電子レンジ
こちらは「夏のホラー2026」参加作品、テーマは「音」です。
今回は私にしては珍しく、救いのないホラーとなっておりますので、苦手な方はご注意くださいませ。
約六千字の短編です。
カチ、カチ、カチ、カチ……。
マウスをクリックする乾いた音だけが、アパートの部屋に響いている。
昨日急ぎの修正依頼を受けてから、すぐに作業に取りかかった私は、そのまま朝を迎えていた。
その間、この部屋で動いていたのは、画面を凝視する私の眼球と、マウスをクリックする指先くらいだ。
――よし、できた。こんな大変な作業を、たった一晩で終わらせるなんて、やっぱり私、すごいよね。
――このデザインならクライアントもきっと満足してくれるはず。
完成したデザインデータをクライアントに送信する。
長い間同じ姿勢を続けたせいで、動こうとするとあちこちが痛い。
グラフィックデザイナーとして独立して一年半。
いま引き受けている仕事は、高級リゾートホテルのパンフレットデザインだ。
デザイナーといえば、華やかな仕事に思えるけれど、実際のところは、地味で根気のいる作業が大半だった。
写真は丁寧に輪郭を切り抜き、少しでも美しく見えるように一枚一枚色味を調整する。
何気なく並んでいるように見える文字も、ただ入力すれば終わりじゃない。
文字と文字のわずかな間隔を一文字ずつ丁寧に整えているのだ。
だれも気づかないようなこだわりだけど、手をかけることで仕上がりが変わってくる。
きっと、今回この仕事を任されたのは、こうした地味な作業をおろそかにしない姿勢を認めてもらえたからだと思う。
プロとしてのプライドにかけて、自分が納得できないものは納品できない。
ただ、いまはっきりと自覚しているのは、この強すぎるこだわりが、今回ばかりはあきらかに自分の首を絞めているということだ。
一枚もののポスターならまだしも、これほど写真や文字が多いとは思わなかった。
とはいえ、いまさら後悔したところで、この仕事の報酬や納期は契約時に決まっている。
自分で作業量を見積もり、利益を計算したうえで、クライアントに提示した金額だ。
向こうはそれを承諾しただけなのだから、完全に自分の責任だろう。
つらいけど、こうなってしまうのも仕方がない。
私はまだ駆け出しで、こんな大きな仕事を任される機会はめったにないし、せっかくつながったお客様との縁も大切にしたい。
また次も頼みたいと思ってもらえるように、少しでもいいものを作らなくては……。
私は用を足す時間も惜しみながら、できる限り丁寧に仕事を進めた。
その甲斐もあって、クライアントの希望に沿った洗練されたデザインに仕上がったと思う。
――いけない。本当に時間かけすぎちゃった。これじゃ、時給五百円もあるかどうか。
――でも、とりあえず宿泊プランのページは整ったわね。次は夏のスイーツフェアのメニューね……。またずいぶん写真が多いわ。
パソコンのフォルダにはクライアントから送られてきた美味しそうなスイーツの写真が大量に入っている。
白桃とアールグレイのパフェ。レモンとピスタチオのタルト。スイカと塩ミルクのグラニテ、メロンとシャンパンジュレのヴェリーヌ……。
どれもよだれが出そうなほど美味しそうだ。
ここまで頑張ったご褒美に、ひとつくらい味見させてもらえないだろうか。
そんなことを考えた途端、急にお腹が空いてきた。
よく考えると昨日から、水さえ飲んでいない気がする。
椅子から立ち上がるとめまいがして、足元がぐらりと傾いた。慣れた感じで机に手をつき、揺れが収まるのを静かに待つ。
――いいかげん、なにか食べないと……。
ここは狭いアパートだから、仕事部屋からキッチンが丸見えだ。数歩も歩けば着いてしまう。
それでもそのわずかな移動の時間さえ、仕事中は惜しく感じられた。
とはいえなにか食べなければ、遅かれ早かれ力尽きてしまう。
クライアントからの返事を待つ間に、手早くなにか食べておこう。
私は壁や椅子の背もたれに手をつきながら、ふらつく足でキッチンへ向かった。
こんな状態になっても、頭の中は仕事のことでいっぱいだ。
まず写真を切り抜いたら、おいしく見えるように色味を調整しよう。
冷蔵庫を開けると、一昨日買ったコンビニ弁当が入っていた。
