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異怪討伐記――僕にしか見えない化け物  作者: 阿部綾人
孤独な少年と白銀の狐
6/23

06 震える手で勝ち取ったもの

 それは、あまりにも静かな夕方だった。

 

 あれから二週間。異常なものは現れず、翔はいつも通りの日々を過ごしていた。けれど、気が抜けることは一度もなかった。

 

 鞄の中には、いつだってあの黒いナイフが入っている。通学中も、授業中も、目の届くところにそれがあるだけで、ほんの少しだけ安心できた。

 

 これまで何度もシミュレーションをした。どう動くか、どう逃げるか。どの瞬間に振り向き、どこを狙えば効率よく仕留められるか。

 

 脳内で何十回、何百回と繰り返した。今の自分にできる最善の手段を。

 

 準備は、できているつもりだった。

 

 覚悟も、したつもりだった。

 

 家に続く道は、相変わらず自然に囲まれている。

 

 両脇を山に挟まれ、200メートルほど先には、小さな神社へと続く古びた石段がある。その神社はもう長らく人の姿を見ていないはずだ。

 



 だが——今日は、違った。

 

 その石段の上に、黒い影が揺れていた。

 

 一目で分かった。

 

 あれは——化け物だ。

 

 脳が瞬間的に全身に警報を鳴らす。

 

 心臓が跳ね上がり、視界が一瞬、白くなる。手のひらは汗でびっしょりと濡れていて、呼吸がうまくできない。


(やれる……! いや、やるしかない……!)

 

 周囲に人の気配はない。静かすぎるほどに静かなこの時間、この場所。

 

 こんな完璧な状況は、もう二度とないかもしれない。

 

 翔は決意を固め、足を進めた。

 

 あえて石段のふもとまで近づき、震える声で叫んだ。


「ひっ……! だ、誰か……っ!」

 

 化け物が、ゆっくりと顔を上げる。

 

 その顔は笑っていた。

 

 ケタケタと、どこか楽しげに、見つけたぞと言わんばかりに。

 

 目が合った瞬間、翔の体は凍りついた。

 

 視線だけで、全身が縛り付けられるような感覚。分かっていたはずの恐怖が、実際に目の前に来るとまるで別物だった。


(ダメだ、動け……! 動けってば……!)

 

 心の中で叫んでも、膝は震えたまま、足は一歩も前に出ない。

 

 恐怖が、計画を破壊する。冷静さを、一瞬で奪っていく。

 

 それでも——化け物がケタケタと笑いながら、石段を一歩ずつ下りてくるのを見た瞬間、翔の中の何かが弾けた。

 

 ——逃げろ!

 

 足が勝手に動いた。

 

 “逃げるふり”のはずだった。でも、現実は違った。

 

 本当に、翔は逃げていた。


(怖い……怖すぎる……! これ、ダメだ……!)

 

 走りながら、涙が滲みそうになる。だけど、頭の片隅では、作戦が機能していることにも気づいていた。


(……でも、これで、振り向けば……!)

 

 逃げて、逃げて——あえて足を遅らせる。

 

 化け物との距離がじりじりと縮まる。

 

 10メートル。

 

 5メートル。

 

 3メートル——!


(今だ!!)

 

 翔は、振り向いた。

 

 真正面から、化け物と目が合う。

 

 その顔は、まだ笑っていた。


「う、うわあああああああっ!!」

 

 情けない声が口から漏れる。

 

 だがその叫びと同時に、翔は突進した。

 

 ナイフの先端を、渾身の力で化け物に突き立てる。

 

 刃が食い込む感触が、手首を通して脳まで届いた。

 

 が、止まらない。止められなかった。

 

 突き刺したまま、化け物の体に馬乗りになり、ナイフを抜いては突き立て、また抜いては突き立てる。

 

 力の加減なんてできなかった。肩が軋み、腕がしびれ、それでも、ただひたすらに。

 

 化け物が絶叫した。

 

 だが、翔の耳には届かない。

 

 世界はノイズで満ちていた。ただ、自分と、ナイフと、相手の肉の感触だけ。

 

 化け物の手が、翔の腕をつかんできた。

 

 その動きには、これまで見せていた愉快げな嘲笑の気配はなかった。

 

 笑っていたはずの顔が、いつしか恐怖と焦燥にゆがみ、目には明らかに“生への執着”がにじんでいた。

 

 まるで“これ以上やらせるか”とでも言うように、短く太い指が翔の腕をがっちりと掴む。

 

 その指先は鉤爪のように鋭く、肉を裂く勢いで二の腕に食い込んだ。

 

 爪が皮膚を突き破り、ぬるりとした感触が走る。

 

 血がにじみ、衣服の内側へと広がっていく。

 

