第四話:ペンに込めた言葉
「極度の人見知り」――。
その仮説は、一度エリアーナの心に根を下ろすと、もはや揺るぎない確信へと変わっていった。
それからのエリアーナは、まるで未知の生き物を観察する研究者のように、カイゼルの行動を注意深く見守り続けた。そして、観察すればするほど、彼女の仮説を裏付ける証拠ばかりが見つかった。
例えば、月に一度開かれる御前会議。帝国の重鎮たちが一堂に会するこの会議でさえ、カイゼルは玉座に座ったまま、ほとんど口を開かない。議題の進行は全て宰相に任せきりで、彼はただ時折、小さな声で「許可する」や「却下だ」と呟くだけ。貴族たちはそれを「寡黙な威厳」や「些事には興味がない帝王の器」と解釈していたが、エリアーナには分かった。カイゼルは、大勢の人間に注目されるという状況そのものに、極度のストレスを感じているのだ。彼の指先が、玉座の肘掛けを強く握りしめ、白くなっているのが遠目にも見て取れた。
またある時は、他国の使節団が謁見に訪れた。その際も、カイゼルは玉座から一歩も動かず、儀礼的な挨拶すら宰相に代行させた。その無礼とも取れる態度に使節団は色をなしたが、カイゼルが放つ絶対的な威圧感の前に、誰も文句を言うことはできなかった。しかし、エリアーナの目には、彼の背筋が普段以上に硬直し、まるで石像のように固まっているのが映っていた。あれは、緊張の極致だったに違いない。
エリアーナは理解した。カイゼルは、その天才的な頭脳で、この帝国を完璧に運営している。だが、その一方で、人と直接対面してコミュニケーションを取ることに関しては、絶望的なまでに不器用なのだ。彼の冷酷さと噂される振る舞いは、その不器用さを隠すための、必死の鎧に過ぎなかった。
(なんと、生きづらい方なのだろう……)
その事実に気づいた時、エリアーナの心から、カイゼルに対する恐怖は完全に消え失せていた。代わりに芽生えたのは、皇后として、妻として、この不器用で孤独な皇帝の力になってあげたいという、純粋な思いだった。
しかし、どうすればいいのか。
正面から近づけば、彼は条件反射のように逃げてしまう。声をかければ、怯えさせてしまうだけだろう。物理的な距離を縮めるのは、今の段階では逆効果でしかない。
(顔を合わせずに、言葉を交わす方法……)
エリアーナは自室で考え込んだ。彼女の視線が、机の上に置かれた上質な便箋と、インク壺の上で止まる。
これだ、と彼女は思った。
その日の午後、エリアーナは侍女に一枚の封書を託した。
「これを、皇帝陛下の執務室へ。侍従長のアルフレッドに、直接お渡ししてくださるよう、お願いして」
侍女は、皇后陛下から皇帝陛下へ手紙という前代未聞の出来事に目を丸くしたが、言われた通りに恭しく封書を受け取ると、足早に部屋を辞していった。
一方、執務室では、カイゼルが山のような書類に没頭していた。静寂に満ちたその部屋は、彼にとって唯一、心が安らぐ場所だった。誰の視線も、声も届かない。ただ、帝国という巨大な機械を動かすための数字と文字だけが存在する世界。
コン、コン。
控えめなノックの音に、カイゼルは顔を上げた。入室を許可すると、アルフレッドが音もなく入ってきて、一枚の封書を恭しく机の上に差し出した。
「陛下。皇后陛下より、お手紙にございます」
「……皇后から?」
カイゼルの眉が、かすかに動いた。あの女から、一体何の用だ。結婚式の後、彼女が自分の奇行をどう思っているのか、考えないようにしていた。恐らくは、他の貴族たちと同じように、自分を冷酷で無慈悲な人間だと断じ、恐怖しているに違いない。
カイゼルは、鬱屈とした気持ちで封蝋を割り、便箋を広げた。そこに綴られていたのは、エリアーナの性格をそのまま映したかのような、優美で丁寧な文字だった。
