08 頼れない僕と、頼ってほしい君と
朝の光が、カーテン越しにぼんやりと室内を照らし出す。
蝉の鳴き声が遠くで聞こえ始めた頃、翔は布団の中でうっすらと目を覚ました。
まどろみの中で寝返りを打とうとしたその瞬間——。
「っ……!!」
鋭く、突き刺さるような痛みが走った。
反射的に息を飲み、飛び起きる。
「左腕が.......!いった......!」
痛みのあまり、一瞬、視界が白く染まる。
慌てて左腕を押さえ、歯を食いしばる。
昨日の戦い——化け物の爪が食い込んだ傷。
戦闘中は興奮とアドレナリンで麻痺していたのか、ほとんど痛みなど感じなかった。
だが今、その爪痕は赤黒く腫れ、皮膚の奥から焼けるような熱を帯びていた。
ひとつ呼吸をするたびに、傷口の周囲がズキン、ズキンと脈打つ。
額には、じわじわと脂汗がにじむ。
まるで筋肉が内側から引き裂かれるような感覚。
腹痛どころではない。腕が、まるごと自分のものではないかのように痛む。
(……なんだよ、これ……昨日は、こんなじゃなかったのに……)
冷静さを保とうとしても、意識の端でじわじわと焦りが広がっていく。
夜の間に悪化したのだろうか。化け物の爪には、何か毒のようなものでも含まれていたのか。
指先には力が入りづらく、肘から先を少しでも動かすたびに、痺れのような感覚と痛みが交互に襲ってくる。
布団の上で膝を立てたまま、翔は息を整えながら、じっと傷を見つめていた。
恐怖や驚きというより、ただ純粋に、どうしようもない「困惑」が心の中を占めていた。
昨日までは、「倒せた」という達成感でいっぱいだった。
それが、たった一晩で、ここまで現実を突きつけてくるとは思わなかった。
血がにじんだシャツの内側に赤黒い染みは昨日以上に広がっていた。
思わず立ち上がり、ふらつきながら風呂場へと向かう。
シャツのボタンを外し、そっと袖を抜いた。
鏡の前に立ち、ようやく傷の全体像を確認する。
左腕には、はっきりとした爪痕が3本、赤黒く腫れ上がっていた。
引っかき傷というより、もはや皮膚が肉に食い込んでいると言ってもいい。
右腕にも、化け物に掴まれた痕があった。青紫色のあざが肘から上まで広がり、皮膚の下で血が滞っているように見える。
肉に食い込みズキズキと悲鳴を上げる左腕、赤黒く腫れた右腕。動かそうとすると、腕の内側が引きつれて、指先まで痺れが走った。
ナイフを握るどころか、箸すらまともに持てるか怪しかった。
(……これで、今また化け物に出てこられたら)
想像したくなかった。
十中八九、いや、百中百、勝てない。
翔はこみあげてくる涙を引っ込め、歯を食いしばる。
そんな状況ではある者の、翔はすぐに手当てをしようとは思えなかった。
というのも、彼がこの家で翔に許されているのは、自分の部屋とトイレと風呂だけ。
当たり前だが、リビングにある救急箱や薬品類は、勝手に使うことを禁じられている。
“余計な手間をかけさせるな”という、親戚からの無言のルールがそこにはあった。
勿論許可を取ったこともある。だが、その時は散々だった。
以前、転んで膝を擦りむいた時にばんそうこうを使ってもいいかと聞いたことがある。
そのとき、親戚はひどくあきれたようにため息をつき、「使うなら補充しておいて」とだけ言い、翔が部屋に戻った後も、隣の部屋から「本当に面倒な子」「気が利かない」「引き取ってもらっただけありがたいと思えよ」「お金を払ってもらいたいぐらいだ」などと愚痴を言う声が漏れ聞こえていた。
それ以来、翔はもう“聞く”ことすらしなくなった。
「……学校の保健室、行くか」
思いつく限り、それしか対処する術はなかった。
次の日、いつもならチャイム2分前に教室に入るぐらい翔は、珍しく早く登校した。
学校では誰も声をかけてこない。でも、遅れて登校すれば目立つ。それが嫌だった。
注目を避けること——それが、翔にとって学校を生き抜くためのルールだ。
生徒がまばらな時間帯。
登校してすぐ、翔は誰にも見つからないように廊下の隅を歩きながら、保健室の前まで来た。
小さくノックすると、室内から優しげな声が返ってくる。
「はーい、開いてるわよ〜……あら?」
扉を開けて顔を出したのは、年配の女性だった。白衣を羽織り、眼鏡をかけた保健の先生。
いつもは淡々とした口調の人だが、翔の腕を抱えて歩き、何かの痛みを隠すような汗をかいている姿を見ると少しだけ驚いたような顔になった。
「……珍しいわね、真木くん。どうしたの?」
黙って左袖をまくる。
傷を見た先生の表情が、一瞬で険しくなる。
「……中、入って。ちゃんと見せて」
室内は静かだった。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、白いベッドに淡く影が落ちている。
壁際には棚とロッカー、小さな手洗い場。古い椅子と机。
どこか、病室というよりも誰かの隠れ家のような、妙に落ち着く空間だった。
翔は椅子に腰かけ、改めて先生の指示に従って腕を差し出す。
「ちょっと、これ……どうしたの? 誰かにやられたの?」
「……いえ、ただの怪我です」
「ただのって……こんなに腫れて、血も出てるのに?明らかにどこかにぶつけてできたような傷じゃないわよ。」
翔は黙って目を逸らす。
「……これは、何かが食い込んだような……? 本当に、何があったの?」
問い詰めるというよりも、ただ心配しているという声音だった。
けれど、翔はうまく言葉が出なかった。
(何て言えばいい……? 転んだとか? ケンカ? でも、どう考えても不自然だ……)
