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勘違いから始まる辺境伯との文通生活、返事がだんだん甘くなっているのは気のせいですか?  作者: 九葉(くずは)


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第1話 届くはずのない返事

東部薬師組合長エーレンフリート殿——と書いた時点で、もう間違っていたらしい。


けれどそんなことは知る由もなく、私はせっせとインクを乾かしていた。


鉄製のインク壺から立ち上る、かすかな鉄錆と松脂の混じった匂い。祖母が使っていたものと同じ匂いだ。このインク壺だけは、兄嫁に処分されないよう自室の棚の奥に隠してある。


私の名前はエルザ・ランゲ。ランゲ男爵家の末娘で、これといった取り柄もない——と、兄は言う。


まあ、薬草のことなら少しは詳しいけれど。


「東部地方における高山性薬草の土壌適性について、ご教示いただきたく……」


羊皮紙に綴る文字は、我ながら几帳面だと思う。薬草の学名なら一字も間違えない自信がある。人の名前と地名の組み合わせは、なぜかいつも怪しくなるのだけれど。


封をして、窓の外を見た。


ランゲ男爵領の冬は、灰色だ。空も、畑も、屋敷の壁も。窓ガラスに吐息が白く曇って、指で拭うと庭が見える。唯一の色は、庭の隅で寒さに耐えている薬草たちの深い緑。


あの子たちの世話をしているときだけ、ここにいる理由を思い出せる。


祖母が死んでから五年。私はずっとこの屋敷で、薬草を育て、薬師たちと取引をし、兄の家計を支えてきた。祖母は元宮廷薬師で、幼い頃から薬草の見分け方、調合の基礎、土の匂いで状態を読む技術を叩き込まれた。


それが唯一の財産だった。学問として認められたことはない。論文を出したこともない。ただ、手が覚えている。鼻が覚えている。舌が覚えている。


◇◇◇


手紙を出してから二週間が経った。


返事など来ないだろうと思っていた。薬師組合への問い合わせなんて、忙しい組合長が一介の男爵令嬢にいちいち構うはずがない。出したことすら忘れかけていた。


ところが、届いた。


朝食の黒パンと山羊乳のスープを片付けていたら、下男のフリッツが「お嬢様宛です」と差し出した封筒。ずっしりと重い。


「エルザ・ランゲ殿。高山性薬草の土壌適性についてお尋ねの件、以下に所見を述べます——」


開くと、びっしりと文字が詰まった便箋が三枚。しかも内容が、専門的すぎる。


土壌の酸性度と薬効成分の相関データ。高地と低地での栽培比較の具体的な数値。寒冷地における根腐れ防止の実践的技法——排水層に砕いた軽石を混ぜ、その上に腐葉土を三寸の厚さで敷く、とまで書いてある。


これは薬師組合の事務的な回答なんかじゃない。


書いている人が、自分でも薬草を育てている。それも、相当な腕で。


私は便箋を読み返した。三回読んだ。四回目は声に出して読んだ。文面は簡潔で、余計な社交辞令がない。「ご質問の趣旨は理解しました」から始まり、「不明点があれば再度ご連絡ください」で終わる。


素っ気ないと言えば素っ気ない。でも、一つ一つの回答が正確で、丁寧だった。特に根腐れ対策の項目には「私の経験では」と前置きしたうえで、三種類の方法が比較してあった。失敗例まで正直に書いてある。


この人は本当に薬草が好きなんだろうな、と思った。好きでなければ、見知らぬ相手にここまで書かない。


便箋の余白に、小さく植物のスケッチが添えてあった。根の張り方を示す図。几帳面な線。なんだか、祖母の研究ノートを思い出す。


気づいたら、お礼と追加の質問を書き始めていた。


「先のご回答、大変参考になりました。特に寒冷地の根腐れ対策について、もう少し詳しく伺いたいのですが——」


筆が止まらない。聞きたいことが次から次へと湧いてくる。祖母が亡くなってから五年、薬草のことを対等に議論できる相手がいなかった。兄に話しても「難しい話はいい」で遮られる。兄嫁に至っては「また変なことを」と眉をひそめるだけ。


だから——と言い訳するつもりはないけれど。


気づいたら便箋が四枚になっていた。薬草の質問だけではなく、「こちらでは今年の冬が例年より寒く、露地の薬草が心配です」とか、「以前祖母に教わった蒸留法を試しているのですが、どうも温度管理がうまくいかなくて」とか。余計なことまで書いてしまった。


まあ、いいか。どうせ事務的な返事が来るだけだ。


◇◇◇


「エルザ、またそんなことを」


お礼の手紙を封筒に入れていると、居間から兄の声が飛んできた。


ヘルムート兄さん——いえ、ランゲ男爵は、暖炉の前の椅子に深く沈んでいる。足元にワイン杯。昼間から。


「手紙を出すにも紙代がかかるんだぞ。無駄な通信はやめろ」


「薬師組合への問い合わせよ。兄さんが売りたいと言っていた高山薬草の栽培法を調べているの」


「ああ……それならいい」


兄は途端に興味を失って、手元のワイン杯に視線を戻した。


もう慣れた。兄にとって私は「薬草で金を稼いでくれる妹」でしかない。父が死んでから五年、私がこの家で薬草を育て、近隣の薬師たちとの取引を一手に引き受けてきた。その利益で家計が回っていることを、兄は知っている。


知っていて、「当然だ」と思っている。


何度か、薬草の知識を兄にも共有しようとしたことがある。取引先の薬師の名前、各薬草の適正価格、季節ごとの出荷量の目安。兄は書類を一瞥して「お前に任せる」と言った。それきりだった。


まあ、いいのだけれど。


封をして、ふと気づいた。


最初の返事の封筒に、何か挟まっている。見落としていた。


便箋の間から、薄い花びらが一枚、滑り落ちた。


押し花だ。


淡い白に、縁だけがほんのり紅い。指先で触れると、ぱりっと乾いた感触。冬に咲く花——冬薔薇。


こんな季節にどこで手に入れたのだろう。温室でもなければ咲かないはずの花だ。


なぜ、事務的な返事に押し花を?


不思議な人。


私は花びらを窓辺に置いた。灰色の景色の中で、その一枚だけが、ちいさく色を持っていた。


次の返事が届いたら——いや、届くかどうかもわからないのに。


でも、もし届いたら。今度はこちらからも、何か同封しようか。庭の薬草の押し葉でも。


そう考えている自分に、少し驚いた。


手紙のやり取りなんて、もう何年もしていなかったのに。


窓辺の冬薔薇が、西日を受けてかすかに透ける。花脈が細い線になって、光を通している。


誰だか知らない人の、ていねいな文字。事務的な回答に紛れ込んだ、一枚の押し花。


——次の返事を、楽しみにしている自分がいる。


それだけで、灰色の冬が、ほんの少しだけ明るく見えた。


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