2話「三本の指」
三本の指がもぎ取られましたね。
言葉にならないような絶叫が口から漏れ出る。息も上手く吸えない。心拍が上昇する。
左手を見ると、そこには嫌な空間があった。普段はあるものが、なかった。血がとめどなく溢れる。噴水のように三本の指の断面から溢れ出す。指の断面の中央には白い塊があった。骨だ。そしてそれを鮮やかなピンク色の肉が囲んでいる。
このまま、血が出続けたらまずい。だが、止血に使えそうなものは持っていない。
仕方がないので自分の服に指の断面を押し付ける。追加で耐えがたい痛みが襲い掛かる。歯を思いっきり食いしばる。
こんなことをしたら指の細胞が破壊されて、後々指を接合することはできなくなるかもしれない。でもしょうがない。止血が最優先事項だ。
さっきまでの指先のかすり傷とは、痛みの次元が違う。あの頃の、一分前の自分に戻りたい。でも今になっては、そのかすり傷を感じる指先が跡形もなく消えてしまった。
極大の痛みを何とかこらえながら、飛ばされた犬の方を確認する。
犬は地面に倒れ込んでいた。さっきの蹴りが効いたのだろうか。死んだのか。
いや、死んではいない、脱力はしているものの微かに動いている。でも、立つ気配はない。
犬が倒れている今が逃げるチャンスだ。
すぐさまこの場から離れよう。そう思って旋回しようとした時だった。体勢を崩していた犬はゆっくりと体勢を立て直し、こちらを睨みつけた。
その眼に先ほどの可愛さは微塵も感じられなかった。獲物を駆る捕食者の目だった。咄嗟に俺も睨み返した。ここで目を背けたら、その瞬間襲ってくると思ったから。双方、動かずに対峙する時間が続く。その間もずっと指の痛みは治まらない。
しばらく対峙している時間が続くと、急に犬の様子がおかしくなった。なぜか首が小刻みに震えている。どうしてもそこから目が離せなかった。
得体のしれない恐怖で俺を含め、周りの空気までもが暗く、重くなる。
犬の首の振動はどんどん大きくなっていく。
そしてついに、その振動は首の可動域を越え、ありえない方向へ首が曲がり始めた。
何をしているのだろうか。まったく理解が追い付かない。確かに首が折れている。でも、動き続けて生きている。こんな犬見たことも聞いたこともない。
尾が興奮した時のように揺れている。それどころか、体を揺さぶりブランブランになった首を振り続ける。犬の首の付け根の皮が少しずつ破けていく。辺りに赤い血が飛び散った。
それは、恐怖という言葉で言い表せる状況を遥かに超えるものだった。
逃げたほうがいいと分かってはいるものの、目の前で起きていることに、なぜか目が離せなかった。
急に犬が体を揺さぶるのを辞めた。終わったのだろうか。
安堵したのも束の間だった。
グチュという音とともに首の付け根からもう一つ、犬の頭が出てきた。破れかかった皮膚を開き、首の一部の肉塊を飛ばしながら半ば強引にその頭は出てきた。
その瞬間、何を思ったのか覚えていないが俺は本能的に犬に背を向けて走り出した。
いや、もうあれは犬ではない。怪物だ。
時折後方を確認する、怪物は頭の固定がままならないまま俺を追っている。少し走りにくそうにしているが、油断したら追い付かれるほどの速さだ。
二つの赤く光った双眸は俺を獲物として確実に捕らえていた。あの怪物を撒かない限り、逃れることはできないと悟った。
二つの口には大きな牙があり、その隙間から唾液と血が混ざったものが零れ出ていた。
俺は、ただひたすらに木々や茂みを避けて逃げる。息が切れたとしても構わない。あの怪物から少しでも距離を取るようにと、今出せる全速力で走る。
牙で噛まれることを想像し、指の痛みなどとうに忘れていた。指の痛みに逃走が邪魔されるわけにはいかない。
時折、後ろを振り返り怪物を確認する。怪物は首が揺れて走りにくいのか、距離は少しずつ空いてきた。改めて怪物を見ると恐ろしい姿だった。それはケルベロス劣化版のような酷い姿をしていた。
息が切れてきたがこのままだったら逃げ切れる、と思った。しかし、人生そううまくはいかないらしい。
「あっ」
不注意だった。地表に露出していた木の根っこに躓いてしまった。この状態から体制を立て直せるわけでもなく、そのまま前傾姿勢になり頭から転倒した。
早く立たなくては。すぐにそう思った。しかし、もうそれは時すでに遅しだった。
振り返ると、怪物はすでに鼻先数メートルまで迫っていた。怪物はスピードを落とすことはなくその場から跳躍し、今にも俺の喉を掻っ切ろうと飛び込んできた。
怪物の二つの大きな口が開かれる。怪物の喉ぼとけを視認した。
自分がなぜ、こんなところにいるのかも謎のまま命を終えようとしている。さよなら。
そう思った、その時だった。
「リュォ・ドゥン」「ゲェイザ」
誰でしょう?何語でしょう?