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夏蔭  作者: 相楽 二裕
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02 蚊帳

 暮色が空を染める頃になって耕輔は蚊帳を吊った。この辺りは藪蚊が多いので重宝する。お陰で熱帯夜に窓を全開にして安眠できる。昔ながらの萌黄の麻蚊帳は、祖父母が使っていたものを耕輔が受け継いだもので、あちこち修繕されてはいたがまだじゅうぶん使えた。物自体も良いものだと祖母が自慢していたのを覚えている。広げると少しだけ樟脳の香りがしたが、それも嫌ではなかった。

「あっ、いいなあ……」

 早和が部屋を覗き込んで羨ましげに言う。

 普段から早和が蚊帳を欲しがっていたことを知っているだけに、耕輔は返答に困った。実は今までにもさんざん繰り返されてきた会話なのであるが、これについてはかつて一度も気の利いたことを返せた例しがない。何か言わねばならないと思えば思うほど、言葉がうまく出てこなかった。広げるのも畳むのも意外と面倒なんですよ、というのはある意味真実であるのだが、蚊帳を否定しているようで気が引ける。よければお貸ししましょうかと言って自分が蚊帳なしで過ごすのもなんだか変だ。最近では安いものもあるから買えばいいでしょうでは突き放しすぎだし、まして一緒に使いますかなどと不埒極まりないことを言えるわけがない。

 仕方が無いのでうんとかにゃあとかもごもごと口籠もっているところへひょっこりと善次郎が現れた。

「あっ、蚊帳。いいなあ……」

 とこれも姉と同じことを言う。

「どうしたんです善くん。今日はまたやけに早いご帰宅じゃないですか。定時上がりにしたって早すぎやしませんか」

「そうなんですよ。明日は雪が降るかもしれませんね」

 などと、自分から言う。

「ほんとうよ。いったいどうしちゃったの。もう少しで蚊帳の中に入れてもらえそうな感じだったのに」

 早和がとんでもないことを言い出すので耕輔は思わずぶっと吹き出した。

 善次郎は戸惑いを隠せないまま呟くように言った。

「もしかして僕、帰ってこない方が良かったのかな……」

「な、何を言い出すんですか早和さん」

 自らの言葉の意味を咀嚼し直して気づいた早和が見る見る真っ赤になる。

「ち、違うよ! へ、変な意味で言ったんじゃないから!」


 つまるところ早和は何の他意も無く、単に蚊帳の中に入ってみたかっただけなのである。結局、折角敷いた布団を畳んで除け、蚊帳の中に三人でもぐり込み、中に卓袱台を持ち込んで残りの西瓜をまたほおばった。

 世界が違って見える、と早和は大はしゃぎで、益々蚊帳に対する憧れを強くしたようである。

「で、いったいどうしたんですか。善くん」

「ああ」と善次郎はあらためて思い出したように「エアコンが壊れちまいまして」と耕輔に対して自分の過失で迷惑をかけたみたいに、すまなそうに首筋を掻いた。

「えーっ、たったそれだけで?」

 早和にしてみれば自宅で暑い中、自分は団扇だけで仕事をしているのに、とでも言いたかったのだろう。

「うちの会社のエアコン、天井嵌め込み式なんだよ。修理屋を呼んだはいいけど、脚立とか持ってうろうろ歩き回るし、机をあちこちへ動かせだの言うし、そのたびに埃は舞うし。で、しまいに工具使ったら容量オーバーで電源が落ちちゃって。サーバーがぶっ飛んで仕事どころじゃなくなっちゃって。社長がもう今日はやめだって言って」

「それは大変ですね」

「パソコンが使えなくなっただけで仕事ができないなんて。情けないわね今の会社って」

 善次郎は不本意だとばかりに姉を睨みつけてぼやく。

「パソコンって……サーバーはパソコンとは違うよ」

「そうなの?」

 早和は耕輔に視線を向けてくる。

「まあ、そうですね。ふつうサーバーには会社の重要なデータとか、共同で使うデータとかが入ってますから、不安定な環境では使えません。ふつうは非常用の電源をつけておくものなんですが、そういうものは使っていなかったんですかね」

「僕なんかにはよくわかりませんが、おそらくは……」

「それで、データは無事だったんですか」

「さあ? その時点で僕帰っちゃいましたし、エアコンの修理が終わってからシステムの人間が復旧するとか言ってましたけど……ま、バックアップは取ってたみたいだから、なんとかなるんじゃないですか。うちは大企業みたいにサーバーダウンで大騒ぎするような会社じゃないですし」

「なら、仕事だってできるんじゃ……」

 早和はあくまでも、自らの主張を貫こうとする。

「だから、無理なの」

「……納得できない」


 名残惜しそうに早和が耕輔の家を去ったあと、時計を見るとすでに二十二時近かった。それから耕輔は蚊帳の中央に煎餅布団を敷き直したが、その上にまたも卓袱台を乗せると、ノートパソコンを点けた。今日得意先で打ち合わせてきたサイト作成の件について、記憶が新鮮なうちに仕様をファイルに纏めておいたほうが良いと思ったのだ。昼に戻ってから走り書きしたメモを見ながら、数時間かけて作業を行い、就寝した。

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