1話「知らない場所」
始まりました。彼の物語が。
重い瞼を開けると、俺は緑生い茂る木々の葉っぱの隙間から漏れ出る日の光に迎えられた。
葉っぱはぼんやりと目に写って、どこか天国を想起させるような光景だった。
少しして自分は今、地面に横になっている状態だと理解した。身体を起こそうとするが、上手く力が入らない。
長く眠っていたのか、やけに体が重い。そして、頭が痛い。
やっとのことで、所々筋肉が緊張して固まっていた身体をほぐしつつ、ゆっくりと身体を起こして立ち上がる。少し時間が経ったことで、視界も先ほどよりはっきりとしてきた。
急に右手の指先に痛みを感じた。指先を見る。
そこには身に覚えのない傷があり、少し血が滲んでいた。何かを掴もうとして、掴み損ねたような、そんなかすり傷だった。いったい、いつこんな傷を作ったのだろうか。
止血のために絆創膏を貼りたいところだが、今は持ち合わせていないみたいだ。傷の手当は後にすることにした。
辺りを見回してみると、ここが森の中ということが分かった。四方八方が鮮やかな緑色の木々や茂みに囲まれており、それは視界の遠くまで永遠に続いていた。
でも、いったいなぜ俺はこんなところに寝転がっていたのだろうか。昼寝でもしていたのだろうか。というか、そもそもここはどこだ。
思い返そうとするが、一切思い浮かんでこない。それどころか、ふと自分に対して違和感を覚えた。何か気持ち悪いというか。そわそわするというか。とにかく変な感じだ。
いったいなんだろうか。
そう考えていたとき、後ろからガサッという物音がした。誰かいるのかと思って振り返る。
しかし、誰もいなかった。しかし、物音は続いている。耳を澄ますと物音は茂みの中からしていることが分かった。
目線を下の方に向けると、それは茂みの中から顔を出した。
「いぬ?」
野良犬だろうか。大きさ的には中型犬。色は黒色で、首のあたりや手足の一部だけが白くなっている。犬種には詳しくないのでわからないが、柴犬のような可愛い見た目をしている。
犬は、茂みから完全に出てくると、俺にどんどん近づいてくる。
餌でも求めているのだろうか。
しゃがんで犬の目線まで頭を下ろす。犬はもう、目の前に来ていた。
フサフサな毛並み。モフモフな耳。くりくりとした目。
その可愛さに、気づいたら撫でようとしていた。手が犬の頭へと延びていく。
「お前も迷子なのか」
犬にそう話しかけながら撫でようとしたとき、犬は急に口を大きく開いた。そして勢いそのままに、差し出した手をガブッと噛んだ。それに気が付いた時には、すでに左手の人差し指、中指、薬指の第二関節当たりまでが犬の口内にあった。
「痛っ」
甘噛みどころではない。犬の噛む力はどんどん強くなっていく。すぐに振り払おうとしたが、犬の鋭い歯は、既に皮膚を突き破って肉を侵食して、取ろうにも痛さでうまく力が入らない。
犬の鋭い歯はどんどん深く刺さっていく。血がぼたぼたと流れ出てくる。気絶しそうなほどの痛みが脳内を駆け巡る。
血の味に興奮したのか、犬は噛む力をもっと強めた。犬の歯が指の骨まで達したことが分かった。でも、犬は一向に噛む力を弱めない。このまま骨ごと指をもぎ取る気に違いない。
この犬が普通の野良犬とは思えなかった。迂闊に、可愛さに目がくらんで撫でようと思ってしまった数秒前の自分に後悔する。
開いている右手で、犬を殴ったり口をこじ開けようとしたりするが、犬には何も効いていない。
これはやばい。このままだと本当にヤバイ。
咄嗟に、右脚が犬の脇腹を強く蹴った。その衝撃に犬は、後方へと飛んだ。
しかし蹴った瞬間、体に寒気が走った。同時に、終わったと思った。頭の血がサーっと引いていく。後悔の感情が溢れる。
脇腹を蹴っても犬は口を開かなかった。指は依然として、犬の口の中だ。
それが意味することはただ一つ。
ボギリッ。
森の中に、硬いものが折れ、砕かれた音が響いた。いや、正確には響いていないのかもしれない。でも俺の耳には、鮮明に、残酷に、醜怪に響いた。
指が三本同時に折れる音が。
痛そうですね。