第一話:氷帝の后
ヴィンター辺境伯領は、帝国の北の端に位置する、緑豊かな長閑な土地だ。厳しい冬が終われば、短い夏を謳歌するように花々が咲き乱れ、人々は穏やかな気質で知られていた。
エリアーナ・フォン・ヴィンターは、この土地を治める辺境伯の一人娘として、その気風を体現したかのように育った。陽光を思わせる柔らかな金髪に、春の若葉のような翠の瞳。書物を紐解くことを好み、温室で薬草を育てることがささやかな楽しみである彼女の人生は、これまで領地の四季のように、穏やかで予測可能なものだった。
その日も、エリアーナは自室の窓辺で、植物図鑑を開いていた。インクで描かれた精密な花の絵に指を滑らせていると、控えめなノックの音と共に父である辺境伯、ゲオルグが姿を現した。
「エリアーナ。少し、話がある」
父の表情は、いつになく硬い。その声に滲む緊張を敏感に感じ取り、エリアーナは静かに本を閉じた。
「お父様、何かございましたの?」
「……座ってくれるか」
促されるまま、エリアーナは父と向かい合うようにソファに腰を下ろした。ゲオルグは一度、何かを躊躇うように目を伏せたが、やがて意を決したように口を開いた。
「先日、帝都から勅使が来た。お前に、皇帝陛下からの縁談だ」
「……皇帝、陛下?」
エリアーナは思わず聞き返した。
帝国の頂点に立つ若き支配者、カイゼル・レオンハルト・フォン・アストレア。
彼が即位して、まだ二年。しかし、その名は既に帝国全土に、恐怖の象徴として轟いていた。
ゲオルグは、娘の動揺を察し、苦渋に満ちた声で言葉を続ける。
「陛下は、即位と同時に中央の権力構造を刷新された。古参の貴族や反対派閥を、……力でねじ伏せてな。その過程で、我々のような辺境の諸侯との結びつきを改めて強化する必要がある、とのお考えらしい。ヴィンター家は帝国建国以来の忠臣。その娘であるお前を皇后として迎え入れることで、内外に陛下の支配体制が盤石であることを示したい、ということなのだろう」
それは、紛れもない政略結婚。個人の意思など介在する余地のない、国家のための駒としての役割だった。エリアーナは唇をきつく結ぶ。しかし、彼女が本当に恐れたのは、政略結婚という事実そのものではなかった。
問題は、その相手である。
カイゼル皇帝。
人々は畏怖と侮蔑を込めて、彼をこう呼んだ。『氷帝』、と。
曰く、その瑠璃色の瞳に見つめられた者は、魂ごと凍りつく。
曰く、即位に反対した叔父の一族を、女子供に至るまで一夜にして粛清した。
曰く、彼の玉座の間には、常に血の匂いが立ち込めている――。
貴族たちの間で囁かれる噂は、どれも常軌を逸したものばかりだった。先帝が崩御し、若き皇太子が後を継いだ時、古参の貴族たちは彼を傀儡にしようと画策したという。だが、カイゼルは沈黙のうちに彼らの動きを察知し、雷光のような速さで政敵を葬り去った。その冷酷非情な手腕は、たった数日で帝都の権力地図を塗り替え、以来、彼の御前で異を唱える者は誰一人いなくなった。
そんな血塗られた皇帝に嫁ぐ。それは、生贄として竜の巣穴へ送られるのと、何ら変わりないように思えた。
「……お断り、することは」
か細い声で尋ねたエリアーナに、父は静かに首を横に振った。
「勅命だ。逆らうことは、ヴィンター家の取り潰しを意味する」
「……」
沈黙が落ちる。窓の外では、鳥のさえずりがのどかに響いていた。ついさっきまで、当たり前のように享受していた平和が、ガラス一枚を隔てた遠い世界の出来事のように感じられた。
貴族の娘として生まれた以上、いずれは家のための結婚をするだろうという覚悟はあった。しかし、相手がこれほどまでに恐ろしい人物だとは、想像だにしなかった。
だが、エリアーナはヴィンター辺境伯家の娘だった。この穏やかな土地と、ここに住まう人々を守ることが、自らの責務であると教え込まれてきた。彼女一人の犠牲で、故郷の平和が保たれるのであれば。
「……お受けいたします」
凛とした声が、静かな部屋に響いた。その声に、震えはなかった。
「これも、ヴィンター家に生まれた娘としての、私の務めです」
