第6話 試験と温室
辺境伯領リンデンは、思っていたより温かい街だった。
馬車から降りると、冬の光が石造りの建物を照らしていた。想像していた「寒冷な辺境」ではない。市場には野菜が積まれ、工房からは職人の声が聞こえる。手紙には「小さな街です」と書かれていたが、小さいのは人口だけで、空気は広かった。石畳の通りに馬車の轍が刻まれていて、人の往来がある街だとわかる。
待っていた男性が近づいてきた。三十前後。厳しい目つきだが、態度は丁寧だ。
「お待ちしておりました。副官のクラウス・ヴェーバーです。あなたが手紙の——失礼、薬草園顧問の応募者ですね」
今、一瞬、「手紙の」と言いかけた。聞き間違いではないと思う。
「エルザ・フォン・ランゲです。よろしくお願いいたします」
「本日、選考委員会の実技試験を行います。領地の学者二名と、街の薬師ブリギッテが審査員です。辺境伯ご本人は審査には関わりません。公正を期すために」
辺境伯は審査に関わらない。その一言に、少し安堵した。情けで採用されるわけではない。実力で勝ち取れるかどうか、それだけだ。
クラウスに導かれて、薬草園に向かった。街の外れに広い敷地があり、立派な石造りの建物。整備された通路。いくつかの区画に分けられた畑。そして——奥にガラス張りの温室が見えた。手紙で何度も読んだ温室。
◇◇◇
試験会場は、薬草園の荒れた区画だった。
「この区画を診断していただきます。状態を判断し、再生計画の概要を、五分以内に口頭で説明してください」
ブリギッテと名乗った薬師が告げた。五十代の女性で、声は低く、目は鋭い。この人が辺境伯領の薬師か。腕を組んで、私を値踏みしている。
私は区画に入った。靴の底から土の柔らかさが伝わる。荒れている、と一歩で分かった。
まず土を一握り、手に取った。指の間から零して、湿り気を確かめる。鼻を近づける。酸っぱい匂い——phが酸性に寄っている。北側に苔がびっしり生えて日当たりが悪い。植物の枯れた跡には根腐れの痕跡。排水設備が劣化しているのが見て取れた。
膝をついて、さらに深い位置の土を掘った。指先で粒子の大きさを確かめる。
「この区画は、まず排水設備の修復が必須です。北側の遮光物——あの壁の蔦を整理して日照を確保します」
土を擦った。粒子が細かい。
「土壌のphは酸性寄りですので、石灰を混ぜて調整します。最初の一年は赤詰草を植えます。根が深く、痩せた土を肥やしてくれる。窒素固定の効果もある。その間に排水層を砕いた軽石で再構築して、翌年から本格的に薬草を入れます」
「軽石の排水層」とブリギッテが言った。「それは誰に教わった」
「文献で学びました。粒度を三種に分けると排水速度を調整できます。上層は粗め、下層は細かめ。祖母が残した研究ノートにも同様の記述がありましたが、実践で確認できたのは最近です」
つい、手紙で教わった知識が口をついて出た。粒度の三種分けは、あの人の助言だ。
ブリギッテの眉が少し動いた。「予算の概算は」
「排水設備の修復に銀貨十枚。石灰と赤詰草の種子に銀貨三枚。工期は三ヶ月を見込みます」
五分以内に、全てを述べ終えた。
「この知識は本物だ」
ブリギッテの声は短かった。
「理論だけじゃない。実地で手を動かした人間の判断だ。土の匂いで酸性度を読むのは教科書では身につかない。この若さでここまでの診断ができるのは珍しい。採用を推奨する」
クラウスが書類を出した。
「正式に、辺境伯領の薬草園管理人としてお雇いいたします。月給銀貨三十枚。食事と住居付きです」
実力で。情けではなく。
その安堵が、胸の中でゆっくり広がっていった。
◇◇◇
「では、辺境伯がお会いになると仰っています」
クラウスに連れられて、辺境伯の執務室に向かった。廊下を歩く間、心臓がうるさいのを意識して、無視した。平坦に保つ。これは仕事だ。
部屋は想像より質素だった。大きな窓。机の上に手紙と書類の山。壁には領地の地図。赤い印がいくつか。開発計画だろうか。
そこに立つ人物は——
黒髪。灰色の瞳。二十八歳と聞いた通りの年格好。手紙では何枚も何枚も書く人のはずなのに、目の前の人物は——
「……よく、来た」
三語。それだけだった。
沈黙が部屋を満たした。灰色の瞳が私を見ている。表情からは何も読み取れない。手紙で見たあの饒舌さは、どこにもない。別人のようだった。
「ありがとうございます、辺境伯」
私も短く返した。感情は押し殺す。
「……試験。どうだった」
「おかげさまで、採用いただきました」
「……そうか」
窓に目をやった。何か言いたげな横顔が、不思議と少年のように見えた。
◇◇◇
「……温室。見るか」
その申し出は不意だった。執務室での会話はこれで終わりかと思っていた。クラウスではなく、辺境伯自身が先に立った。無言で廊下を歩く背中を追った。長い廊下を、靴音だけが響いている。二人分の足音。手紙では何枚も交わしたのに、並んで歩くのは初めてだった。
温室は大きなガラス張りの建物だった。中に入ると、暖かい湿度が肌にまとわりついた。外の冬が嘘のように、緑が生き生きとしている。手紙で何度も読んだ品種がそこにあった。トウキ。オウギ。五年かけて作ったという温室。ガラスの隙間から差す光が、葉を透かして縞模様を作っている。
そして——奥の一角に、冬薔薇が咲いていた。
淡いピンク色の花。手紙に何度も出てきた花。丁寧に手入れされた一角に、何十輪もの冬薔薇が咲き誇っている。
「……これ。手紙に」
思わず声が出た。
辺境伯は振り返らなかった。冬薔薇の前で足を止めた。その背中が、少しだけ固くなったように見えた。
「はい。きれいです」
「……ああ」
一語。それだけ。
でも、その一語に、手紙の何十枚分かの重さがあった気がした。手紙では追伸を四本も書く人が、対面ではこの一語しか出せない。そのことが——なぜか、胸に来た。
温室のガラスに映る自分の姿が見えた。褪せた藍色のワンピース。旅の塵で汚れた髪。もう少しまともな格好で来ればよかった。でもこの人はたぶん、そんなことは見ていない。
辺境伯が温室を出る時、小さな声が聞こえた。
「……手紙、届いていたか」
振り返った時には、もう背中しか見えなかった。廊下の向こうに消えていく影を、じっと見つめた。




