07 勝利と反省
翌朝、翔は昨日の“戦利品”を机の上に並べていた。
黒く輝く石。その形は前回とよく似ていたが、色合いに——違和感があった。
前に手に入れた石には、細く赤い筋と黄色い筋が走っていた。まるで血管のような、不気味な光を放っていたのを覚えている。
だが今回の石は、どこか冷たい印象を与える。黒い表面に、まるで氷を閉じ込めたかのように、細く青い筋が浮かび上がっていた。
「……色、違うのか」
手に取って、光にかざしてみる。
青い筋はわずかに揺らめき、まるで石の中で何かが脈打っているようにすら見えた。
温度は前回と変わらない。熱くも冷たくもなく、ただ冷たい印象だけが残る。
“赤”と“青”と"黄"。
感覚的に、なにか違う意味があるのではないかと、翔の胸にうっすらと疑念が生まれる。
まるで、それぞれ別の性質を持っているかのように。
だが、今の翔には、それを確かめる術がなかった。
気になる。けれど分からない。
だから——
「……保留、だな」
小さく呟いて、翔は石を元の位置に戻した。
次に、腕を見た。
左腕——シャツの袖をめくると、そこには明らかな異常があった。
二の腕の外側、肉がざっくりと裂けたように赤く腫れ、黒ずんだ血が乾ききらずにじわじわとにじんでいる。
化け物の鋭い爪が、確かに食い込んでいたのだ。血の筋が肌を伝い、手首のあたりにまで黒く固まり始めている。
「……っ……」
ぞくりとする痛覚が、微かに腕を走る。けれど、それでもまだ——
(あんまり……痛くない)
今だけかもしれない、と翔は思う。
まだ、全身に残る興奮と緊張感。
目の奥が熱を帯び、心臓がドクドクと鼓動を続けている。アドレナリンが全身を巡っていることが、はっきりと分かる。
右腕の方も見てみる。
そちらは骨の内側まで響くような鈍痛があったが、出血はなく、皮膚が濃い紫色に変色しているだけだった。
しっかりとした青あざ。どうやらあのとき、もう片方の手でも強く押さえ込まれていたのだろう。
「……やられたな、僕も」
ぽつりと、力なく言葉が漏れた。
昨日の戦い。
今回は確かに、自分の力で仕掛けて、勝てた。
けれど同時に、相手の攻撃を受けてしまった。
前回は、化け物同士が争って弱ったところに自分がとどめを刺しただけだった。
しかし今回は、相手は完全な状態だった。
そして、こちらを殺すつもりで、確実に襲ってきた。
「……あいつら、本気で殺しに来てる」
今までは、どこか“遊ばれてる”ような気がしていた。
ケタケタ笑って追いかけてくるだけだったから、恐怖はあっても、どこか現実感が薄かった。
けれど昨日は違った。爪が食い込み、腕を抑えられ、痛みが走った。
“殺意”——そう呼ぶのにふさわしい感覚だった。
翔は考える。
これまでのように、近づいて、力任せに殴る・刺す、そんな戦い方では……いずれ自分がやられる。
化け物の腕の長さ。
その爪の鋭さ。
攻撃範囲に入れば、確実に反撃される。
ならば、相手の攻撃が届かない“間合い”から、こちらが一方的に攻撃できる方法を探すしかない。
ナイフでは、届かない。
ならば——
「……槍、か」
自分の声が、静かな部屋にぽつんと響いた。
その言葉は、ふと思いついたものではなかった。何度も頭の中でシミュレーションを繰り返し、戦闘の一部始終を振り返った末に、ようやくたどり着いた結論だった。
ナイフでの戦い——あれは、恐ろしく原始的で、命がけのぶつかり合いだった。
逃げるふりをして、相手が近づいてきたところを突き刺す。
うまくいった。倒せた。
でも、その代償はあまりにも大きかった。
相手の攻撃を受け、腕には今も爪の痕が残っている。正直、紙一重の勝利だった。
翔は、机の端に置いた黒いナイフを見つめる。
(……そもそも、僕に“近接戦”なんて、無理だ)
当然の話だ。
翔は戦闘の訓練なんて受けたことがない。
小さな頃からスポーツに打ち込んだ経験もなければ、武道をかじったこともない。
刃物を使って何かと戦うなんて、ドラマやゲームの中の話でしか知らなかった。
