第9話 花言葉の答え合わせ
辺境伯の手紙を、最初から読み返した。
前回届いた手紙は、追伸が空白だった。あの空白が何を意味していたのか。新しい手紙でようやく明かされた。〈あなたが学術院に行くなら止めない。ただ——追伸に書いたことを、いつか直接言える日が来ればと思っています〉
追伸に書いたこと。でも、追伸は白紙だったはずだ。書こうとして書けなかったのか。書いて消したのか。その空白に何が詰まっていたのか。
その謎が頭から離れない。枕に顔を埋めても、薬草園で鋏を握っても、食事の席で匙を止めてしまっても、ずっとそのことを考えていた。空白の追伸。書きかけの言葉。あの人の不器用さが、いちいち胸に引っかかる。
私は立ち上がり、これまで受け取った手紙を全て取り出した。木箱に大切にしまっていた手紙たちを、一通一通、机に並べた。七通。どれも几帳面な字で綴られていて、いくつかの手紙には押し花が同封されていた。
最初の手紙。土壌の酸性度と栽培法についての、正確で簡潔な回答。便箋三枚。字がどこか緊張しているように見える。インクの濃さが均一で、何度も書き直したのだろう。次は薬草だけでなく辺境の気候まで書かれた長い返事。「こちらでは朝霧が多く、湿度が高いため〜」と、まるで招いているかのような丁寧さで。その次から追伸が始まった。最初は一行だけだった追伸が、二行になり、半ページになり、最後には本文より長くなった。
そして——押し花。
冬薔薇。銀木犀。忘れな草。月見草。春告げ草。
それぞれの花が何を意味していたのか。知りたいような、知りたくないような。こわい。でも知りたい。その矛盾が、足を動かした。
◇◇◇
辺境伯の書斎に行った。許可なく。
ディートリヒ様が領地の巡視に出たのを確認してから、扉を開けた。許されない行為だとわかっていた。でも、知らずにはいられなかった。
いつも静寂に満ちたその部屋。磨いたオーク材の机。窓から差す光。そこに、一冊の本が目に入った。花言葉の辞典。背表紙が擦れて色褪せている。明らかに何度も何度も開かれた本だ。
手に取ると、付箋だらけだった。黄色、緑、ピンク。いくつもの色がページの端から覗いている。
恐る恐るめくると——全て、私に送った花ばかりが記されていた。
冬薔薇のページ。付箋に丁寧な字で「冬にも咲く想い」と書かれている。あの几帳面な筆跡。手紙と同じ筆跡。間違いなく、あの人の字だ。
指が震えた。
冬にも咲く想い。季節に関わらず、変わらない想い。最初の手紙に同封されていた花。あの時は何も知らずに窓辺に飾った。花びらが透き通るようなピンク色で、きれいだなとだけ思っていた。
銀木犀。「遠くから届く声」。遠く離れていても、声を届けたい。二通目の追伸に添えられていた花。あの時「花言葉は何だっただろう」と思ったのに、調べなかった。調べていれば——
忘れな草。「私を忘れないで」。
月見草。「待つ人」。いつまで待つのか。何を待つのか。夜にだけ咲く花。この人は、夜の温室で一人、待っていたのだろうか。
春告げ草。「再会」。再び会える日。いつか、必ず。
辞典を握る手が震えた。視界が歪んだ。何度読んでも、花言葉は変わらない。全て同じ方向を指していた。全ての花が、一つの想いでつながっていた。
そして——辞典の最後のページに、手書きのメモがあった。辺境伯の字で、小さく。
「バラの新種。名前は……やめておこう。直接的すぎる。いつか対面でこの花の名を言える日が来るまで、待つ」
その言葉を読んだ時、全てが繋がった。
幼少期の少年。泣いていた私に冬薔薇をくれた少年。灰色の瞳。静かな声。「泣かない方がいい」。
あの少年が、この人だったのだ。
全ての手紙が。全ての花が。あの日の出会いから、一本の糸でつながっていた。ディートリヒ様は、ずっと知っていたのだ。あの時の少女が私だと。だから冬薔薇を最初に送った。だから——
書斎の片隅で、泣いた。声を殺して。手紙を握り、辞典を握り、ただ泣いた。窓から差す光が床に四角い模様を落としていて、その明るさがやけに目に沁みた。こんな大事なことに、何ヶ月も気づかなかった自分が、どうしようもなく間抜けだった。同時に、ようやく気づけた自分を、必死に応援したくなった。
涙を拭いて、辞典を元の場所に戻した。背表紙が擦り切れたその本を、少しだけ撫でた。この本を何度開いたのだろう、この人は。一輪の花を選ぶために。私に届けるために。
◇◇◇
王立学術院から通知が届いたのは、その三日後のことだった。
〈ランゲ男爵による学位指導は虚偽であり、当院に報告された履歴書の内容に重大な改竄が認められました。つきましては、再審査を実施いたします〉
兄ヘルムートの嘘が、公式に破裂した。社交界の縁談も白紙になるだろう。妻の実家の援助で領地を縮小経営するしかない。兄の信用は地に堕ちた。
何度も兄の嘘に怯えていた。社交界で兄の名前が出るたびに胃が縮むような感覚があった。でも今となっては、その恐怖さえ遠い過去だ。兄の破滅よりも、今の私にはもっと大切なことがあった。
◇◇◇
ディートリヒ様と改めて対面したのは、兄の発覚から二日後だった。
私は既に決めていた。学術院には行かない。ここで研究を続ける。「辺境伯領からの通信研究員」という新しい形で。辺境にいながら学術院に研究を送る。その提案を学術院に出す。研究と、この人のそばと、両方を手放さないために。
手紙を何度も書き直した。学術院への提案文。完璧に仕上げた上で、ディートリヒ様に報告しようと決めていた。夜更けまで机に向かった。蝋燭を二本使い切った。
応接室で、いつもの沈黙の中、ディートリヒ様を前にして深く息を吸った。
「……名前で、呼んでいいか」
その言葉が、この人の口から出た。たった六語。でもそれは、これまでの全ての手紙に匹敵する——いや、それ以上の重みを持っていた。
手紙では何枚でも書ける人が、対面でようやく絞り出した六語。灰色の瞳が揺れていた。いつもの無表情ではなく、何かを堪えるような表情。
私は、静かに、心の底から頷いた。
「ディートリヒ様」
名前を呼ぶと、彼の表情がわずかに動いた。灰色の瞳が、じっと私を見つめていた。手紙では書ききれない想いが、その瞳に映っていた。




