06 震える手で勝ち取ったもの
それは、あまりにも静かな夕方だった。
あれから二週間。異常なものは現れず、翔はいつも通りの日々を過ごしていた。けれど、気が抜けることは一度もなかった。
鞄の中には、いつだってあの黒いナイフが入っている。通学中も、授業中も、目の届くところにそれがあるだけで、ほんの少しだけ安心できた。
これまで何度もシミュレーションをした。どう動くか、どう逃げるか。どの瞬間に振り向き、どこを狙えば効率よく仕留められるか。
脳内で何十回、何百回と繰り返した。今の自分にできる最善の手段を。
準備は、できているつもりだった。
覚悟も、したつもりだった。
家に続く道は、相変わらず自然に囲まれている。
両脇を山に挟まれ、200メートルほど先には、小さな神社へと続く古びた石段がある。その神社はもう長らく人の姿を見ていないはずだ。
だが——今日は、違った。
その石段の上に、黒い影が揺れていた。
一目で分かった。
あれは——化け物だ。
脳が瞬間的に全身に警報を鳴らす。
心臓が跳ね上がり、視界が一瞬、白くなる。手のひらは汗でびっしょりと濡れていて、呼吸がうまくできない。
(やれる……! いや、やるしかない……!)
周囲に人の気配はない。静かすぎるほどに静かなこの時間、この場所。
こんな完璧な状況は、もう二度とないかもしれない。
翔は決意を固め、足を進めた。
あえて石段のふもとまで近づき、震える声で叫んだ。
「ひっ……! だ、誰か……っ!」
化け物が、ゆっくりと顔を上げる。
その顔は笑っていた。
ケタケタと、どこか楽しげに、見つけたぞと言わんばかりに。
目が合った瞬間、翔の体は凍りついた。
視線だけで、全身が縛り付けられるような感覚。分かっていたはずの恐怖が、実際に目の前に来るとまるで別物だった。
(ダメだ、動け……! 動けってば……!)
心の中で叫んでも、膝は震えたまま、足は一歩も前に出ない。
恐怖が、計画を破壊する。冷静さを、一瞬で奪っていく。
それでも——化け物がケタケタと笑いながら、石段を一歩ずつ下りてくるのを見た瞬間、翔の中の何かが弾けた。
——逃げろ!
足が勝手に動いた。
“逃げるふり”のはずだった。でも、現実は違った。
本当に、翔は逃げていた。
(怖い……怖すぎる……! これ、ダメだ……!)
走りながら、涙が滲みそうになる。だけど、頭の片隅では、作戦が機能していることにも気づいていた。
(……でも、これで、振り向けば……!)
逃げて、逃げて——あえて足を遅らせる。
化け物との距離がじりじりと縮まる。
10メートル。
5メートル。
3メートル——!
(今だ!!)
翔は、振り向いた。
真正面から、化け物と目が合う。
その顔は、まだ笑っていた。
「う、うわあああああああっ!!」
情けない声が口から漏れる。
だがその叫びと同時に、翔は突進した。
ナイフの先端を、渾身の力で化け物に突き立てる。
刃が食い込む感触が、手首を通して脳まで届いた。
が、止まらない。止められなかった。
突き刺したまま、化け物の体に馬乗りになり、ナイフを抜いては突き立て、また抜いては突き立てる。
力の加減なんてできなかった。肩が軋み、腕がしびれ、それでも、ただひたすらに。
化け物が絶叫した。
だが、翔の耳には届かない。
世界はノイズで満ちていた。ただ、自分と、ナイフと、相手の肉の感触だけ。
化け物の手が、翔の腕をつかんできた。
その動きには、これまで見せていた愉快げな嘲笑の気配はなかった。
笑っていたはずの顔が、いつしか恐怖と焦燥にゆがみ、目には明らかに“生への執着”がにじんでいた。
まるで“これ以上やらせるか”とでも言うように、短く太い指が翔の腕をがっちりと掴む。
その指先は鉤爪のように鋭く、肉を裂く勢いで二の腕に食い込んだ。
爪が皮膚を突き破り、ぬるりとした感触が走る。
血がにじみ、衣服の内側へと広がっていく。
