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勘違いから始まる辺境伯との文通生活、返事がだんだん甘くなっているのは気のせいですか?  作者: 九葉(くずは)


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第10話 あなたに会いに行く

最後の手紙を書く。今度は、宛先を間違えない。


学術院への提案書は、正式で、丁寧で、論理的に構成された。「辺境伯領からの通信研究員」という新しい試みを提案する理由を、一つ一つ述べた。


遠隔地からでも、定期的な報告と研究の進捗管理を通じて学術院の基準を満たせること。具体的な計画表とともに示した。むしろ辺境領における植物学の研究は、王都とは異なる気候条件と植生を有しており、新たな学術的価値を生む可能性がある。その点を複数の先行研究を引用しながら論じた。排水層に砕いた軽石を用いる技法も、辺境固有の土壌条件から生まれた知見として記述した。


そして、個人的なことだが、と前置きして——自分の居場所がここにあること。ここで力を発揮したいこと。その想いを、抑制的に、だが正直に書いた。


手紙を読み返した。何度も。論理に穴がないか。学術院の審査に耐えうるか。一文ずつ、指でなぞりながら確認した。祖母がそうしていたように。推敲を重ねて、完璧だと思えた時、ディートリヒ様に渡した。受け取る時、あの人の指が一瞬だけ震えたように見えた。見間違いかもしれない。


◇◇◇


返信が届くまで、一週間の沈黙があった。


学術院からの返信を待つ一週間は、途方もなく長かった。毎朝、郵便の到着時間になると手が落ち着かなくなった。薬草園の仕事に集中しようとしても、ふと定期便の馬車の蹄の音が聞こえるような気がして顔を上げてしまう。毎晩、明日こそはと願った。眠りが浅い夜が続いた。


届いたのは木曜日の午前中だった。白い封筒。学術院の印章が押された公式文書。


封を切る指が震えた。


〈新しい試みとして、「辺境伯領からの通信研究員」制度を認可する。当院の基準に従い、定期的な研究報告の提出を求める。本制度は、将来的に他の辺境領における学術研究の拡充にも応用されることを期待する〉


認可。


文字を何度も目で追った。一行目。二行目。三行目。どの行にも「却下」の二文字はなかった。


私の提案が通った。祖母の夢だった学術院での研究と、ここでの暮らしを、両立できる道が開かれた。不可能だと思っていたことが、文字になって返ってきた。


望郷の念もなく、野心も捨て、ただここで研究をしたいという願いが認められた。


◇◇◇


クラウスが、半ば呆れた顔で報告してくれた。


「閣下、今朝からずっと温室にいますが」


提案書を渡してから、ずっと温室に籠もっているのだろう。私の返事を待つように。対面では何も聞けないから、花の世話をしながら待っている。この人はいつもそうだ。


私は温室へ向かった。足が自然と速くなった。廊下の窓から、温室のガラスが冬の光を反射しているのが見えた。あの中に、あの人がいる。


◇◇◇


温室に入ると、ディートリヒ様の背中が見えた。


いつもの執務着ではなく、庭仕事用の簡素な服で植物を世話していた。袖をまくっている。手にスコップ。足元に泥。腕に土がついている。全く似合わない光景だが、その横顔は真剣で、業務をこなすように丁寧に花を扱っていた。辺境伯が泥だらけの手でスコップを握っている図は、社交界の人間が見たら目を疑うだろう。


温室の奥に冬薔薇が咲いていた。白い花びら。清廉な色。あの時——幼い日に少年がくれた花と同じ色。同じ香り。


「ディートリヒ様」


名前を呼んだ。はっきりと、迷いなく。


背中が震えた。ゆっくりと振り返った瞳に、驚きと、喜びと、そしてどこか怯えのような何かが映っていた。良い知らせか悪い知らせか、わからないからだろう。


「……エルザ」


私の名前を、この人がはっきりと呼んだ。初めて、口から。手紙でも最初は「ランゲ殿」だったのに、いつからか呼び捨てに変わっていた。その名前の響きが、全てを物語っていた。あの少年は、ずっとこうして私の名前を呼びたかったのだろう。


「学術院から返信が来ました」


自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。


「認可です。通信研究員として」


灰色の瞳が揺れた。


「私、学術院には行きません」


何度も心の中で繰り返した言葉。準備したのではなく、今、心から出てきた言葉だ。


「ここで研究を続けます」


ディートリヒ様が一歩近づいた。


「ここが——私の居場所です。ディートリヒ様がいる、ここが」


温室が静まった。沈黙の中で、ディートリヒ様は動かなかった。ただ、じっと私を見つめていた。


やがて、口が開いた。


「……ずっと、そう言ってほしかった。手紙にはもう、書ききれない」


対面でこんなに長い言葉を聞いたのは初めてだった。声が少しかすれていた。手紙を通じて何年も想いを伝え続けた人が、ようやく対面で、自分の声にして、私に向けた。


手紙の時代は、終わったのだ。


◇◇◇


兄の後日談は、三週間後に届いた。


社交界での信用失墜。妻の実家の援助による領地の縮小経営。完全な破滅ではないが、名声は二度と戻らない。妻との関係も冷え込んでいるという。時折、王都の噂は辺境にも届くが、兄のことを気にすることはもうなかった。


かつては、兄の嘘に怯えていた。かつては、兄の虚栄のために自分の人生を制限していた。五年間、影のように暮らしていた。だが今の私は、全く異なる道を歩いている。自分で選んだ道を。


◇◇◇


学術院への第一回研究報告を書いている。


ディートリヒ様が隣で花の手入れをしている。温室に机を一つ置いてもらった。研究と、この人の傍ら。両方が、ここにある。


報告は正式で、学術的で、完璧だ。厳密で、客観的で、感情を排したもの。いつも通り。でも、そこに一つだけ異例を加えようとしている。


「これ、報告に入れたいそうです」


ディートリヒ様が押し花を持ってきた。春告げ草。「再会」の花言葉を持つ花。


「学術院の公式報告に押し花は……」


非論理的だ。学術院の厳格な基準を考えると、ありえない。


でも、ディートリヒ様が私を見ていた。灰色の瞳に確かな想い。


「……入れたい」


わかりました、と頷いた。


「……少しだけなら」


ディートリヒ様の口元が微かに上がった。笑顔だ。この人が滅多に見せない笑顔。


報告の最後のページに、春告げ草を一輪、貼った。無粋だけれど、きれいだった。


論理と感情の間に、ほんの少しだけ隙間を作った。その隙間に、一輪の花を置いた。


これが、私の選択だ。


まあ、いいのだけれど。


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