
差出人は能見だった。
まったく覚えてなかったので、腹立たしくはあるけれども、正直助かった。同時に帰り道に何かやらかしたのではないかと不安が湧き出てくる。急いで財布の中身を確認するとタクシーの領収書が見つかった。ということは大人しくタクシーの運ばれたのだろう。酔っぱらっていたとはいえおれがすることなどたかが知れている。それよりも領収書の代わりに昨日一日で浪費されたおれの労働時間が悲しかった。
もう一つ気がかりな事は、だらしない姿を見せたことで真崎さんに軽蔑されていないかという事だった。今更考えても仕方のない事だが、行かなきゃよかったな、と思った。
くさくさした気分を洗い流すため、おれはシャワーを浴びる事にした。その日も午前10時からバイトだった。少なくともおれが地域経済を潤した分は働かなくてはならない。
――――――
真崎さんが大学の先輩と付き合い始めたらしい事を知ったのはその一週間後だった。
その情報をおれに運んでくれた能見は、「へこむよなー」と同じ相手に恋慕を募らせていた同士の共感をおれに求めたが、おれはその場を繕う事さえしなかった。
確かにそれは不思議な事ではなかったし、仕方ないと自分に言い聞かせさえできたけれども、理不尽だだと思う気持ちは消せなかった。
といって、何かするでもなくおれはただ早退して自分の部屋で泣いた。
叫びだしたいほどの痛みがいつまでも続くかと思われたが、時間が経つにつれ、嫌味な疼痛と熱っぽい腫れだけが残った。昔骨折した時と同じだった。
バイトをやめる事も考えたが、考える以上の事をするほどの余裕がおれにはなかった。
おれはそれからも真崎さんと会話したし、恨みを持つ事もなかった。真崎さんはその内このバイトをやめて、他のバイトを始めた。学生のうちに色々経験しておきたいのだそうだ。
今ではもう思い出す事も少なくなったけれど、当時はこういう事があったのである。
ただし、これが俺の気持ちに大きな変化をもたらしたのは事実だけど、これが原因で……などと大げさな事をいうつもりはない。
地層にしたって、前の地面の上にいきなり今の地面が振ってきたわけではないように、すべては積み重ねだった。土を一掬いして掌を開いてみたのがこの話である。
―――――――
マヤ歴のはじまりは、紀元前3114年8月13日だと言われている。
マヤ暦の暦には「ハアブ歴」「ツォルキン歴」「短期歴」「長期歴」と種類があって、これらは用途や使われていた時期が異なるのだが、世界滅亡論の根拠とされているものはこの内の「長期歴」と呼ばれるものだ。これはその名の通り、長い歴史を記録するためのものである。
そして長期歴の最も大きい単位にバクトゥン(187万2000日)があり、マヤ人は13バクトゥンで歴史が一巡りすると考えていたらしい。
つまり紀元前3114年8月13日から13バクトゥンが経つと、その時がやってくる。
それが2012年の12月23日に当たるのである。しかし実は21日だという説もあって、結局多くの場合、間を取ってか22日とされているのだそうだ。
日程はわかった。
では一体その日に何が起こるのか。
フォトンベルトに地球が突入する。
アセンションが起こる。
惑星ニビルが地球に近づく。
太陽の動きが活発になる。
世界が滅びるとは、文字通り人類が死に失せるのか、それとも既存の法則が改変されるのか。
諸説様々だが、結局どれか一つに絞る事など出来ない。その日になってみるまでは。
――――――
8月の終わりごろおれは女の子たちと居酒屋にいた。
これは合コンという集まりで、能見が人数合わせでおれを誘ってくれたのだ。おれを誘うくらいだからよほど人材が不足していたのだろう。おれならおれは絶対に誘わない。能見も案外人望がないんだなと思った。
いい感じに場が盛り上がる中、俺は壁に備え付けられたテレビを見ていた。テレビでは2012年12月世界がどうなるかということを図を使って説明していた。キャストはおおげさに職業的に驚いていた。
