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勘違いから始まる辺境伯との文通生活、返事がだんだん甘くなっているのは気のせいですか?  作者: 九葉(くずは)


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第3話 最後の蒸留器

兄が社交界で何を言っているか、私はずっと知らないふりをしていた。


知らなければ怒らなくていい。知らなければ、この家にいられる。そう言い聞かせて一ヶ月が過ぎた。手紙は五往復目。あの人の返事はいつも丁寧で、追伸にはいつも押し花が同封されていた。今回は月見草の押し花だった。薄い花弁が、指先に触れると紙のように乾いていて、それでいてかすかに甘い匂いが残っている。この人は、花を摘む時期を知っている人だ。


窓辺に並んだ押し花が、五枚になった。冬薔薇、銀木犀、野のアネモネ、忘れな草、そして月見草。灰色の景色の中で、そこだけが色を持っている。


◇◇◇


商人が訪ねてきたのは、五月の晴れた午後だった。


兄ヘルムートは庭で客を迎えていた。年配の商人で、薬草の卸先としてこの家を三度は訪れている。私は薬草を干す小屋で千島衣の茎を一本一本切りながら、聞くともなく窓越しの声を拾っていた。乾燥に最適な湿度は五十パーセント。今日は雨が降っていないから、ちょうどいい。千島衣の茎は乾くと褐色になるが、切りたては鮮やかな緑色で、刃物を入れた瞬間に草の匂いが立ち上る。


「いやあ、本当に素晴らしい品質の薬草でしたよ。ランゲ男爵のもとでは、さぞかし優秀な方が」


「ええ。全て私の指導のもとですから。企画から営業まで、一手に管理しております」


兄の声が小屋まで届いた。


千島衣の茎が、ぽとりと落ちた。


いつもそうだ。兄は外では「私が」と言う。栽培計画も、品質管理も、薬師たちとの交渉も、季節ごとの植え付けも。全部私がやっている。でも名前が出るのは兄だけで、私は「使用人」と括られる。


一度だけ、兄に薬草の知識を共有しようとしたことがある。取引先の一覧表、各薬草の適正価格、出荷量の季節変動。兄は紙を一瞥して「そういう難しい話はいい。お前に任せる」と言った。任せるのに、成果だけは自分のものにする。


知らないふり。知らないふり。


小屋の中で、残りの千島衣を切り続けた。


◇◇◇


夜、机に向かった。


鉄製のインク壺から松脂の匂いが立つ。六通目の手紙を書く。ペンを握ると、指先がかすかに震えた。今日の震えは寒さのせいではない。


「もし、今いる場所を離れるとしたら、どのようにお考えになりますか」


書いた。消さなかった。


「卑怯な相談だとわかっています。誰かに背中を押してほしいだけなのです。でも、自分で決めても揺らぐ。誰かの言葉を借りて、決めたことを正当化したいだけかもしれません。それでも——あなたに聞いてしまいます。不適切な負担をおかけしていないでしょうか。この手紙を出すたびに、そう思います。でも、出してしまいます」


追伸。


「薬草は正直だ、と祖母がよく言いました。手をかけた分だけ返してくれる、と。でも家族に手をかけても、返ってくるものがあるのかどうか。最近、わかりません」


二本目の追伸。


「月見草の押し花、ありがとうございます。窓辺に飾りました。この花の名前は知っていますが、花言葉は知りません。今度、調べてみようと思います」


封をして、定期便に託した。


◇◇◇


三日後の朝。


マルグリットが台所にやってきた。兄嫁は朝から砂糖菓子をつまんでいて、甘い匂いが台所に充満していた。私はバーベインとカモミールを配合して薬草茶を淹れていた。朝に飲むならこのくらいの配合がちょうどいい。少しだけレモンバームを足すと胃にも優しい。


「エルザ、あの蒸留器のことだけど。処分したから」


手が止まった。


「処分って」


「古道具の引き取り商に渡したの。あんな場所を取るもの、いつまでも置いておけないでしょう。ちょうどいい値がついたわ。あなたのお小遣いにでもしようかと思って」


「——それは、祖母の形見です」


自分でも聞いたことのない声が出ていた。低くて、固い声。


「だから何? 新しいものが欲しければ、ヘルムートに言って買ってもらえばいいじゃない」


祖母の蒸留器。銀色の胴体に、革を巻いた取っ手。祖母がいつも側面を布で磨いていた。初めて薬草の蒸留を教わったのは、あの道具の前だった。冷却管に水滴が一つ一つ並んでいくのを見て、きれいだと思った。精油が一滴、受け皿に落ちた時の祖母の笑顔。十年以上前の記憶なのに、水滴の数まで覚えている。


「返してください」


「もう渡したって言ってるでしょう」


「返してください」


二度言った。三度目の言葉は、たぶんもう出ない。


マルグリットは「変な子ね」と呟いて、居間に戻っていった。


台所の隅で、座り込んだ。何も考えられなかった。窓から差す朝日が床を白く切り取っていて、その光の中に、祖母の声だけが響いていた。


「薬草は正直だよ。手をかけた分だけ返してくれる」


祖母はそう言って、蒸留器の側面を磨きながら笑っていた。もう聞けない声だ。でも、その蒸留器に毎日触れることで、声を聞いていた気がしていた。


五年間、手をかけた。この家のために。


返ってきたのは——


◇◇◇


翌日から、引き継ぎ書類を作り始めた。


薬草の取引先一覧。季節ごとの植え付け計画。乾燥温度と蒸留の手順。医師との契約書の控え。売上の記録。乾燥させた薬草の保管方法。虫除けの処理。梅雨の湿度管理。十年分の知識を、誰が読んでも理解できるように丁寧にまとめた。


二日かけて完成させた。兄の書斎の机に置いた。読むかどうかは知らない。以前、同じようなものを渡した時、兄は一瞥して「難しい話はいい」と言った。それきりだった。たぶん今回も読まないだろう。読む能力がないから。


「まあ、いいのだけれど」


と、心の中で呟きながら。


最後に手紙を書いた。あの人への七通目。


「お会いしたい人ができました。それは、この手紙の相手です。この家に、もう私の居場所はありません。祖母の形見を失った時、ようやく気づきました。知らないふりは、もう終わりにします。あなたとの文通だけが、この理不尽な生活の中で、私が自分のためにした唯一の選択でした。だから、その選択を、続けたいのです。行きます。それは逃げかもしれません。でも、もう知らないふりはしたくない」


追伸。


「宛先をまた間違えているかもしれません。でも今度は、間違えていないような気がします」


二本目の追伸。


「祖母の言葉を、もう一度信じようと思います。手をかけた分だけ返してくれるのなら。あなたへの手紙も、そうであってほしいと願って」


引き継ぎ書類を置いた翌日、私は家を出た。


貸し馬を一頭借りて、兄には「仕事の引き継ぎで遠方に行く」とだけ言った。マルグリットは蒸留器の件以来、私を見ていなかった。


三日間の道のり。エーレンフリート辺境伯領へ。


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