プロローグ「行方不明」
処女作です。暖かい目でお読みください。よろしくお願いします。
初夏のじめじめとした嫌な空気が体中に纏わりつく。
地面には地中から出て一週間ほどしか経っていない蝉が落ちていた。蝉は腹を上に向けて動かない。森には、これからこの蝉と同じ道を辿るだろう蝉たちの鳴き声が悲しく響いている。
俺はそんな薄暗い森の中を、今日も一人で歩いている。
妹を探すために歩いている。一か月前に行方不明になった妹を。
今日からちょうど一か月前、俺の妹である桑原瑚菜は行方不明になった。
その日はまだ、今日ほど気温が高くなかった。
その日から一か月。いや、体感としては一年ぐらいが既に流れたように感じる。そのぐらい、あの日から俺の中の時間の流れは遅くなった。俺だけではない。家族全員があの日から未だ抜け出せていないように感じる。
あの日は雨だった。そこまで強くはないが、体に浸み込んでくるような、重たい雨だった。
瑚菜はあの日、中学校からの下校後、すぐ母に「友達と遊んでくる」と伝えて元気に家を出ていったという。その時はまだ雨は降っていなかった。
それから五時間後の午後九時、俺は大学受験のために通っていた塾から帰宅した。
いつもならリビングのソファーでくつろいでテレビを観ている瑚菜に対して、軽く「ただいま」と言うはずなのに、あの日はその相手がいなかった。瑚菜は帰宅していなかった。
母もさすがに不審に思ったらしく、午後八時過ぎから瑚菜の友達の家に対して電話をかけていたらしい。しかし、どの家からも「瑚菜ちゃんは来ていない」という回答しか得れなかった。
そのうち玄関が開いた。でも、瑚菜ではなく父だった。
事情を聴いた父はすぐに警察に通報した。今後雨が強まるという予報もあり、警察はすぐに動いてくれた。捜索隊の数はだんだんと増えていき、近所の人も捜索に協力してくれた。
捜索が始まってから一時間。妹が山に入っていく様子が、近所の神社につけられた防犯カメラに写っていた。そこからは、徹底的に山中の捜索が始まった。その映像もあって、誰もがすぐに見つかるだろうと思っていた。
しかし、現実そう簡単にはいかなかった。捜索が始まってから十時間。日が昇り始めても瑚菜は見つからなかった。
雨で足跡は消え、臭いも消えたことで、警察犬も上手く探すことはできなかった。
その後も捜索は続けられたが、一向に瑚菜は顔を出してはくれなかった。
警察やボランティアによる捜索は二十日前に打ち切りとなった。
そのときの母の涙の訴えは記憶に新しい。「なんで、なんでやめるの。やめないでよ。さがしてよ」という悲痛の叫びが今も耳の奥に鮮明に残っている。
俺はあのとき、母の隣で何も言えなかった。涙も出なかった。「捜索打ち切り」という言葉を一文字一文字理解していくのに精いっぱいだったから、涙を出す隙さえなかった。
瑚菜が行方不明だということが本当に理解できたのは捜索打ち切りと聞いた日の夜だった。
そこで初めて俺は、自分の部屋のベッドに蹲り一人で泣いた。涙が枯れてからも嗚咽をまき散らして泣き続けた。時折、携帯電話に入ってくる友達からの「大丈夫か」という文言のメールが、俺の心を一層抉った。友達が心配してくれているのは分かっている。しかし、その善意が痛かった。その善意が気持ち悪かった。お前たちにこの苦しみが、この悲しみが理解できるのか。ただの偽善だろ。そう思った。俺には世界が敵にしか見えなくなっていた。
でも一番苦しかったのは、そうやって醜くなっていく自分を客観視することだった。
捜索中は「たぶん見つかるだろう」「少し家出しているだけだろう」としか思っていなかった。いや、そうだと思いたかった。それ以外のことを考えたら精神が崩壊すると危惧した。
だが、そんな絹の糸で編んだ一縷の希望も、「捜索打ち切り」という言葉の前では灰にも等しい存在となってしまった。
捜索が打ち切られたものの、数人のボランティアの方はそのまま捜索を続けてくれていた。だが、もう希望の糸は一切紡がれなくなってしまっていた。