「なに、田沼くんテレビの話信じてるの?」能見が嘲るように言った。田沼なら信じていてもおかしくないといった調子だった。
「うん」とおれは答えた。
「えー、みんなは?」能見が他の4人に話題を振る。
「信じてないよー。今どきチープすぎるし」
「流石にあたしも」
「っていうか今やってるフォトンベルトの話。フォトンって光子でしょ? 赤外線だってなんだって光なんだから光の中に突入して人類が進化するってわけわかんないよ」
「へーそうなんだ」
「こういうのは自然科学の用語を組み合わせて適当な事言ってるだけなんだから」
「みんながみんな詳しいわけじゃないし、騙されないようにしないとね」
「最近はこういう番組ももうちょっと現実味のある事言うようになったけど、この番組はひどいね」
「そういう趣旨の番組なんでしょ。ネタ的な」
「あ、騙されると言えばこないだ――」
みんながおれを差し置いて勝手な事を言っている。
信じている人間が目の前にいるというのによくこんな言い方ができたものだ。
「科学的に正しいから信じてるんじゃねえんだよ!」おれは酔いに任せて怒鳴った。そして勢いよく席を立ち、店を出た。
金は払った。
――――――
おれはますます偏屈になって日々を過ごした。
バイトだけは続けた。
もはや生きていくのにも疲れていたので何のためにバイトをするのかもわからなかったが、とにかく続けた。
おれは2012年12月22日を待望した。
それはもう一種の心の支えだった。
どんなに荒唐無稽であろうと、信仰がある限り俺は生きていられた。
だから12月22日が来るのが怖くもあった。
もし何もなく過ぎ去ってしまえば、身体を上から支える糸が切れてしまうのが分かっていた。
そこからまた新たな世界滅亡など、信じる気力が残ろうはずがないから。
――――――
マヤ文明はそんなに昔からなかったし、フォトン・ベルトを広めた人たちで、ロバート・スタンレーは博士ではなくただのUFOマニアだし、ヘッセは天文学者じゃなくてオカルト研究家だし、シャーリー・ケンプは大学生だった。
国立天文台もフォトン・ベルトなんて否定してる。
だからどうした。
だからどうしたというのだ。
――――――
今日は12月21日。
何でもない一日だった。
明日が怖い。
あともう少しで明日が来てしまう。
信仰に期限があってはならないのだと心の底から思い知った。
永遠に信じていられない信仰は破たんをきたすのだ。
おれはなんて愚か者なのだろう。
いや、でも、まだ明日になったわけではない。
それにどのタイミングで変化が生じるのかは分からない。
グリニッジ標準時かそれともマヤ文明のあった位置の時刻からなのか。
何にせよ、もうすぐわかる。
本当にわかるのだろうか?
もし明日を通り過ぎてしまったなら……!
「怖い。怖い。怖い!」おれは悲鳴を上げた。「ああ――
――――――
「ああ、素晴らしい!」とおれは悲鳴を上げた。
窓や壁を無視しておれの細胞の隅々まで浸透する光は、おれの次元を2つも押し上げていた。また、おれだけではなく世界そのものが5次元へと進化しているのだった。
光の体、ライトボディへとアセンションしたということである。
フォトン・ベルトに飛び込んだ地球は夜を捨てた。光は至る所からすべてを暖めている。
黄金やルビーの木々が立ち並び、宝石の果実は風に揺られ楽器のように音を立てる。
頭蓋の中の靄は取り払われ、甘露に満たされ、もはや何を求める必要もなかった。
自らの境遇に悩む意味もなく、ただフォトンの赴くまま生きればいいのだと分かった。
おれが望むと、中空のスペースに飛ぶ事が出来た。そこにはすでに376人のフォトン・マンカインドが鎮座していた。
おれだけではなく、すべての人間は人間の重たく悲劇的な殻を脱ぎ捨て、至る所で瞑想対話を繰り広げていた。
優曇華の花が咲くこの中空の光輝の大地のさらに上で、フォトン・サンはおれたちを照らしていた。
「ね?」と茶目っけのあるフォトン・ボイスをロバート・スタンレー博士が発した。
おれたちはほほ笑みながら頷いた。




