カボチャの天ぷら・エフェクト
2018年、4月。
某氏は、ある都会のスーパーへ夕飯を買いに行った。
都会といっても、巨大ビルが密集するような土地ではなく、下町と呼ばれる地域である。
なので、物価が安い。ひとり暮らしの某氏は、いつも仕事帰りに、そこのスーパーで惣菜を買って帰っていた。
某氏は疲れ切った体で、ふらふらと惣菜コーナーへ入った。その日は天ぷらが大特価だった。
透明なプラ容器を片手に、某氏はトングの先をカチカチと合わせた。選り取り見取りである。
えび天にかしわ天、野菜のかき揚げ。好きなものをどんどん取っていく。
天ぷらの列の中に、白い衣を薄くまとった、手のひらぐらいの黄金色を見つけた。カボチャの天ぷらは某氏の大好物である。しかも揚げたてだった。
某氏はちょっと得をした気分でカボチャの天ぷらを1つ加えた。プラ容器はすでに山盛りの揚げ物で蓋が浮いていたが、無理やり輪ゴムで止めた。
そのまま他の惣菜を見に行こうとした時、カボチャの天ぷらがするりと落ちた。だが、某氏は気づかなかった。カボチャの天ぷらが床にべちゃりと着地した瞬間、某氏は、何かに引かれるように遠くへ目を向けた。
レジの待ち列の真ん中あたりに、見覚えのある顔が並んでいた。
天ぷら片手に、某氏はレジの列に向かってひた走った。何年も音信不通だった親友を見つけた驚きと喜びで、無我夢中になっていた。
友人は、ワンカップ酒を手にぶら下げ、力無く猫背で立っていた。記憶の中の姿よりも痩せ、髪がボサボサに垂れ下がっている。
友人の後ろはとんでもなく行列だったので、某氏は合流する振りをして友人の横に並んだ。「よっ」と声をかけると、友人はギョッとして某氏を見た。
「変な人が横にいると思ったら、あんただったの」「そっちこそ、こんなとこにいるとは思わなかったよ。この辺に住んでんの?」
「まあ… …」
友人は床に目を落として、気まずそうに黙った。
レジの列が1人分進んだ。商品をレジに通してもらっている最中の人も含めて、前にはまだ3人もいる。某氏は少し余裕をもって言った。
「今までどこ行ってたの。電話番号も『この番号は現在使われておりません』ってなるし、メールもLINEも」
「別に……。どこだっていいじゃん」
「でも、何も言わないで急に消えちゃったら、びっくりするって。あ、別に金返せとか言うわけじゃないよ。アレはもらっといて」
友人の目が、バサついた髪の間からぎょろりと某氏を見た。今にも逃げ出したそうに体を反らしているが、ワンカップ酒が鎖になってレジに繋がれているらしかった。
某氏は改めて友人の顔を見た。肌の色は青黒く、頬がこけている。服の汚れが目立つことも考えると、友人がその日暮らしの生活に落ちていることがすぐに想像できた。
レジがまた1人分進んだ。
「今晩は何食べるの」
「なんも。金ないし」
「仕事とか何かしてるの」
「ん……まあ、パチプロとか」
「へえー。パチプロってほんとにあるんだ」
「うん。今日はちょっと調子良くなかったけど」「まあ、そういう時もあるじゃんね」
レジが進んで、某氏たちの順番が来た。ワンカップ酒と天ぷら1パックはすぐにレジを通った。
「お会計、合計777円になります」
某氏は(お、ラッキーセブン!)と思った。だが、その後すぐに、こうも思った。
(なんで、お金ないのに、おにぎりとかじゃなくてお酒を買うんだろ?)