『皇帝陛下におかれましては、日々の激務、誠にご苦労様でございます。
わたくし、エリアーナは、皇后として、この城での務めを一日も早く覚えたいと願っております。つきましては、城内にございます大書庫の利用を、お許しいただけないでしょうか。ヴィンター領の書庫も素晴らしいものでしたが、帝城の蔵書は比べ物にならないと伺っております。帝国の歴史や法律を学ぶことが、陛下をお支えする第一歩になると信じております。
何卒、ご裁可を賜りますよう、お願い申し上げます。
エリアーナ・フォン・ヴィンター』
手紙の内容は、どこまでも儀礼的で、事務的なものだった。そこには、結婚式での屈辱を詰る言葉も、初夜の逃走を訝しむ言葉も、一切書かれていなかった。ただ、皇后としての務めを果たしたいという、真摯な願いだけが綴られていた。
カイゼルは、しばらくその手紙を黙って見つめていた。
彼女は、何も言ってこない。なぜだ。普通の女であれば、侮辱されたと泣きわめくか、あるいは実家に泣きついて問題にするはずだ。それなのに、彼女はただ静かに、自分の務めを果たそうとしている。
カイゼルの胸に、これまで感じたことのない、奇妙な感覚が広がった。
彼はペンを取ると、新しい羊皮紙の上に、返事を書き始めた。彼の文字は、性格とは裏腹に、力強く流麗だった。
『皇后の願いを許可する。書庫の利用は自由にしてよい。必要なものがあれば、侍従長に申し付けるように。 カイゼル』
カイゼルは書き終えた手紙をアルフレッドに渡すと、すぐにまた書類の山へと意識を戻した。まるで、何事もなかったかのように。
しかし、その日の午後、アルフレッドから皇帝の許可が下りたという返事と共に、一冊の真新しい本がエリアーナのもとへ届けられた。それは、高名な詩人が編纂した、帝国の建国神話を綴った美しい詩集だった。
エリアーナは、その詩集を胸に抱きしめた。
言葉を交わさずとも、心が通じたような気がした。
これが、第一歩。
彼女は、返事を書くために、再び机に向かった。今度は、書庫の利用を許可してくれたことへの感謝と、届けられた詩集の感想を、少しだけ書き添えて。
その日から、エリアーナとカイゼルの間で、奇妙な文通が始まった。
エリアーナは毎日、城での出来事や、書庫で読んだ本の話、故郷のヴィンター領の思い出などを、他愛のない手紙にして送った。決してカイゼルの不可解な行動には触れず、ただ穏やかな日常を共有するように。
カイゼルからの返事は、いつも短く、事務的だった。しかし、彼は必ず返事をくれた。時には、エリアーナが手紙で話題にした本を、翌日には彼女の部屋に届けてくれることもあった。
顔を合わせれば逃げ出してしまう夫と、手紙でだけ言葉を交わす妻。
侍女たちは、そんな二人の関係を「やはり、お互いに無関心なのだ」と噂した。
だが、エリアーナは知っていた。
ペンに込められたインクの一滴一滴が、ゆっくりと、しかし確実に、二人の間に凍てついていた氷を溶かし始めていることを。
ある日、エリアーナはいつものように手紙を書き終えると、厨房を借りて、故郷のレシピで焼き菓子を作った。甘い香りのするクッキーを、小さなバスケットに入れると、彼女はそれを手紙に添えて、カイゼルの執務室へと送った。
『お仕事の合間に、少しでもお心が休まれば幸いです』という、短いメッセージと共に。
その日、カイゼルからの返事は、いつもより少しだけ、遅かった。
届けられた手紙には、いつものように簡潔な言葉が綴られていたが、その最後には、エリアーナが初めて見る言葉が、少しだけ乱れた文字で書き加えられていた。
『……美味かった』