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第三話:観察と仮説

翌朝、エリアーナが目を覚ました時、昨夜の出来事が夢ではなかったことを証明するように、部屋はしんと静まり返っていた。夫となるはずの皇帝陛下が、顔を真っ赤にして逃げ去ったという、あまりにも不可解な現実。その記憶は、エリアーナの頭の中で繰り返し再生され、彼女を深い当惑の渦に突き落とした。

(あれは、一体……)

怒りだったのだろうか。いいや、違う。エリアーナが間近で見たカイゼルの表情は、怒りとは程遠いものだった。それはむしろ、恐怖や、極度の羞恥に耐えかねた人間の顔。政敵を冷徹に粛清したと噂される男とは、到底結びつかない表情だった。


混乱したまま朝の支度を終えると、侍女たちが朝食の準備ができたと告げに来た。皇后としての最初の一日が、否応なく始まってしまう。

エリアーナが食堂へ向かうと、そこには既に何人かの貴族や高官が席に着いていた。彼らはエリアーナの姿を認めると、一瞬だけ視線をよこし、すぐにまたひそひそとした会話に戻る。その視線に宿る憐憫と好奇の色は、昨日よりもさらに濃くなっているようだった。昨夜、皇帝が皇后の私室に一刻も留まらなかったという事実は、既に城中に知れ渡っているのだろう。

エリアーナは無言のまま、カイゼルの隣に設えられた自分の席に着いた。

やがて、食堂の扉が開き、カイゼル本人が現れる。その瞬間、全ての私語がぴたりと止み、緊張した空気が場を支配した。カイゼルは誰にも視線を向けることなく、絶対零度のオーラをまとって席に着くと、ただ一言、「始めよ」とだけ命じた。

食事中、エリアーナは横目でそっとカイゼルの様子を窺った。彼は美しい姿勢で、寸分の隙もなく食事を進めている。しかし、エリアーナがいる右側には決して顔を向けようとせず、まるでそこに誰もいないかのように振る舞っていた。

(やはり、嫌われているのだろうか……)

そう思いかけた時、給仕をしていた侍女が、エリアーナのグラスに水を注ごうとして、わずかに手を滑らせた。カチャン、と小さな音を立ててグラスが倒れる。幸い水はほとんどこぼれなかったが、侍女は顔面蒼白になった。氷帝の御前での失態。下手をすれば、厳しい罰が下されるかもしれない。

「も、申し訳ございません!」

震えながら平伏する侍女。誰もが固唾を飲んでカイゼルの反応を待った。エリアーナも、思わず身を固くする。

しかし、カイゼルは倒れたグラスを一瞥しただけで、何も言わなかった。ただ、侍従長のアルフレッドが静かに目配せをし、別の侍従が速やかにグラスを片付け、新しいものと交換しただけだった。カイゼルはまるで何事もなかったかのように、食事を再開する。

その無関心な態度は、周囲の者たちには「取るに足らない失態に興味すらない」という冷酷さの表れと映っただろう。だが、エリアーナには、ほんの一瞬だけ、カイゼルの指先が微かに震えたのが見えた。そして、彼はいつもより心なしか早いペースで食事を終えると、誰に声をかけるでもなく、足早に食堂を後にしてしまった。


その日から、エリアーナの宮廷生活は、奇妙な「皇帝陛下の逃走劇」を観察する日々となった。

皇后としての務めや城の地理を覚えるため、侍女を連れて城内を歩いていると、長い廊下の向こうからカイゼルが歩いてくることがある。エリアーナが気づき、立ち止まって礼をしようとした瞬間、カイゼルは凍りついたように動きを止め、次の瞬間には近くの扉の陰にさっと身を隠すか、あるいは何事もなかったかのように踵を返して猛スピードで去っていく。

ある時は、気分転換に庭園を散策していた。美しい薔薇のアーチの向こうにカイゼルの姿を見つけ、微笑みかけた途端、彼は植え込みの陰に飛び込むようにして姿を消した。残されたのは、がさがさと揺れる葉の音だけ。

あまりにも子供じみた、そして皇帝という地位には全くそぐわないその行動に、同行していた侍女たちは困惑し、「皇后陛下は、よほど陛下にお嫌いになられているのだ」と噂を深めるばかりだった。

だが、エリアーナの心には、日を追うごとに別の感情が芽生え始めていた。

(これは、嫌悪や憎悪の態度ではない。まるで、小動物が人間を前にした時のような……怯え方?)

