第4話 閣下、追伸が本文より長いですが
「手紙が届くと、閣下は必ず温室に行く。それに本人が気づいていないのだから、救いようがない」
クラウスが侍女にそう話しているのを、廊下で聞いた。俺のことだ。否定はしない。
俺の名前はディートリヒ・フォン・エーレンフリート。辺境伯を継いで五年になる。領地経営は順調だが、温室に通う頻度は最近明らかに増えている。理由は——まあ、手紙のせいだ。あの人からの手紙が届くと、なぜか花を見たくなる。因果関係は不明だ。不明ということにしておく。
今日もランゲ男爵領から手紙が届いた。六通目。一ヶ月で六通。季節ごとの領地報告書より多い。定期便の配達人が、最近少し笑うようになった。気のせいだと思いたい。
「また手紙ですか。最近多いですね、閣下」
クラウスが封筒を机に置いた。副官として三年の付き合いだが、こいつの目は確実に笑っている。何に気づいているのか——聞かない。聞いたら負けだ。
「ああ」
俺は封を切った。いつもの几帳面な文字が目に入る。この人の字は、薬草の学名だけ妙に正確で、人名のところで時々揺れる。同じ人間が書いているとは思えないくらい、学名は完璧で、人名は怪しい。その揺れが、好きだ。
——好き、は正確ではない。興味深い。そう言い直す。
〈もし、今いる場所を離れるとしたら、どのようにお考えになりますか〉
手が止まった。
〈卑怯な相談だとわかっています。でも、自分で決めても揺らぐ——〉
この人が揺れている。何かがあった。前の手紙にあった兄の話。成果を自分のものとして吹聴する兄。この人はいつも「まあ、いいのだけれど」とごまかすが、いいはずがない。文面の端々に、押し殺した怒りが滲んでいる。インクの筆圧が、他の行より少しだけ濃い。
返事を書かなければ。
◇◇◇
返事に三時間かかった。
最初は冷静に書いた。薬草取引の相談への回答。論理的で、客観的で、簡潔な助言。辺境伯領の類似事例を引きながら、独立した薬草事業の可能性について述べた。これで充分だ。
充分なはずだった。
だが書いているうちに、筆が本文から逸れ始めた。
「自分のためだけに動くことを、あなたは恐れているのではないでしょうか。でも、それは悪いことではありません。俺も——私も、この領地のために動く前に、自分が何をしたいかを考えた時期がありました。答えが出るまでに三年かかりました。あなたは、もっと早いかもしれません」
一人称が揺れた。手紙では「私」を使っている。丁寧に、距離を保って。だが書いている最中に「俺」が漏れそうになる。書き直すのが面倒なのではなく、この人に対しては「俺」で話したいという衝動がある。
追伸を書いた。
「押し花について考えています。花は咲いている時が美しい——そう思っていました。でも押し花には別の美しさがある。時間を閉じ込める美しさです。あなたの手紙も、そうです。読み返すたびに、違う色が見えます。同じ文面なのに」
二本目の追伸。
「あなたの手紙を読んでいると、筆が止まることがあります。言葉を追おうとして、止まる。これが何なのかわかりません。仕事に支障が出ています。副官に『最近ぼんやりされていますが』と指摘されました。問題ないと答えましたが、嘘です。明らかに問題があります」
三本目。
「もう一度申し上げます。判断はあなた自身にしかできません。ただ、あなたが決めたことを、私は尊重します。どのような決断であっても」
四本目。
「月見草を同封しました。花言葉は調べないでください。いえ、調べてもいいです。どちらでも構いません。——いえ、やはり調べてほしいです。すみません。この追伸は混乱しています」
◇◇◇
書き終えた手紙を机に広げたまま、温室に行った。
押し花にする花を選ぶ。これが最近の習慣だ。花言葉の辞典を書斎に置いてあるのはクラウスも知っているだろうが、何も言わないでいてくれている。今のところは。
ページを開く。赤いバラ——「愛」。送れるわけがない。露骨すぎる。淡いピンクのダリア——「優雅」。無難だが物足りない。忘れな草——「私を忘れないで」。
指が止まった。
露骨だろうか。いや、花言葉を調べるかどうかはこの人次第だ。調べなければ、ただの綺麗な青い花。調べたら——
「調べてほしい」と思っている自分がいる。
忘れな草を一輪、丁寧に押した。辞典の隅に小さくメモした。「この花は……やめておこう。直接的すぎる。いつか対面でこの花の名を言える日が来るまで、待つ」
待つ。いつまで。何年でも。そう思える自分が、少し怖い。
◇◇◇
クラウスが書斎を覗きに来た。
「返事は書き終わりましたか。定期便はあと一時間です」
「ああ」
「では発送の準備を——」
クラウスは机の上の手紙を見た。目が動いた。本文。追伸。追伸。追伸。追伸。
「閣下」
「何だ」
「追伸が、本文より長いですが」
沈黙。
確かに本文の倍以上ある。四つの追伸。最初が短く、後ほど長い。最後の追伸に至っては文面が混乱している。
「問題ないだろう」
「……かしこまりました」
クラウスは退出した。でも、その背中は確実に笑っていた。
◇◇◇
翌週、次の手紙が届いた。
〈お会いしたい人ができました。それは、この手紙の相手です〉
俺は、その一文で止まった。
手紙を持つ指が震える。
〈あなたとの文通だけが、私が自分のためにした唯一の選択でした。だから、その選択を続けたいのです〉
「お会いしたい人」。
……誰だ。
声が出ていた。小さな、間抜けな声。「この手紙の相手」と書いてある。だがそれは薬師組合の——いや、この人はまだ俺の正体を知らないはずだ。つまり「組合の偉い人」に会いたいということで——
「何か、ございましたか」
クラウスが顔を上げた。
「何でもない」
嘘だ。手紙が震えている。
追伸をさらに読む。〈馬で三日の道のり。エーレンフリート辺境伯領へ〉
来る。この人が、来る。
◇◇◇
その夜、クラウスが報告を上げた。
「領地の外道駅に、馬で来た女性が到着したとの報告がありました。ランゲ男爵領からと思われます。単独です」
俺は何も言えなかった。対面では三語がやっとの人間が、この状況で何を言える。
温室に行った。月見草の隣に、白いアネモネを植えた。花言葉は「真実」「期待」。
返事を書こうとした。書けなかった。会えばいい。明日、会えばいい。でも——会ったら何を言えばいい。手紙なら何枚でも書けるのに。
クラウスの声が頭の中で響いた。
「それに本人が気づいていないのだから、救いようがない」
うるさい。




