第五話:見えざる敵と書庫の夜
『……美味かった』
たった四文字。それも、お世辞にも綺麗とは言えない、インクが僅かに滲んだ文字。
しかし、その短い言葉を目にした瞬間、エリアーナの心には、これまで感じたことのない温かな喜びが、泉のように湧き上がった。
それは、カイゼルが初めて見せてくれた、感情の欠片だった。儀礼的な言葉でも、事務的な命令でもない、彼個人の、ささやかな本音。エリアーナは、その手紙を宝物のようにそっと胸に当てた。分厚い氷に覆われた湖の表面に、ほんの小さなひび割れが生まれたような、そんな確かな手応えを感じていた。
この小さな進歩は、エリアーナに勇気を与えた。彼女はそれからも、毎日手紙を書き続けた。時候の挨拶や本の感想に加えて、時には温室で育てたハーブを押し花にして同封したり、厨房で作った新しい焼き菓子を添えたりもした。
カイゼルからの返信は相変わらず短く、素っ気ないものだったが、それでも途絶えることはなかった。そして、エリアーナが何かを贈れば、数日後には決まって、彼からのささやかな返礼品が届けられた。美しい装飾が施された栞であったり、珍しい花の球根であったり。言葉を交わさずとも、穏やかで優しいやり取りが、二人の間に確かに存在していた。
しかし、そんな穏やかな日々は、長くは続かなかった。
ある晴れた午後、エリアーナは皇太后セラフィーナが主催する茶会に招かれた。先帝の后であるセラフィーナは、今なお宮廷に強い影響力を持つ人物だ。皇后として、この誘いを断ることはできない。
陽光が降り注ぐ美しい庭園で開かれた茶会は、一見すると華やかで和やかな雰囲気に満ちていた。しかし、そこに集う貴婦人たちの会話は、甘い菓子に潜む毒のように、棘を帯びていた。
「まあ、皇后陛下。帝都での暮らしにはもう慣れまして?」
「わたくし、ヴィンター領は一度も訪れたことがございませんの。辺境はさぞ、のどかで気楽な場所でございましょうね」
にこやかな笑顔の裏に隠された、あからさまな侮蔑。エリアーナが田舎者で、皇后の器ではないと、暗に告げているのだ。
「ええ、とても美しい土地ですわ。皆様も、機会がございましたら是非いらしてください。歓迎いたします」
エリアーナが微笑みを返すと、貴婦人たちはつまらなそうに顔を見合わせる。やがて、主催者である皇太后セラフィーナが、扇子で口元を隠しながら、慈愛に満ちた声音で言った。
「皇后陛下も、お一人ではさぞ寂しいことでしょう。陛下は、あれほどご多忙なのですもの。わたくしたちで、精一杯お慰めして差し上げなくては」
その言葉に、周りの貴婦人たちがくすくすと笑う。皇帝に無視され、ないがしろにされている孤独な皇后。それが、宮廷におけるエリアーナの評価だった。
エリアーナは、ただ静かにお茶を啜る。ここで反論しても、火に油を注ぐだけだ。彼女が黙っていると、今度は別の貴婦人が、わざとらしく大きな声で言った。
「それにしても、陛下はなぜ、あれほど公の場にお出ましにならないのかしら。政務は宰相閣下にお任せすればよろしいのに」
その時だった。
「陛下は、この帝国で唯一無二の統治者。そのご慧眼なくして、帝国の安寧は一日たりとも保たれませぬ」
冷たく、理知的な声が、庭園の空気を凍らせた。声の主は、いつの間にか皇太后の背後に立っていた、宰相のヴァレリウス公爵だった。壮年の、隙なく整えられた銀髪と、全てを見透かすような鋭い灰色の瞳を持つ男。カイゼルを陰で操っていると噂される、帝国の実力者だ。
「これは宰相閣下。ごきげんよう」
セラフィーナが優雅に挨拶する。ヴァレリウス公爵は、皇太后にだけ礼を返すと、その冷たい視線をエリアーナへと向けた。
「皇后陛下。陛下は、ご自身の執務に集中されることをお望みです。その静寂を、何人たりとも乱すことは許されませぬ。……たとえ、それが身内であったとしても」
