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第一章 (前編)静かな刃、冷たい契約

 雨が、止んだ。


 石畳に残る水たまりを、彼女の黒いブーツが静かに踏みしめた。

 月は雲に隠れ、夜の王都は深い闇に沈んでいる。


 ルミエール・オーウェンは、通りの陰に立っていた。

 濡れた外套の裾が、風にわずかに揺れる。白く冷たい息が、彼女の口元から漏れた。


 直前まで、そこには一人の男がいた。

 今はもう、彼の姿も、声も、残っていない。あるのは、闇と雨の匂いだけだった。


「……終わった。」


 その声は低く、誰に聞かせるでもなく、ただ空気に溶けた。

 殺すことに慣れていた。誰かの命を奪うことも、いつものこと。

 けれど、ルミエールはときおり、自分が“何も感じない”ことに、わずかに苦しさを覚える。


 生きるとは、感じることではないのか。

 だとすれば、自分はもう、“生きている”とは言えないのかもしれない。


 冷たい指先で雨に濡れた短剣を拭い、鞘に収める。

 一連の動作に無駄はない。だが、その指は、ほんの少しだけ震えていた。


 彼女はその震えの意味を、考えなかった。

 考えたくなかった。


 


「ルミエール様」


 声がかかったのは、王都の裏門に差し掛かった時だった。

 顔なじみの衛兵が、彼女を見るなり片膝をついて敬意を示す。


「王女殿下より、直々のご指名でございます。裏門より、直接お通りください」


「わかったわ。案内は結構よ。一人で行くわ」


「はっ」


 返事と同時に衛兵が道を開ける。

 ルミエールはそのまま、王城の裏通路へと足を踏み入れた。


 冷たい石壁。静まり返った廊下。

 ここは王宮の人間でもほとんど知らない秘密の通路――

 そして、その奥には、“契約の間”と呼ばれる部屋がある。


 そこに彼女を待つのは、エレクシア・ホワイト。

 この国の姫であり、同時に、ルミエールとエニグマとは別の契約関係にある“依頼主”だった。


 


 重厚な扉を、二度、ノックする。

 返事はない。けれど、それでいい。

 無言の扉は、彼女の到着を察して静かに開いた。


 


「来たのね、ルミエール」


 部屋の中央、王座に似た高い椅子に腰かけていた少女が、優しく微笑む。

 淡いブロンドの髪が、まるで光を纏ったように揺れた。


「エレクシア。こんな時間に呼び出すなんて、ただの報告じゃなさそうね」


「ふふ。さすが、あなたは察しが早いわね」


 エレクシア・ホワイト。

 その微笑みは柔らかく、まるで花のよう。

 だが、ルミエールは知っていた。彼女の言葉の裏には、いつも何かが隠されていることを。


「……話してもらえる?」


「ええ。率直に言うわ。――私、“誘拐される”の」

 

「は?」

 

 ルミエールのまぶたが、わずかに動いた。


「予告状でも届いたの?」


「違うわ。計画よ。仕組んだのは、私。」


 エレクシアは立ち上がり、ルミエールの前へと歩み寄る。

 そして、静かに続けた。


「この計画の本当の目的は、《エニグマ》内部にいる裏切り者をあぶり出すことよ」


 


 空気が、ぴたりと止まった。

 ルミエールの中で、何かが静かに動く。


「……裏切り者?」


「そう。《エニグマ》にしか伝えていないはずの情報が、外に漏れているみたいなの。

 しかも、敵国スタールに。これは偶然じゃない。誰かが、組織の中から流している」


 敵国スタール。

 エルディール王国の北東に位置し、山脈と川を境界とする隣国。

 表向きは停戦協定中の友好国だが、水面下ではエルディールと敵対し続けている国だ。


「証拠は?」


「あるわ。あの“西の国境作戦”。さっきあなたが遂行していた任務よ。エニグマにしか伝えていない情報が、敵の手に渡っていた。

 ……これは、内部に敵がいる証よ」


 沈黙が落ちた。

 ルミエールは、少しの間だけ目を閉じる。

 そして、ゆっくりと開いた瞳は、まっすぐエレクシアを射抜いていた。


「……つまり私は、誘拐事件の捜査をする“ふり”をしながら、エニグマの中の“裏切り者”を探れ、と」


「そう。私が誘拐されれば、裏切り者はこの混乱に乗じて、何か行動を起こす可能性が高いわ。あなた以外、誰にも話していない。この任務は、あなたにだけ託すわ」


「わかったわ。……いつもどおり、あなたに従うだけよ」


 エレクシアの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 けれど、すぐに微笑みに戻る。


「ありがとう、ルミエール。……あなたなら、きっと、真実を見つけてくれると信じてる」


(……信じる、ね。本当にそう思ってるのかしら。)


 そう思いながらも、ルミエールは静かにその場を後にした。


 


 ――王女が誘拐された、という報せが国中に広がったのは、その翌朝だった。

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