05 揺れた心に気づかないふりをして
作戦を考え終えた翔は、珍しくすぐに眠りについた。
いつもなら、目を閉じた途端に蘇ってくるのは、不気味な気配や追いかけられる足音、そして学校での気まずい空気だった。
授業中に声をあげてしまったことや、教室の片隅で交わされる自分への嘲笑まじりの視線。
布団の中で何度も何度も、思い出しては後悔する日々。
廊下を歩くたびに当てられる視線、教室での嘲笑、目を逸らすクラスメイトたち。
そして——笑いながら迫ってくる化け物の影。
それらが、いつも眠りを妨げていた。
けれど今夜は、違った。
手を伸ばせばすぐ届く場所——枕元に、あの黒いナイフがある。
自分の手で削り、形を整えた、世界にたった一つの武器。
ただの石から、自分の意志で「戦う力」へと変えた。
誰にも頼れず、誰にも見つけてもらえなかったけれど。
それでも、自分は——戦ってきた。たった一人で。
このナイフは、その証だった。
(……バカみたいかもしれないけど)
ほんの小さな、黒曜石のような鈍い光を放つ刃先を思い浮かべながら、翔はそっと目を閉じた。
これを作った時間も、それを握って化け物を倒した感触も、すべてが確かに自分の人生の一部になっていた。
誰にも理解されなくてもいい。
誰も見ていなくてもかまわない。
このナイフだけは、自分のことを「無力じゃない」と教えてくれた。
恐れていたものに対して、どう立ち向かえばいいのかが分かった。
そしてそれを、自分の力で切り拓けるのだと、初めて思えた。
たったそれだけのことが、こんなにも心を軽くするのかと、翔は自分でも驚いていた。
今までで一番、深く眠れた夜だった。
翌日も、翔はいつも通りに学校へ向かった。
勿論、教室に入るのはチャイムが鳴る2分前。
周囲の目は変わらない。
誰かが声をかけてくることもない。
けれど、その静けさに対して、昨日まで感じていたような過剰な怯えや緊張は、なぜか少しだけ和らいでいた。
朝会前、教室の隅でぼんやりと立っていた翔の背後から、明るい声が飛んできた。
「おはよう、真木くん」
翔は一瞬、戸惑ったように視線を動かし、小さな声で「おはよう……」とだけ返す。
「これ、朝会で話す学級日誌のコピーなんだけど……配るの、手伝ってくれる?」
いつものように声をかけてくれたのは、学級委員の女子だった。
肩までの髪をひとつに結んだ真面目そうな眼鏡の少女。
彼女は何かと孤立しがちな翔に対し、目をかけるようにしていた。
けれど翔は、それに気づいていなかった。
翔がなにかやらかした時にも、教師に代わってフォローしてくれていたことが何度かある。
ただ、翔自身はそのことを深く認識していなかった。
委員長が何か言ってくるたび、「また変なやつ扱いされるんだろう」と勝手に決めつけ、適当に返事をして受け流していた。
今日も、そんな感じだった。
「うん……」
ぼそりと返事をして、プリントを配る。それだけ。
誰かと話すという行為が、いまだに慣れない。声を出すだけで、どこか喉が締めつけられるような感覚があった。
けれど、彼女は気にする様子もなく、翔の隣に立ち止まった。
「ねえ、なんか……今日、少し元気そうに見えるけど、何かあった?」
配り終えた翔に、委員長が声をかけた。
その声は、ほんの少しだけ弾んでいて、けれど押しつけがましさはなかった。
心配と好奇心がないまぜになったような、やさしい問いかけ。
翔はわずかに目を逸らすと、口元を引き結び、「いや、……」とだけ返した。
それ以上は何も言わなかった。
(……顔に出てたか)
少しだけ焦った。
昨日の夜、あれほど眠れたのが嬉しくて、気が緩んでいたのかもしれない。
つい、表情が柔らかくなってしまっていたのかも。
「そっか、なんでもないならいいんだけど……」
委員長はそう言いながらも、視線を外さなかった。
彼女の目には、どこか見透かすような色がある。けれど、それは嫌な感じではなくて、むしろ——温かかった。
翔はそれに戸惑った。
今まで誰かが“変化”に気づいてくれることなんて、なかったから。
「元気そう」なんて、そんな言葉を自分に向けられたのは、いつ以来だろう。
(……話すつもりなんてなかったのに)
委員長の気配が遠ざかっていく。
それを見送りながら、翔はそっと自分の胸に手を当てた。
ほんの少しだけ、心が揺れていた。
よく眠れたからだろうか。
恐怖から少し距離を取れたことで、表情が緩んでいたのかもしれない。
でも、学校では、変わってはいけない。
これまで通り、目立たず、注目されず、ただ日常の中に埋もれていること。それだけが、自分の居場所を守る唯一の方法だった。
彼にとって、誰かの善意や関心は、期待しても裏切られるものだった。
だからこそ、無意識のうちに心の距離を置いてしまう。
それでも彼の視界には、教室の後方で自分を見つめる委員長の姿があった。
そのまなざしに気づきながらも、翔は何も言わずに席へと戻った。
授業が終われば、また無言で教室を出て、いつもの帰り道を歩く。
その繰り返しの中で、翔は少しずつ、でも確かに“変化”し始めていた。