買ったことさえ忘れていたし、とっくに賞味期限も切れている。
それでもいまは、これを食べない選択はない。
新しいものを買いに行く時間も惜しいし、捨てるのだってもったいない。
安請け合いをしている私には、経済的な余裕などないのだ。
さっさと温めて食べるのみ。
私は冷蔵庫のそばに置かれた電子レンジへ目を向けた。
このボロアパートには不釣り合いな、やたらと立派な電子レンジだ。
白い塗装には高級感があり、操作パネルにはたくさんのメニューが並んでいる。きっと最新式なのだろう。
数か月前、同級生の結婚披露宴で開かれたビンゴ大会で、私は最初に数字を揃えた。
そしてこの電子レンジを景品として受け取ったのだ。
「これすごくいいものだよ! 私も新居に同じものを買おうと思ってるの。使ってみて感想聞かせてね!」
そう言って笑っていた同級生の顔が、ふと頭に浮かぶ。
大企業に勤める商社マンと結婚した彼女は、本当に幸せそうだった。
そこまで仲がいいわけでもない同級生。
結婚式に招かれたのは、自慢するためだとわかっていたのに、どうしてわざわざ出席してしまったのだろう。
このレンジを置くために処分してしまった古いレンジが懐かしい。
それは学生の頃から十年以上も使い続けていた、とてもシンプルなものだった。
私はため息をつきながら、新しいレンジの扉を開けた。
賞味期限の切れたコンビニ弁当を入れて扉を閉め、前面の操作パネルに触れる。
ピッという短い操作音に続いて、機械音声が流れ出した。
「メニューダイヤルを回して調理したいメニューを選択し、決定ボタンを押してください」
その声が流れはじめた途端、ついしかめっ面になってしまう。
このレンジには親切な音声ガイダンス機能がついていて、なにかボタンを押すたびにいちいち丁寧に話しかけてくるのだ。
無機質でゆっくりとした女性の声に思考を遮られるたび、私はつい苛立ってしまう。
言われなくてもわかっているのに、毎度毎度うるさいレンジだ。
この音声を聞いている間だけでも、五秒は思考を止められてしまう。
私にとって、その五秒は貴重なのだ。
音声を切る設定がないかと、何度か説明書を読んだけれど、止める方法はないらしい。
だいたいメニューが二百以上もあるなんて、選ぶだけで時間がかかる。
以前のシンプルなレンジは操作も簡単で、なにも悩まずに使うことができた。
ピピッ!
「あたため温度を設定してください」
ピピッ!
「あたため温度が五十度に設定されました」
操作のたびに話しかけてくる電子レンジへ舌打ちし、私は「あたためスタート」のボタンを押した。
オレンジ色の庫内灯がともり、ブゥーンという低い動作音が響きはじめる。
温めにかかる時間は二分くらいだろうか。
その待ち時間すら惜しく感じて、私はパソコンの前まで戻った。
――まずはレモンとピスタチオのタルトから……。
写真のアイコンをクリックしたとき、メールの通知音が鳴った。
メッセージの送り主はクライアントだ。ずいぶん返事が早い気がする。
希望どおりに仕上げたはずだから、気に入ってもらえるとは思っていたけれど、もう確認できたのだろうか。
ゴーサインが出たら、データが問題なく印刷されるよう、次の工程に進まなくては。
だけど、届いたメッセージは、予想外の内容だった。
「お世話になっております。デザインについては、こちらの方向性で問題ございません。ただ、社内で再検討した結果、宿泊プランをいくつか追加することになりましたので、内容の差し替えをお願いいたします。あわせて写真も撮り直しましたので、添付のものをご使用ください。追加の内容につきましては……」
長い修正指示を読み終えて、私は頭を抱えてしまった。
デザインは問題ないと言われても、ここまで内容が変わっては、小手先の修正では済まされない。
これは最初に渡されたプランや写真に合わせて組み上げたもので、あの内容だったからこそ、バランスよく仕上がっていたのに。
もちろん、直せないわけではないけれど、昨夜から必死に進めた作業のほとんどが無駄になってしまう。
制作開始後の変更には追加料金がかかることを契約時に伝えてあるけれど、クライアントはそのことを覚えてくれているだろうか。
それよりも、いまになってこれだけ変更しておいて、納期はそのままなのだろうか?