それは、丁寧な言葉で包まれた、紛れもない警告だった。皇帝に近づきすぎるな、余計なことをするな、と。
エリアーナは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。この男は、カイゼルが人前に出られないことを知っている。そして、その弱みを利用して、彼を玉座の上に孤立させ、実権を握ろうとしているのだ。自分とカイゼルのささやかな交流は、彼らにとって都合の悪い邪魔でしかない。
(この人たちが、陛下の……見えない敵)
エリアーナは、カップをソーサーに置くと、凛として顔を上げた。
「宰相閣下。ご忠告、痛み入ります。ですが、わたくしはカイゼル陛下の妻。夫君の安寧を願い、お支えするのは、妻として当然の務めですわ」
その毅然とした態度に、ヴァレリウス公爵の眉がわずかに動いた。彼はエリアーナを値踏みするように一瞥すると、興味を失ったかのように踵を返し、黙ってその場を去っていった。
茶会から自室に戻ったエリアーナは、初めて心の底からの恐怖を感じていた。カイゼルは、巨大な権力の中枢で、たった一人で戦っている。人見知りという弱点を、猛禽のような敵に囲まれながら、必死に隠して。
(手紙だけでは、駄目だ)
文通は、心を繋ぐための大切な架け橋だ。しかし、それだけでは足りない。ヴァレリウス公爵のような人間と渡り合うためには、もっと強い、本物の信頼関係が必要だ。そのためには、やはり直接、言葉を交わさなければならない。
その夜、エリアーナは一つの決意を胸に、部屋を抜け出した。侍女も連れず、たった一人で。
彼女が向かったのは、城の西棟にある大書庫だった。夜の書庫は、訪れる者もほとんどなく、静寂に包まれている。そして、カイゼルが時折、執務の合間に一人でここを訪れることを、エリアーナは侍従との会話から聞き出していた。
高い天井まで続く書架に、無数の書物が眠る巨大な空間。エリアーナは息を潜め、インクと古い紙の匂いが満ちる通路をゆっくりと進んでいく。
そして、一番奥の、歴史書のセクションで。
月明かりが差し込む窓辺の長椅子に、一人、静かに本を読むカイゼルの姿を見つけた。
執務室での彼とは違う。皇帝の鎧を脱ぎ、ただ一人の青年として、物語の世界に没頭している横顔。その穏やかな表情に、エリアーナは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼はこちらに気づいていない。
エリアーナは、手にしていた本を抱きしめ、静かに一歩、足を踏み出した。
その、わずかな衣擦れの音に、カイゼルの肩がビクリと跳ねた。本から顔を上げた彼と、エリアーナの視線が、真正面から交差する。
瑠璃色の瞳が、驚愕に見開かれた。
しまった、という表情。次の瞬間、彼は読んでいた本を取り落とし、勢いよく立ち上がった。逃げる。いつものように、彼の身体がそう反応しているのが分かった。
エリアーナは、彼が踵を返すよりも早く、声を振り絞った。
「お待ちください、陛下!」
その声に、カイゼルの足がぴたりと止まる。しかし、彼は背を向けたまま、固まってしまった。
エリアーナは、それ以上近づかなかった。彼を驚かせないよう、数歩分離れた場所で立ち止まる。心臓が、早鐘のように鳴っていた。
「……驚かせてしまうつもりは、ございませんでした。申し訳ありません」
できる限り、穏やかな声で語りかける。
「ただ、先日お貸しいただいたこの本を、お返ししなくてはと……。それと、お礼も」
カイゼルは、背を向けたまま、微動だにしない。まるで、美しい氷の彫像になってしまったかのようだ。
沈黙が、重くのしかかる。
もう駄目かもしれない。このまま、彼はまた逃げてしまうかもしれない。
そう思いかけた、その時だった。
「…………なぜ」
か細く、掠れた声が、静寂を破った。
カイゼルが、初めてエリアーナに向けて発した、問いかけの言葉だった。