しかし、某氏は何も言わなかった。すぐに得心がいったのである。誰しも、何を捨てても酒を飲まなければならない時はあるものだ。
「今は出しとくから。また今度でいいよ」
友人は床に染みた黒い靴跡を見つめたまま、固まっていた。某氏は気にせず、ぺらぺらの財布を振って小銭を覗いた。100円玉が3枚、チャリチャリ跳ねる。諦めて、角の折れた1000円札を出した。某氏は、お釣りとレシートを一緒くたにして、財布にしまった。
「この後どこ行くの?」
「なんか適当に……公園とか」
某氏は袋詰めの台へと歩きながら言った。
「いいね。ちょうどあったかくなってきたし。むかし夜通し公園で喋ってたの、懐かしいわ」
某氏は薄いビニール袋をロールからちぎった。端を指先でいじり回しても袋の口はぴったり閉じたままだった。友人は某氏の手からビニール袋をひょいと取り上げ、袋の口を揉んだ。
「こうすると袋の端っこがずれて開きやすくなる」
友人は顔を台に向けたまま、袋を某氏に突きつけた。
「お、ほんとだぁ。ありがとね」
「うん。……あの、じゃあ、これで……」
友人はワンカップ酒をジャージのポケットに入れた。そのままぐるりと背を向けたのと同時に、レジの向こうから、男性の叫び声と大きな物が床に落ちた音が響いた。友人はびくっと足を止めた。
「うわ、なんだろね。誰か転んだのかな」
「あ……うん……。そうかもね」
友人の足は優柔不断にゆらゆらしている。スーパーを出るか某氏を待つか、迷っているようだった。
ここで何も言わなければ、親友とは一生離ればなれになるかもしれない。某氏は袋につめた天ぷらを差し出した。
「公園でさ、一緒に食べようよ。ここの天ぷら美味しいの」
「えっと……。いや……いいよ、別に。あんたの分減るじゃん」
狙い澄ましたように友人の腹が鳴った。某氏は口の端を曲げてブフッと吹き出した。
「……やっぱ、あのさ。ごめん。食べさせてもらってもいいかな」
「天ぷらの分、いろいろ話聞かせてくれたら良いよ!」
夜の公園には1本だけ桜が咲いていた。某氏はその下のベンチに座ろうとした。だが、友人が桜の木には毛虫がいると言うなりベンチを飛び出した。恐ろしげに頭や肩をばさばさ払う某氏を見て、友人は久しぶりに笑った。
二人は、桜の木とは反対にあるベンチに座った。そこには木がなく、上を向くと月がよく見えた。互いの間に天ぷらのパックを置く。天ぷらは少し冷めていたが、それでも春の夜に食べるのにちょうど良いくらいには温かかった。
いざ話してみると、話のタネは尽きなかった。
どうやら友人は、パチンコに全財産を注ぎ込んだ末、スマホも含めた身の回り品をほとんど売り払い、居城のアパートさえも失ったという。
最後に冷えたえび天が1尾残ったところで、某氏は思い切って言った。
「今日寝るところがないならさ、うち来れば。1晩くらい全然良いし」
友人は、ワンカップ酒の代金を払ってもらった時よりもガチッと固まった。ずいぶん長い間黙っている。某氏は、友人のいつもの癖だから慣れていたので、足をぶらぶらさせながら桜を眺めていた。友人は、久しぶりに答えを急かされないことに安心して、口を開いた。
「……いや、いい。さすがに悪い。……もう行くわ。ほんとありがとう……。あ、お金……」
「また今度でいいよ。明日とかでもさ」
友人は、頷いた。しばらく口をもごもごさせていたが、急に顔を上げた。スーパーで会った時から、友人と某氏の目が合ったのは、初めてだった。友人は声をやけに大きく張って言った。
「あのさ、前に借りたのも、ちゃんと返すから」
友人は、自分の声の大きさに驚いたようで、誰もいない公園をキョロキョロと見渡した。そして、今度は妙に小さな声で言った。
「じゃあ、また」
またね、と某氏は軽く返した。友人が連絡を断つ前に、最後に会って金を貸したあの日と、同じ口調で。
友人は頷いて、公園を出て行った。汚いジャージの姿が角を曲がるまで、某氏は目を凝らしていた。
友人の姿が見えなくなると、某氏は冷えたえび天にかじりついた。油の味ばかりして、二人で食べた時よりも味気なかった。
あっ、と某氏は叫んだ。パックにカボチャの天ぷらが入っていない。そのことに、今になってようやく気づいたのである。
どこかの道に落としてきたかと思うと、恥ずかしくもなり、もったいないとも思った。
好物が無くなったことになぜずっと気づかなかったのか、某氏は不思議に思ったが、すぐに分かった。
某氏は、友人が消えてしまった曲がり角を、長い間、見つめていた。
「日本では先日、カボチャの天ぷらで人が滑った裁判の顛末が報じられた。
スーパーの通路に誰かが落とした総菜を客が踏んで転び、足をケガして店を訴えた◆客が自らパック詰めした総菜は落ちやすい。店員が安全に気を配らないとダメでしょう。いや、通路の見通しは良いし、客自身が避けられたのでは? 裁判官も悩んだのだろう。東京地裁が57万円の賠償を店に命じ、高裁は店に責任がないとした◆高浜虚子の1句に〈川を見るバナナの皮は手より落ち〉がある。手元を忘れるほど美しい光景だったか。
うっかりモノを落とすなどということは、何かに心を奪われているときに起こるものらしい。」
━━2021.9.19付『読売新聞』「編集手帳」より抜粋




