第5話 エーレンフリートの名前
エーレンフリートは、人の名前ではなかった。
辺境伯領に向かう道中、小さな宿に泊まった三日目の晩。私は食堂で粥とライ麦パンを食べながら、隣のテーブルで商人たちが交わす会話を聞いていた。宿の食事は質素だが温かい。干し肉と蜂蜜漬けの木の実が添えられていた。
「エーレンフリート辺境伯の領地だってね」
「ああ、あそこはな。辺境伯はとんでもない人物らしいぞ。寡黙で、冷酷非情。領民との面会もほとんどしないと聞く」
匙を持つ手が止まりかけた。冷酷非情。その四文字と、あの丁寧な手紙の筆跡が、頭の中でどうしても結びつかない。
「つまり、ろくでもない領主か」
「いや、待て。あの領地には見事な薬草園があるんだ。辺境伯自ら管理させているらしい。それにな——」商人が身を乗り出した。「あの冷酷非情な辺境伯が、手紙好きの変わり者だって話もある。難しい手紙をよこすらしいぞ」
私は匙を止めた。
蜂蜜漬けの木の実。その名前を手紙で何度も見た。「この季節は蜂蜜漬けの木の実がよく実ります。冷えた体に良く、冬の疲れに効きます」「蜂蜜漬けの木の実とセージを合わせて飲むのは、経験則ですが悪くないと思います」。一字一句覚えていた。あの几帳面な筆跡も。追伸で書かれていた「冬薔薇が咲いています」という一文も。
蜂蜜漬けの木の実を一つ口に入れた。甘くて、少し苦い。手紙に書いてあった通りの味だ。あの人は味まで正確に伝えてくれていたのか。
「手紙好きの変わり者、か。面白いな」
私は粥をもう一口すくった。手紙好き。あの追伸の長さを思えば、そうだろう。変わり者。それも否定しない。
「それで、採用試験を受けに来る薬師がいるらしいぜ。外部から。薬草園の管理人の公募だとさ」
◇◇◇
食後、自室に戻って薬師組合の名簿を取り出した。五年前に薬師試験に合格した時に贈られた大切な一冊。各領地の薬師の連絡先や、組合の統括機構が記載されている。
「エーレンフリート」の欄を探した。
組合長の名前は「ゲルハルト・フォン・シュテルン」。エーレンフリートではない。その下に各領地の薬師一覧。「エーレンフリート辺境伯爵家」の項には、代理人としてクラウス・ヴェーバーの名が記されている。
つまり——「エーレンフリート」は、人名ではなかった。辺境伯の家名だ。
私が宛てた手紙は、薬師組合長に届いたのではない。辺境伯の屋敷に届いた。そして辺境伯本人が——あの丁寧な手紙を書いたのだ。
匙を皿に置いた時の静けさが蘇る。テーブルの下で両手が震えていた。膝の上に押し付けて、気づかれないようにした。
あの丁寧な手紙。「薬草園の仕事に興味がおありでしたら」で始まる招待。紙質の良さ。几帳面な筆跡。追伸の「冬薔薇が綺麗に咲いています」。知識の深さ。失敗談の正直さ。追伸に同封された押し花の美しさ。
全部——辺境伯からだった。
薬師組合長ではなく。推薦でもなく。あの人自身から。
名簿を閉じた手が冷たかった。暖炉の火がまだ燃えているのに、指先の温度だけが下がっていく。あの手紙を何度も読み返した夜のことを思った。追伸の温かさに、救われた夜のことを。
◇◇◇
蝋燭が揺れる自室で、ベッドの端に座った。
五年間、密かに貯めた銀貨五十枚をカバンの底に入れて、あの人の薬草園で働きたいと思っていた。実力で認められたいと。「家族の手伝い」ではなく「薬師」として見られたいと。兄の名前ではなく、自分の名前で。
でも——もし辺境伯が、文通相手の正体を知っていて、「情けで」雇ってくれるつもりだったとしたら。同情で採用されたとしたら。
その可能性が、胸に刺さった。
セージに似ている、と自分で思う。香りだけは良いが、根が浅い。踏ん張りがきかない。誰かに頼りたがる。だから五年も兄の影に隠れていたのだ。祖母は「薬草は正直だよ。手をかけた分だけ返してくれる」と言っていたけれど、手をかける場所すら与えてもらえなかったのだ、あの家では。実力で勝ち取った立場がなければ、私はいつまでも「誰かの付属物」だ。
「まあ、いいのだけれど」
と呟いた。呟いてから、いいわけがないと思った。
◇◇◇
夜中、眠れずに天井を見ていると、ふと昔の記憶が蘇った。
子どもの頃。冬の早朝。薬草の採取で失敗して、一人、雪の中で泣いていた。指は冷えて、心はもっと冷えていた。もう家に帰れないと思っていた。祖母に叱られる。兄に笑われる。失敗した自分が情けなくて、涙が止まらなかった。
そこへ旅の少年が現れた。名前も知らない少年が、ポケットから押し花を取り出した。
「泣かない方がいい。冬薔薇だ。冬の中で咲く花。おまえも、そういうの好きじゃないか」
押し花は綺麗だった。淡いピンク色の花びら。何年も経った今でも、形を覚えている。そしてあの少年の瞳。灰色で、静かで、何か遠くを見ているような目。あの時、泣き止んだのは、押し花が綺麗だったからではない。あの瞳が、私を見ていたからだ。
辺境伯は二十八歳。黒髪で、灰色の目だと聞いた。
もしかして——
いや。偶然だ。きっと偶然だ。世の中に灰色の目をした人間は、他にもいる。
でも、冬薔薇を最初に同封してきたのは——
考えるのをやめた。考えたら、馬車に乗れなくなる。
◇◇◇
翌朝、宿の前に馬車が待っていた。
薬師組合からの通知が一通。「エーレンフリート辺境伯領、薬草園管理人の公募に貴殿の応募がなされております。面接のため、迎えの馬車を手配いたしました」
正式な組合の印。私の名前。応募日時。試験の予定日。
引き返す選択肢はある。辺境伯に「情けで」雇われるくらいなら、別の領地で——そう言い聞かせることはできる。
でも。
あの手紙の言葉は本物だった。冬薔薇の話も。蜂蜜漬けの木の実の効能も。「失敗して学ぶのは、植物も人間も同じです」という一節も。全部、あの人の本当の言葉だったのだ。
私は馬車に乗った。
ただし——もし情けだったら。あの人が、あの少年でなかったら。押し花が別の誰かからだったら。
その時は、別の話だ。
馬車の窓から景色が流れていく。ランゲ男爵領の灰色から、北の緑へ。畑の色が変わり、木々の高さが変わり、空気の匂いが変わっていく。
あの人に、会える。
その思いと、「情けで雇われるはずがない」という言い聞かせが、何度も何度も、胸の中を往復した。