痛みで意識が一瞬飛びそうになるほどだった。
「いっ……ぐっ……!!」
翔は声を押し殺し、奥歯を噛み締めた。
化け物の力は、思っていたよりもずっと強かった。
自分のナイフを握る腕を止めようと、死にものぐるいでしがみついてくる。
それは、まるで“自分だって生きたい”と叫んでいるようだった。
だが、翔もまた——命をかけている。
恐怖に、孤独に、無力さに、何度も押し潰されそうになってきた人生だった。
それでも今だけは、自分の力で、自分の手で、変えたかった。
お互いが必死だった。
生きるために、死なないために。
その一瞬の衝突の中で、彼はナイフを離さなかった。
全身を使って、全力で叩き込み、どれくらいの時が過ぎただろうか。
やがて、化け物の体が崩れはじめる。
黒い砂のように、力なく地面に溶けていく。
翔の手が、ようやく止まった。
呼吸は荒く、肺が焼けるほどに息をしていた。
全身が汗まみれで、手は震え、視界がにじんでいた。
それでも、ナイフを握る手を見下ろして、翔は実感する。
今度は、覚えている。
ナイフの感触も、化け物の体温も、刺すたびに跳ねた血の温度も——。
「う、うえええええええ……ゴホッ……!」
胃の奥からこみ上げるものを堪えきれず、翔はその場に膝をつき、吐いた。
止まらない嗚咽と共に、胃液混じりの苦味が喉を焼く。
それは肉体の限界が引き起こした生理現象ではなかった。
むしろ——心が壊れそうなほど揺さぶられたせいだった。
——あの顔。
何度も刺し込む合間、ほんの一瞬だけ見えた、化け物の顔。
歪んだそれは、もう笑っていなかった。
恐怖にひきつり、命の終わりを理解した何かの目だった。
それが脳裏に焼き付き、何度も何度もフラッシュバックする。
動悸が速くなる。手が震える。
(……僕は、これを……)
振り下ろしたナイフの感触。ぬるりと伝わる粘液。
血のようなものが袖口に飛び、手の甲に染み込んでいる。
傷跡から滲み出る、異常な冷たさと温もりが混じり合った何か。
それでも、あのときは止まれなかった。
叩きつけられるような恐怖のなか、理性なんてとうに吹き飛んでいた。
ただ生きたいという必死の本能が、殺すしかないという選択を無理やり押しつけた。
だが今——その化け物の、最後の“目”が、彼の心臓を掴んで離さなかった。
翔は、手の甲を見つめる。
汚れていた。確かに、自分の手が“奪った”のだと、否応なく教えてくる。
「ゴフッ、……ごめん……」
誰に言ったのかも分からない。
化け物にか、それとも、自分自身にか。
ただ、吐き出さずにはいられなかった。
涙が、勝手にあふれ出す。
嗚咽が喉を震わせ、止まらない。
息が詰まるような、ぐちゃぐちゃな感情が胸の内をかき乱していた。
(怖かった……怖かったんだ、本当に……)
ナイフを握る手は、まだ震えている。
血のような液体が跳ねた袖が重く感じる。
全身が、冷えていた。
それでも、熱いものが胸の奥で脈打っていた。
翔は、ゆっくりと目を開いた。
地面に落ちたナイフの隣。
そこに、黒く、異様な光をたたえた石が転がっているのが見えた。
あれは——
翔は、手を伸ばした。
その石は、ひんやりとしていて、掌にぴたりと吸い付くようだった。
そして、そこでようやく——
自分が、確かに“勝った”のだということに気づいた。
(……倒した。僕が、やったんだ……)
逃げ回ってばかりだった自分が。
恐怖に負け、誰にも理解されずに隠れてばかりいた自分が。
自分の意思で立ち向かい、自分の手で、あの“異形”を倒したのだ。
怖かった。今でも震えている。
でも、それでも。
(これは——偶然じゃない)
無我夢中だった。
それでも、初めて、自分の意志で戦い、勝った。
逃げてばかりいた人生に、小さくとも確かな“爪痕”を残せた気がした。
これは、自分の力でつかみ取った——
翔にとって、生まれて初めての、確かな“勝利”だった。