冷酷非情。血も涙もない。噂されるカイゼルの人物像と、エリアーナが実際に目にする彼の姿は、あまりにもかけ離れていた。


確信を得るために、エリアーナは行動を起こすことにした。

彼女が向かったのは、皇帝の執務室にほど近い、側近たちの控え室だった。侍従長のアルフレッドを呼び出すと、エリアーナは努めて穏やかな口調で尋ねた。

「アルフレッド。私は、皇后として、陛下の政務についてもお支えしたいと考えています。陛下の普段のお仕事ぶりについて、差し支えなければ教えていただけますか?」

アルフレッドは、感情の読めないポーカーフェイスを崩さぬまま、わずかに目を見張った。皇后が皇帝の仕事に興味を示すなど、前代未聞だったからだ。しかし、彼は職務に忠実な男だった。

「……畏まりました。カイゼル陛下は、まさしく天才でいらっしゃいます」

語り始めたアルフレッドの声には、隠しきれないほどの深い敬意が滲んでいた。

「陛下は毎朝、夜明けと共に執務室にお入りになり、帝国全土から届けられる膨大な量の陳情書や報告書に、たったお一人で目を通されます。その処理速度と的確さは、先帝陛下の数倍にも及びましょう。複雑な利害が絡み合う法案も、陛下の手にかかれば、誰もが納得せざるを得ない完璧な形に修正されます。そのご慧眼と采配なくして、今の帝国の安定はございません」

アルフレッドは、カイゼルが執務室から一歩も出ずに、たった一人でこの広大な帝国を完璧に治めている様子を、よどみなく語った。彼が語るカイゼル像は、まさしく有能で、揺るぎない、偉大な統治者の姿そのものだった。

「……そうですか。よく、わかりました」

エリアーナは礼を言うと、静かにその場を辞した。


自室に戻ったエリアーナは、一人、窓辺に立って思考を巡らせていた。

アルフレッドが語った、書類上では完璧な、天才的な支配者としてのカイゼル。

そして、自分が実際に目にした、目が合うだけで逃げ出してしまう、怯えた小動物のようなカイゼル。

二つの姿は、まるで別人のようだ。しかし、どちらも紛れもなく、カイゼル本人なのだ。

なぜ、これほどの乖離が生まれるのか。

執務室に籠り、誰とも顔を合わせずに国を治める。人前に出れば、一言も発さず、誰とも視線を合わせない。そして、妻である自分からは、全力で逃げ出す。

点と点が、線として繋がっていく。

冷酷さゆえの沈黙ではない。傲慢さゆえの無視でもない。

あの態度は、全て……。


エリアーナの脳裏に、一つの、あまりにも突飛な仮説がひらめいた。

まさか。そんなことがあるはずがない。一国の皇帝が、そんなことで。

しかし、そう考えれば、全ての辻褄が合うのだ。

結婚式での氷のような態度も、初夜の逃走も、食堂での不可解な行動も、廊下や庭での奇行も、全て。

エリアーナは、思わず小さく息を呑んだ。


「……陛下は、冷酷なのではなくて」


窓の外に広がる帝都の景色を見つめながら、彼女は答えを口にする。


「ただの、極度の人見知り……なのでは?」


その瞬間、エリアーナの中で、恐怖の対象であった『氷帝』の像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。

後に残ったのは、巨大な帝国の玉座で、たった一人、誰にも理解されずに震えている、不器用で孤独な青年の姿だった。

エリアーナの翠の瞳に、それまでとは全く違う光が宿る。それは、憐憫でも同情でもない。目の前の巨大な謎を解き明かしたいという、純粋な好奇心と、そして、ほんの少しの庇護欲にも似た、温かい光だった。

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