いや、プロならここはなんとしても間に合わせないと……。
そんな私の思考を、電子レンジの機械音声が遮った。
ピピー!
「温めが完了しました。庫内からの取り出し忘れにご注意ください」
――うるさいわね。いま考えてるところなのに。
私は唇をかみながら、心の中でレンジに悪態をついた。
食べるために温めた弁当だけど、もうすっかり頭から抜けていたのだ。そこへ大がかりな修正依頼が届いて、食欲は完全に失せてしまった。
どうせ賞味期限も切れているし、私はいまそれどころではない。
私は電子レンジの音を無視して、依頼されたデザインをどう直すか考えはじめた。
開いていたスイーツ写真のフォルダを閉じ、宿泊プランのページを再び表示する。
少し文字を小さくすれば、追加された内容を詰め込めるだろうか。
でも、それでは全体のバランスが崩れるし、視認性も悪くなってしまう。
――そうだ、この辺りのデザインを、こんなふうに変えれば……!
いい案が浮かんだと思った瞬間、再び電子レンジの音が鳴った。
ピピー!
「温めが完了しました。庫内からの取り出し忘れにご注意ください」
「ちっ。本当にうるさいレンジね……」
舌打ちと一緒に苛立ちが口からこぼれる。せっかく浮かんだアイデアは、一瞬でどこかへ消えてしまった。
この電子レンジは温めが終わると、扉を開けて中身を取り出すまで、何度でもこの音を鳴らしてくる。
本当に無神経で、いやらしくて、迷惑極まりない電子レンジだ。
パソコンの画面を凝視していた目を閉じて、音が止むまでしばらく待つ。
どうせ作業を中断するなら、少しでも目を休ませておきたい。
――せっかく完璧なデザインだったのになぁ。仕方ないわね。写真はこっちへ移動して、これをここに……。
頭の中で配置を考えてから、目を開けて作業を再開する。
すると、また電子レンジが私を急かした。
ピピー!
「温めが完了しました。庫内からの取り出し忘れにご注意ください」
「あーーーっ! ほんっとうにうるさいわね! 馬鹿みたいに同じことを何度も何度も! いい加減にしてよ! この、クソレンジが!」
はしたない言葉を叫びながら、私は仕方なく立ち上がる。
そしてレンジから弁当を取り出すと、その場で口へ詰め込んだ。
△
それから一週間後、私はようやくデザインの仕事を終えた。
あのあとも何度となく修正依頼が届き、最終的に完成したものは、最初に作ったデザインとまるで違うものだった。
少しも気に入っていないけれど、クライアントが気に入ったなら仕方がない。
一応無事に終わったものの、時給は百円以下だと思う。
大きなため息をつきながら、私は洗面所で顔を洗った。
鏡に映った自分を見ると、なんだか前髪が薄くなった気がする。
仕事部屋に戻ってみれば、床には抜け毛が散乱していた。
――気のせい、気のせい。
自分にそう言い聞かせて、抜け毛は見なかったことにする。
こんなことなら独立などせず、会社に残ればよかっただろうか。
冷凍庫の扉を開けると、コンビニで買っておいた弁当が凍っている。
私はそれをレンジに放り込み、また弁当を温めはじめた。
この一週間、私は何度この電子レンジに向かって怒鳴っただろう。
もう今日は、怒鳴る気力も残っていない。
電子レンジの庫内ではオレンジ色のランプがともり、ブゥーンというファンの音が響いている。
ぼんやりその様子を眺めていると、レンジは音もなく停止した。
同時に庫内のランプが消灯する。
――あれ? 止まった? 音も鳴らずに……。
そういえば、さっき「コンビニ弁当」のメニューを選んだときも、操作音が鳴らなかった気がする。音声ガイダンスも流れなかった。
このレンジを手に入れて、まだ数ヶ月しか経っていないのに、もう故障してしまったのだろうか?