日に日にボランティアの方も数を減らし、それに比例するように母の精神も壊れていった。
母は今、実家から少し離れた病院の精神科に入院している。だから家には今、俺しかいない。
父は母の看護で病院の近くにアパートを借りて暮らしている。捜索打ち切りを伝えられたあの現場で、俺は泣かなかった。そして、俺が部屋の中、一人で泣いていたことを父は知らない。そこからの判断だろう。父は俺を一人にしても大丈夫だと判断したのだ。
大丈夫なわけがない。想像できるだろうか、妹を失くし、家には誰もおらず、ただ一人で毎日妹が行方不明になった日のことを後悔する、俺の気持ちが。でもそれを伝える相手さへいない。でも、たぶんいたとしても、俺は上手くこの気持ちを伝えられない。伝えられたとしても、それを理解してくれる人はいない。
あんなに明るかった妹の姿はもうない。家のリビングは静まり返って、一切の物音がなかった。聞こえてくるとしたら窓の外から聞こえてくる無邪気な登下校の子供の声。それが、妹の存在を彷彿とさせる。そしてまた俺は感傷的になってしまう。毎日がその繰り返しだった。
それが嫌になって、俺は五日前ひとりで捜索を始めた。捜索と言っていいのかは解らない。ただの自己満足と言われればなにも否定できないし、妹が生きているかもという希望を原動力としているわけでもないのだから。
俺が一人で山の徘徊を始めた時には、もう誰も捜索しているボランティアの方はいなかった。
ただ、山の中を一人の男子高校生が徘徊しているだけだった。
学校はあの日からずっと休んでいる。たまに、家に来てくれる友人もいたが、俺は対応できずに玄関前から去っていく足音をリビングで膝を抱えて聞いていることしかできなかった。
山を徘徊する際は、必ず制服を着た。これを着ないと、俺自身のアイデンティティが崩壊するかもと思ったからだ。
アイデンティティの崩壊。つまりは精神の崩壊を意味する。母のようにはなりたくなかった。だから、こうして制服を着て何の意味もなく山を徘徊している。
ルートは決まっていない。ただ、てきとうに始めて、日が暮れかけたら帰る。それだけだった。
もう何も考えることはない。虚無の中、ひたすらに山を歩き時間を浪費していく。
日が暮れてきた。空の赤い色が、木々の葉の隙間から見えた。帰宅の合図だ。
俺は旋回して来た道を戻る。また、今日が終わる。何もない今日が終わる。
(ああ、あと何回こんな一日が続くのだろうか……。それならもういっそ死ん―――)
その時だった。
俺はぬかるんでいた地面に足を滑らせてしまった。滑らした方向には崖があった。高さは十メートルぐらいある。
「死んだ」そう思った。同時に、「死にたくない」そうとも思った。
つい先ほどの自分の思考との矛盾に困惑する。
そんな困惑の中、俺は地面に吸い寄せられるように崖上から崖下へと直下していく。もがいて何かにつかもうとするが、指先に崖壁が触れても、掴めることはなかった。
死にたくなくても、もうどうにもならない。
ふいに今まで十七年間生きてきた記憶がフラッシュバックする。いわゆる走馬灯というやつだ。友人に先生、親の顔がとめどなく脳内を流れる。自分の記憶にない光景までもが映し出された。
その中で妹の顔が―――あの日急にいなくなった瑚菜が―――一番多く頭の中を巡った。
このまま死んだら、妹に逢えるのだろうか。
それなら、別に死んでもいいか。
俺は死を覚悟して目を強く閉じた。
さようなら、お母さん、お父さん。
今行くよ、瑚菜。
滑落して地面に身体が衝突する直前に、彼の体が謎の光に包まれて一瞬にして消えたことは彼自身を含めて誰も知らない。そして、当然崖下に死体はない。血も肉も飛び散っていない。
日が沈み、空は青褐色に染まっていく。静けさだけが山に残る。
墨染涼太は、行方不明になった。
なんか最初から重い話感が強いですが、次回はもう少し賑やかにしようと思います。