プロローグ 静けさに沈む刃
雨が降っていた。
石畳を細かく打つ静かな雨。
ざわめきも、街灯のぬくもりも、そこにはなかった。
ルミエール・オーウェンは、ひとつの影を追っていた。
いつものように、感情はない。
彼女の足取りには音もなく、黒い外套は夜と一体化していた。
路地裏の先に立っていたのは、ひとりの男だった。
背中を向けたまま、何かを確認するように周囲を見渡している。
(気づかれた? いや、まだ。)
ルミエールは手の中にある細身の短剣に触れて確かめる。
鞘から抜く音さえも、雨がかき消してくれる。
あと、三歩。
あと、二歩。
男がふと、振り向こうとした。
その瞬間、冷たい刃が喉元に触れた。
動くことも、声を上げることもできない。
ただ、鋭く冷たい青い瞳が真後ろから見つめていた。
「……これは命令。ただそれだけよ。」
ルミエールは静かに刃を動かした。
男の目が見開かれ、次の瞬間にはもう、何も映さなくなっていた。
雨音だけが、また戻ってくる。
彼女はその場にしゃがみ込み、ポケットから白い布を取り出して刃を拭った。
血の色は、雨に流されて路地の石へと染みていく。
立ち上がると、ルミエールはもう一度振り返った。
倒れた男を見下ろすでも、悲しむでもなく――ただ“確認”のように。
(生きるって、こういうことなのかしら。
何も感じないまま、任務を終えるだけ。)
それが、ルミエールの日常だった。
エルディール王国――平和で自由な国。そして文化交流が盛んな国である。
しかしその裏では、影達が国の命令のままに動く。
彼女が所属する暗殺組織は、その“影”の最上位にあった。
国のために、忠義のために、血を流す存在。
けれど誰もそれを知らず、記録も残らない。
そして、今夜もまた一人の命が消された。
ルミエールは、長い白髪を外套のフードに入れかぶり直し、何事もなかったかのように歩き出す。
王宮から、ひとつの指令が届いていた。
――“王女エレクシア・ホワイトより、指名での報告要請”。
(……王女。指名の要請なんてどうしたのかしら。嫌な予感がする。)