前に使っていたシンプルなレンジは、十年以上もなんの問題もなく動いていたのに。
庫内から弁当を取り出すと、しっかり温まっている。
試しに、コーヒーも温めてみた。
電子音も鳴らず、音声も流れないけれど、コーヒーは問題なく温まっている。
どうやら、音だけが壊れたらしい。
あれほど「うるさい」と文句を言ってしまったけれど、鳴らないとなると話は別だ。
これではボタンを押せたのかわかりにくいし、温めが終わったことにも気づけない。鳴らなくては困る音もあるのだ。
「もう! なんなの? 新しいレンジを買うお金なんてないんだから。しっかりしてよ、このポンコツレンジ!」
また悪態をつきながら、私は庫内を覗き込んだ。
その瞬間、目の前がくらりと揺れる。
またいつものめまいだろうか。
視界が白くかすみ、全身から力が抜けていく。
体が宙に浮くような感覚に襲われ、目を開けることもできない。
回転するような揺れがようやく弱まり、ゆっくりとまぶたを持ち上げると、黒い床の上に倒れていた。
ここは、いったいどこだろう。
恐る恐る顔を上げると、黒く四角い天井に、金属管やグリルヒーターのようなものが並んでいる。
どう見ても普通の場所じゃない。
――なにここ? レンジの中!? どうして!?
どうやら私は、電子レンジの中に収まるほど小さくなってしまったらしい。
そのとき、昔耳にした嫌な話が、私の頭に思い浮かんだ。
外国の人がレンジで猫を温めようとして、破裂させてしまったという話だ。
――もし、レンジが動き出したら……。
ゾッとしながら振り返ると、電子レンジの扉は開いていた。
一刻も早く、ここから出なければ。
力の入らない体で這いずりながら、必死に出口へ向かって進む。
けれど無情にも、レンジの扉は閉まりはじめた。
そして私の目の前で、パタンと音を立てて閉じてしまう。
庫内にはオレンジの灯がともって。
ブゥーンという低い音が、私の体を震わせた。
△
「吉田さーん、いらっしゃいますかー?」
貸しアパートの二〇一号室。
その扉の前に立ち、男は何度もインターホンを鳴らしていた。
彼は、このアパートを管理している不動産会社の社員だった。
二〇二号室の住人から「隣の部屋から変な匂いがする」と苦情が入り、仕方なく様子を見に来たのだ。
二〇一号室の住人は、先月から家賃も滞納している。
最近は、部屋を出入りする姿も見かけないという。
「吉田さーん? 近隣から苦情が来てます。返事がないようなら、入りますよー」
男はマスターキーで扉を開け、部屋の中に入っていった。
異臭の漂う室内で、なぜか電子レンジの音が鳴り続けている。
ピピー!
「温めが完了しました。庫内からの取り出し忘れにご注意ください」
ピピー!
「温めが完了しました。庫内からの取り出し忘れにご注意ください」
ピピー!
「温めが完了しました。庫内からの取り出し忘れにご注意ください」
ピピー!
ピピー!
ピピー……。
男は首をかしげながら電子レンジへ近づき、その扉に手をかけた。
== FIN ==
お読みいただき、ありがとうございました!
つい何か月か前の活動報告で、「私はもうホラーなんか書かないんだ!」と宣言していた気がするのですが、ちょうど『三頭犬』が休載中ということもあり、つい書いてしまいました。
なろうの活動報告は、その日の気分で書いてしまっておりますので、どうかお許しください(^_^;
私の作品は優しさや救済に寄ることが多く、ホラーとはあまり相性がよくないと感じていたので、今回はできるだけホラーらしくなるよう頑張ってみました。いかがでしたでしょうか。
少しでもゾクゾクする感覚を味わっていただけていたら嬉しいです。
グラフィックデザイナーは、私も一時期経験したことのある職業です。主人公の独白は、半分くらい当時の私の心境かもしれませんww
(さすがにレンジに怒鳴ったりはしませんでしたがw)
面白かったと思っていただけましたら、評価や感想をいただけると嬉しいです!
よろしくお願いいたします。