 痛みで意識が一瞬飛びそうになるほどだった。


「いっ……ぐっ……!!」

 

 翔は声を押し殺し、奥歯を噛み締めた。

 

 化け物の力は、思っていたよりもずっと強かった。

 

 自分のナイフを握る腕を止めようと、死にものぐるいでしがみついてくる。

 

 それは、まるで“自分だって生きたい”と叫んでいるようだった。

 

 だが、翔もまた——命をかけている。

 

 恐怖に、孤独に、無力さに、何度も押し潰されそうになってきた人生だった。

 

 それでも今だけは、自分の力で、自分の手で、変えたかった。

 

 お互いが必死だった。

 

 生きるために、死なないために。

 

 その一瞬の衝突の中で、彼はナイフを離さなかった。

 

 全身を使って、全力で叩き込み、どれくらいの時が過ぎただろうか。

 

 やがて、化け物の体が崩れはじめる。

 

 黒い砂のように、力なく地面に溶けていく。

 

 翔の手が、ようやく止まった。

 

 呼吸は荒く、肺が焼けるほどに息をしていた。

 

 全身が汗まみれで、手は震え、視界がにじんでいた。

 

 それでも、ナイフを握る手を見下ろして、翔は実感する。

 

 今度は、覚えている。

 

 ナイフの感触も、化け物の体温も、刺すたびに跳ねた血の温度も——。

 

「う、うえええええええ……ゴホッ……!」

 

 胃の奥からこみ上げるものを堪えきれず、翔はその場に膝をつき、吐いた。

 

 止まらない嗚咽と共に、胃液混じりの苦味が喉を焼く。

 

 それは肉体の限界が引き起こした生理現象ではなかった。

 

 むしろ——心が壊れそうなほど揺さぶられたせいだった。

 

 ——あの顔。

 

 何度も刺し込む合間、ほんの一瞬だけ見えた、化け物の顔。

 

 歪んだそれは、もう笑っていなかった。

 

 恐怖にひきつり、命の終わりを理解した何かの目だった。

 

 それが脳裏に焼き付き、何度も何度もフラッシュバックする。

 

 動悸が速くなる。手が震える。


(……僕は、これを……)

 

 振り下ろしたナイフの感触。ぬるりと伝わる粘液。

 

 血のようなものが袖口に飛び、手の甲に染み込んでいる。

 

 傷跡から滲み出る、異常な冷たさと温もりが混じり合った何か。

 

 それでも、あのときは止まれなかった。

 

 叩きつけられるような恐怖のなか、理性なんてとうに吹き飛んでいた。

 

 ただ生きたいという必死の本能が、殺すしかないという選択を無理やり押しつけた。

 

 だが今——その化け物の、最後の“目”が、彼の心臓を掴んで離さなかった。

 

 翔は、手の甲を見つめる。

 

 汚れていた。確かに、自分の手が“奪った”のだと、否応なく教えてくる。

 

「ゴフッ、……ごめん……」

 

 誰に言ったのかも分からない。

 

 化け物にか、それとも、自分自身にか。

 

 ただ、吐き出さずにはいられなかった。

 

 涙が、勝手にあふれ出す。

 

 嗚咽が喉を震わせ、止まらない。

 

 息が詰まるような、ぐちゃぐちゃな感情が胸の内をかき乱していた。


(怖かった……怖かったんだ、本当に……)

 

 ナイフを握る手は、まだ震えている。

 

 血のような液体が跳ねた袖が重く感じる。

 

 全身が、冷えていた。

 

 それでも、熱いものが胸の奥で脈打っていた。

 

 翔は、ゆっくりと目を開いた。

 

 地面に落ちたナイフの隣。

 

 そこに、黒く、異様な光をたたえた石が転がっているのが見えた。

 

 あれは——

 

 翔は、手を伸ばした。

 

 その石は、ひんやりとしていて、掌にぴたりと吸い付くようだった。

 

 そして、そこでようやく——

 

 自分が、確かに“勝った”のだということに気づいた。

 

(……倒した。僕が、やったんだ……)

 

 逃げ回ってばかりだった自分が。

 

 恐怖に負け、誰にも理解されずに隠れてばかりいた自分が。

 

 自分の意思で立ち向かい、自分の手で、あの“異形”を倒したのだ。

 

 怖かった。今でも震えている。

 

 でも、それでも。

 

(これは——偶然じゃない)

 

 無我夢中だった。

 

 それでも、初めて、自分の意志で戦い、勝った。

 

 逃げてばかりいた人生に、小さくとも確かな“爪痕”を残せた気がした。

 

 これは、自分の力でつかみ取った——

 

 翔にとって、生まれて初めての、確かな“勝利”だった。

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