娘の気丈な言葉に、ゲオルグは顔を歪め、深く大きなため息をついた。「すまない」と絞り出すのがやっとだった。
それから出発までの日々は、嵐のように過ぎ去っていった。
エリアーナは身の回りの整理をしながら、侍女たちから帝都の様子や宮廷の作法について学んだ。誰もが彼女の未来を案じ、同情的な視線を送ってきたが、決して口には出さなかった。皇帝陛下の悪評は、辺境のこの地ですら、軽々しく話題にできるものではなかったのだ。
そして、出発の日。
エリアーナを乗せた豪奢な馬車は、見送る領民たちの間をゆっくりと進んでいく。彼らの不安げな、しかし感謝と激励の入り混じった眼差しを受けながら、エリアーナは決して涙を見せまいと、背筋を伸ばし続けた。
(私は、大丈夫)
心の中で、何度も繰り返す。
(どんなに冷酷な方であろうと、私は皇后としての務めを果たすだけ。感情を殺し、礼節を尽くし、ただひたすらに、ヴィンター家と領民たちのための盾となろう)
馬車がヴィンター領の門を抜け、帝都へ続く街道に入った時、エリアーナは一度だけ故郷を振り返り、そして、二度と見ないと心に決めて、固く目を閉じた。
数週間にわたる旅の末、帝都アストレアの威容が、ついに馬車の窓から姿を現した。
白亜の城壁が天を衝き、整然と区画された街並みは、洗練されていると同時に、どこか人を寄せ付けない冷たさを感じさせた。故郷の、木と土の匂いがする温かな街とは何もかもが違う。
馬車が向かう先は、その帝都の中心に聳える帝城、クリスタルパレス。その名の通り、陽光を反射して水晶のようにきらめく壮麗な城だったが、エリアーナの目には、巨大な氷の牢獄のように映った。
城門を抜け、広大な中庭を通り、馬車がようやく正面玄関に到着する。
扉を開けた侍従に手を引かれ、エリアーナは帝国の中枢へと、その第一歩を踏み出した。
磨き上げられた大理石の床は、彼女の姿を鏡のように映し出す。どこまでも続く高い天井には、豪華絢爛なシャンデリアが輝き、壁には歴代皇帝の肖像画が厳かに並んでいた。その誰もが、威厳に満ちた厳しい表情で、新参者であるエリアーナを見下ろしているかのようだ。
人の気配は希薄で、足音だけがやけに大きく響き渡る。圧倒的な静寂と荘厳さが、この城の主の性質を物語っているようだった。
「皇后陛下、エリアーナ様。長旅、ご苦労さまでした。私は侍従長を務めます、アルフレッドと申します」
初老の、感情の読めない顔をした男が、深々と頭を下げた。
「結婚の儀は、明日の正午、大聖堂にて執り行われます。今宵は『月の間』にて、旅のお疲れをお癒しください。……皇帝陛下は、政務ご多忙につき、儀式までお会いになることはございません」
淡々とした口調には、歓迎の響きなど微塵も感じられなかった。エリアーナはただ、礼儀正しく微笑んで頷く。
(それで、結構)
心の中でそう呟いた。
恐怖の対象である『氷帝』との対面は、先延ばしにできるなら、それに越したことはない。
侍女に案内され、エリアーナは豪華だが人の温もりのない客室へと通された。贅を尽くした調度品も、窓から見える完璧に整備された庭園も、彼女の心を慰めることはなかった。
その夜、エリアーナはほとんど眠ることができなかった。
明日、自分はあの『氷帝』の妻となる。
どんな言葉をかけられるのだろうか。いや、言葉などかけてもらえないのかもしれない。噂によれば、彼は必要最低限のことしか口にしないという。その瑠璃色の瞳で、値踏みするように一瞥され、そのまま無視されるのだろうか。
最悪の想像ばかりが頭を駆け巡る。
それでも、とエリアーーナは自分を奮い立たせた。逃げることはできない。ならば、進むしかない。
彼女はベッドから起き上がると、窓辺に立った。
眼下には、月光に照らされた帝都の夜景が広がっている。無数の灯りは美しいが、そのどれ一つとして、自分を歓迎しているものはないように思えた。
「お父様、お母様……。私は、務めを果たします」
故郷に残した両親を思い、エリアーナは小さな声で呟いた。
翠の瞳に、強い決意の光を宿して。
冷酷非情と噂される皇帝の后として生きる、彼女の戦いが、始まろうとしていた。