「……ただの、怪我です。痛くなくなれば、それでいいんで……」
翔は曖昧な目線でそう返す。
先生はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついて、消毒液と綿球を取り出した。
「……本当はね、こういう時はきちんと理由を聞かなきゃいけないの。でも、あなた、いつも何かを飲み込んでる顔してるから」
「……」
「誰かに頼るの、苦手なんでしょ?」
図星だった。
翔は何も言えず、先生の手元を見つめていた。
先生は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに小さくため息をついた。
「真木くん、あなた、何かあっても“ない”って言う子よね」
「……」
「前にも何度か、怪我してたことあったでしょう? 指の関節、擦りむいてたときとか。あれも“なんでもない”って」
思い出して、翔は小さく俯く。
あのときも、なるべく見つからないようにしていたのに、先生には見抜かれていたらしい。
「大丈夫。別に無理に話さなくていい。でも、保健室は“嘘つかなくていい場所”だからね。少しくらい、肩の力抜いていいのよ」
消毒液が傷に触れる。
ピリッとした痛みが走り、翔は小さく肩をすくめた。
「ごめんね。……でも、頑張ってるの、ちゃんと見てる人もいると思うよ」
その言葉が、不思議と心に引っかかった。
翔は少しだけ口を開きかけて、やめた。
なにかを話せるほど、心が整っていない。ただ、とにかく——痛みだけ、どうにかなればいいから。
「包帯、巻いておくわね。明日も、また来なさい。いい?」
「……はい。ありがとうございます」
保健室を出るとき、翔は小さく頭を下げた。
扉が閉まる音が保健室に響いた。
先生はしばらく、その扉のほうを静かに見つめていた。
その数分後——
保健室の前の廊下を、一人の少女がそろそろと歩いてくる。
学級委員長の日向 葵。
翔のクラスメイトであり、ただひとり、翔に話しかけ続けていた存在だ。
翔が保健室に向かったことは、朝の登校時に下駄箱の前で見かけていた。
だが、自分から声をかけられるほどの距離でもなかった。
それでも気になって、足は自然とこの場所へ向かっていた。
(……まだいるかな)
扉の前で一度立ち止まる。
手を伸ばそうとして、一度引っ込める。
深呼吸して、今度こそノックする。
「失礼します……」
ゆっくり扉を開けて顔を覗かせる。
「先生……真木くんいますか……?」
保健の先生は、振り返ってにこやかにうなずいた。
「ああ、来てたけど、ちょうど帰ったところよ。……日向さん、もしかして様子を見に?」
日向少し照れたように視線を泳がせ、ゆっくり保健室の中に入る。
「……はい。あの、最近ずっと、真木くんの様子が気になってて……」
戸惑いながらも正直に言葉を並べるその様子に、先生は穏やかに微笑んでいた。
「怪我、してたんですか?」
「うん……。詳しくは話してくれなかったけど、腕をね。膿んでて、腫れあがっていたの。本当に何があったんだか…」
日向の表情が曇る。
「……やっぱり。今日朝見かけた時、ひどく疲れているように見えて。クラスでも、誰もちゃんと話しかけようとしないし……。私だけでもって思うんですけど、なんて声をかけていいのか分からなくて……」
言葉を探すようにして、胸元で手を組みながら小鳥遊は話し続けた。
「前に、授業中にいきなり走り出したことがあったんです。その時も、みんな“怖い”とか“変なやつ”とか……でも、私には、ただ怯えてるように見えて……」
先生はその言葉に、そっと目を細めた。
「あなた、よく見てるのね」
「……でも、見てるだけで何もできなくて。助けたい気持ちはあるのに、話しかけてもきっと迷惑なんじゃないかって……そう思うと、怖くて……」
日向の言葉には、迷いと、それでも向き合いたいという静かな勇気が混じっていた。
「——ただ、私、真木くんに独りでいてほしくないんです。きっと、ひとりで抱えてることがたくさんあって、でも誰にも言えなくて……そういうの、放っておけないっていうか……」
保健の先生は、しばらく黙っていた。
けれどその表情には、優しさが滲んでいた。
「……その気持ちだけで、十分だと思うわ。すぐに何かしてあげられなくてもいい。“見ている”ってことは、きっとその子の心に届くものよ」
「……本当に、届きますか?」
「時間はかかるかもしれない。でも、あなたのようにちゃんと“見ている人”がいるって、それだけで救われることもあるの。……私も、そういう子を何人も見てきたから」
小鳥遊は小さくうなずいた。
心の中のもやが、少しだけ晴れた気がした。
「……私、出来ることをやってみます。さりげなくでも、近くにいてあげたいです」
「ええ。それがきっと、一番の支えになるわ」
先生の言葉に、委員長はゆっくりと目を伏せた。
そのまま、心の奥で何かを確かめるように、小さく息を吐く。
(私が……見ていなきゃ。誰も気づかないなら、私だけでも)
真木くんのことを、特別よく知っているわけじゃない。
けれど、あの寂しそうな後ろ姿を見てしまった今、もう見て見ぬふりはできなかった。
(いつか、ちゃんと届くように——)
無理に踏み込んだりはしない。けれど、そばにいることだけはやめない。
そう心に決めて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとうございます、先生」
「ふふ、がんばりすぎないでね」
先生の穏やかな声に見送られながら、少女は静かに保健室を後にした。