第二話:氷の結婚式と逃げ出した皇帝陛下
夜が明け、エリアーナは侍女たちの手によって、皇后となるための準備を始めさせられた。
用意されていたのは、帝国の威信を体現するかのような、純白の婚礼衣装。光沢のある絹地には、銀糸で繊細な紋様が刺繍され、幾重にも重なるレースの裾は、歩むたびに雲のように広がる。エリアーナがこれまでに着たどんなドレスよりも豪奢で、そして重かった。まるで、皇后という地位の重圧が、そのまま衣装の重さになったかのようだ。
鏡に映る自分の姿は、まるで知らない誰かのようだった。血の気の引いた顔に、侍女たちが施した化粧が薄紅を差し、緊張で固く結ばれた唇には、艶やかな紅が引かれる。
「皇后陛下、お時間でございます」
侍従長のアルフレッドが、感情のない声で告げた。
エリアーナは静かに立ち上がり、侍女に支えられながら、決戦の場へと向かう騎士のような心地で部屋を後にした。
結婚式が執り行われる大聖堂は、荘厳という言葉そのものだった。天高くそびえる天井、壁一面を彩るステンドグラスから差し込む光が、床の大理石に幻想的な模様を描き出している。帝国中の主だった貴族たちがずらりと並び、その視線が一斉にエリアーナへと突き刺さった。好奇、憐憫、そして値踏みするような侮蔑。無数の感情が渦巻く視線の集中砲火に、エリアーナは息を詰まらせそうになる。
だが、彼女は顔を上げ、背筋を伸ばした。ヴィンター辺境伯家の娘としての誇りが、彼女を支えていた。
聖堂の奥、祭壇の前には、一人の男が背を向けて立っていた。
あれが、カイゼル皇帝陛下――。
磨き抜かれた黒曜石のような髪、雪のように白い肌。儀礼用の豪奢な軍服に包まれた身体は、しなやかでありながら、張り詰めた鋼のような威圧感を放っている。
エリアーナが父であるゲオルグに付き添われ、ゆっくりとバージンロードを進む間も、彼は一度もこちらを振り返らなかった。
やがて、祭壇の前へとたどり着く。父の手が離れ、エリアーナはカイゼルの隣に立った。間近で見る彼の横顔は、まるで神が創りたもうた彫像のように完璧な造形だったが、そこには一切の人間的な温かみが感じられなかった。そして、噂に違わぬ、深く澄んだ瑠璃色の瞳。その瞳は、ただ真っ直ぐに前方の祭壇だけを見つめていた。
厳粛な雰囲気の中、司祭の言葉が響き渡る。
誓いの言葉を求められても、カイゼルはほとんど聞き取れないほどの小さな声で応じるだけだった。エリアーナもまた、努めて落ち着いた声で誓いを述べた。
指輪の交換。カイゼルがエリアーナの指に触れた瞬間、その指先が氷のように冷たいことに、彼女は内心で驚いた。彼の動きはどこまでも機械的で、まるで定められた手順をこなすだけのようだった。
ついに、司祭が二人が夫婦となったことを宣言する。貴族たちから儀礼的な拍手が送られる中、エリアーナはこれから始まるであろう、冷え切った日々に思いを馳せ、そっと目を伏せた。
その時だった。
隣に立っていたカイゼルが、何の合図もなく踵を返した。そして、新しい妻となったエリアーナに一瞥もくれることなく、祭壇からまっすぐに歩き去ってしまったのである。
聖堂内が、大きくどよめいた。
あまりに無慈悲で、あからさまな侮辱。皇后に対する敬意など微塵も感じさせないその振る舞いに、貴族たちは憐れむように、あるいは嘲笑うように、取り残されたエリアーナを見た。
「ご覧になりましたか、奥様。一言もおかけにならないとは」
「辺境の娘など、皇后とは認めぬという陛下からの意思表示でしょうな」
「なんとお惨めな……」
ひそひそと交わされる声が、刃となってエリアーナの心を突き刺す。だが、彼女は仮面のように無表情を保ち、ゆっくりと向き直ると、たった一人でバージンロードを戻り始めた。一歩、また一歩と進むたび、その重い衣装が、彼女の尊厳を守る最後の鎧のように思えた。
その夜、エリアーナは正式に皇后の私室と定められた部屋で、一人、夫の訪れを待っていた。
『月の間』よりもさらに広く、豪華な天蓋付きのベッドや、美しい装飾が施された家具が並んでいる。しかし、その広さゆえに、かえって孤独感が際立った。
侍女たちも下がり、静寂だけが部屋を支配する。昼間の屈辱が、じわじわと胸の奥に蘇ってきた。あれほどまでに、あからさまな拒絶を示されて、今さら彼がこの部屋を訪れることなどあるのだろうか。
むしろ、来ないでくれた方がいいのかもしれない。そう思いかけた時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音が響き、エリアー-ナの心臓が大きく跳ねた。
「陛下のお成りです」
侍従長のアルフレッドの声。扉が静かに開き、昼間と同じ、氷のオーラをまとったカイゼルが姿を現した。彼は部屋に足を踏み入れると、すぐさま扉が閉められ、アルフレッドも下がっていく。
ついに、二人きりになってしまった。
カイゼルは扉の近くに立ったまま、一歩も動こうとしない。ただ、床の一点をじっと見つめているようだ。永遠に続くかのような沈黙が、エリアーナの肩に重くのしかかる。
(どうすれば……。私が、何か話さなければ)
このままでは、朝までこうしているつもりなのだろうか。意を決したエリアーナは、ドレスの裾を優雅につまみ、淑女の礼の最上級であるカーテシーを、完璧な所作で行った。
「皇帝陛下。……改めまして、エリアーナ・フォン・ヴィンターにございます。本日より、陛下の妻として、誠心誠意お仕えいたします」
どうか、このまま無視されますように。顔を上げることなく、何か一言、事務的な言葉をかけて、すぐに退出してくれますように。そう願いながら、エリアーナはゆっくりと顔を上げた。
そして、少しでも敵意がないことを示すため、できる限り穏やかで、柔らかな微笑みを、唇に浮かべた。
その瞬間だった。
エリアーナの視線の先で、彫像のように固まっていたカイゼルの肩が、ビクッと大きく震えた。
そして、信じられない光景が起こった。
カイゼルの雪のように白かった顔が、首筋から、耳の先に至るまで、一瞬にして茹で上がったかのように真っ赤に染まったのだ。
見開かれた瑠璃色の瞳が、あり得ないほど狼狽えて、激しく揺れている。彼は何かを言おうとしたのか、声にならない音をかすかに漏らすと、次の瞬間には勢いよくエリアーナに背を向けた。
そして、来た時と同じように、無言のまま扉を開けると、文字通り転がるようにして部屋から飛び出していったのである。
バタン!
乱暴に閉められた扉の音が、静まり返った部屋に虚しく響いた。
後に残されたのは、美しい微笑みを浮かべたまま、完全に固まっているエリアーナただ一人。
今の、一体、何だったのだろうか。
冷酷非情な『氷帝』。その彼が、顔を真っ赤にして、逃げていった?
目の前で起こった出来事が、まるで理解できない。
エリアーナは、ただ呆然と、夫が消えていった扉を見つめ続ける。
「…………え?」
やがて、誰に言うでもなく、そんな間の抜けた声が、ぽつりと彼女の唇からこぼれ落ちた。