ナイフで敵の攻撃をよけながら間合いに入り、一撃を加えるなんて、まるで“剣士”のような動きが必要になる。
だが翔は、そんな動きができるような器用さも、胆力も持ち合わせていなかった。
(僕は、ただ“逃げる”ことしかしてこなかった人間だ)
逃げて、逃げて、たまたま得られた一太刀が命中して、それが勝利につながった——それだけだ。
もし、相手がもう少し賢かったら。もし、もう一歩だけ素早かったら。もし、あの時ナイフが滑っていたら。
今頃、自分は死んでいた。
そんな命のやり取りを、これからも続けていくのか。
続けざるを得ないのだ。
なら——もっと安全に、もっと確実に。
そう考えて、翔の頭に浮かんだのが、“槍”だった。
ナイフでは、距離が足りない。
もっと間合いを取って戦えれば、こちらが傷を負うリスクも減る。
刺すという一点に特化するのなら、長物の方が理にかなっている。
技術がなくても、距離を確保できるというだけで、心理的な余裕もまるで違う。
翔は、少しずつ息を整えながら、再びつぶやいた。
「……槍なら、僕でも、戦えるかもしれない」
今あるナイフに棒を括りつければ、即席の槍になる——理屈ではそうだ。
けれど、それで本当に戦えるのか。
ちゃんとした武器として、化け物を貫けるのか。
「……いや、槍って、作るの難しいよな」
市販のナイフと、適当な棒。それをガムテープか何かでくっつけたところで、ちゃんと刺せる保証はない。
そもそも自分は鍛冶師でもないし、道具だって揃っていない。
勿論、物を作るなんてことは学校の図工の授業でやったぐらいなものだ。
「鍛冶ができる人間……なんて、この集落にいるわけないか」
呟いた言葉は、空虚に部屋の壁に吸い込まれていった。
ここは、地方の山間部。
山々に囲まれた小さな盆地の中に、いくつかの家々と畑、そして古びた小学校がぽつんとある。
公共交通機関といえば、日に数本しか走らないバスが唯一の外との接点で、最寄りの駅までは歩いて三十分以上もかかる。
しかもその“最寄りの駅”とて、無人駅に毛が生えたようなもので、小さな売店が一つあるくらいで、娯楽施設や大きなスーパーがあるわけでもない。
コンビニすら、一番近い場所で車を使って十分以上かかる。
自然は豊かで、空気も澄んでいる。
ただ、その“豊かさ”は、都会の人間がたまの旅行で求めるような牧歌的な意味とは違っていた。
街灯の少ない夜道は獣が出る可能性もあり、山の天気はすぐに変わる。冬は積雪で道が閉ざされることもしばしば。
人の声よりも、虫や風の音の方がよく響くような場所だ。
そんな環境に、鍛冶師なんて職業が今さら残っているとは思えなかった。
せいぜい機械の整備屋がひとつあるかないか。
しかも、その整備屋だって、農業機械や耕運機の修理程度が関の山だ。
(仮にいたとしても、そんな人に“化け物を倒すための槍を作ってほしい”なんて言えるわけないよな……)
翔は、深いため息をついた。
この土地は、外から来る者も、外に出ていく者も少ない。
だからこそ人とのつながりは強く、自分は村八分のような扱いを受けているわけだが。
それに——
一番大きな壁は、金だった。
翔の月の生活費は、毎月玄関に置かれる五千円だけ。
誰かに借りられるような親もいない。
友達もいない。誰かを頼れる状況ではなかった。
人付き合いから自然と遠ざかってきた自分には、必要な道具を買う手段すら限られていた。
どこにも頼れないからこそ、自分でなんとかするしかない——それが、現実だった。
じゃあ、どうするか——
翔の思考が、学校のパソコン室へと辿り着いた。
携帯も持っていない。ネットに自由にアクセスできる環境もない。
けれど、学校には情報の授業の時に使えるPCがある。
情報の授業では自由時間があるため、そこで調べることさえ出来れば何かヒントが見つかるかもしれない。
「……やってみるか」
適当に棒と化け物の石をガムテープで巻いただけのような誰でも作れる槍じゃあまりにも不安だ。
化け物は槍が壊れても待ってくれない。
次に戦う時のために、もっと確実に化け物を倒せるような武器が必要だ。