03 家じゃないどこかに居場所を求めて
夜がすっかり更けた頃、翔はひとり、黙って玄関の扉を開けた。
ただいまと言うことは、もうとっくにやめた。 返事が返ってきた試しなど、一度もなかったからだ。
翔が今暮らしているのは、母方の遠縁にあたる親戚の家だった。
両親を亡くしてからというもの、翔は幾つもの家を転々としてきた。
最初は「可哀想な子」として引き取られても、生活を共にするうちにすぐに“異常”が浮き彫りになってしまう。
——授業中に突然席を立ち、走って逃げる。
——家の中でも、夜中に叫び声をあげて飛び起きる。
——空間の一点を凝視したかと思えば、背筋を震わせながら逃げようとする。
何度もそういった場面を見た大人たちは、次第に翔のことを「気味の悪い子」と呼ぶようになった。
中には、理解できない行動をする翔に苛立ち、怒鳴りつけたり、手を上げるような家庭もあった。
殴る、蹴る、力づくで従わせようとされた時期もあったが、それで“見えるもの”が消えるわけでもなく、ただ傷が増えるだけだった。
今の家も、例外ではなかった。
ただ、過去の家に比べれば、今の家はまだマシなほうだと翔は思っていた。
少なくとも、ここでは殴られたり怒鳴られたりすることはない。
その代わり——誰からも何も言われない。何も期待されない。
まるで空気のように、そこに“いないもの”として扱われていた。
同じ屋根の下で暮らしているのに、会話は一切ない。
朝に顔を合わせても、挨拶すら交わされない。
目が合いそうになっても、すっと視線を逸らされる。
物音を立てないように、足音を忍ばせて生活する日々。
食事は勝手に用意して食べ、自分の部屋にこもるのが習慣になっていた。
無視されるというのは、決して楽ではなかったが——
それでも、以前のように怒鳴られるよりはずっとマシだった。
今のこの「無関心」という壁の向こうでなら、まだ少しだけ息ができる。
それが、翔の今の生活だった。
この家では、金銭的な支援さえも、極めて無機質だった。
毎月一日の朝になると、玄関の棚の上に一枚だけ、ぽつんと五千円札が置かれている。それが、翔のひと月のすべてだった。
封筒に入っているわけでもなく、無言のままただ置かれるそれを、翔は何も言わずに財布にしまう。
その五千円で食費を賄い、必要な文房具を揃え、シャンプーや洗剤などの生活用品もすべて自分でやりくりしなければならなかった。
電気も水道も使えるとはいえ、人のいない時間帯を見計らって、ひっそりと湯を沸かし、インスタントのカップ麺をすするのが日課だった。
だが、それすらも毎日続ければ財布の中身はすぐに尽きる。
それでも翔がなんとか食いつないでいけたのは、コンビニの“廃棄弁当”のおかげだった。
本当はだめらしい。でも、田舎のコンビニは監視も甘く、夜中にバイトの子が裏に出した廃棄食材を、誰も見ていないタイミングで“もらって”いくのは、暗黙の了解のようになっていた。
消費期限が切れたばかりの弁当やおにぎり、少し水っぽくなったサンドイッチ。
衛生面では不安があったし、気持ちのいい行為ではなかったが、それでも翔にはありがたい食事だった。
誰にも頼れず、援助もないこの暮らしで、食えるかどうかは命に直結する問題だったから。
足りなくなっても、誰も助けてはくれない。
だから翔は、自分でなんとかするしかなかった。
家にいる“家族”に頼るという選択肢は、最初から存在していない。
翔に許されているのは、自室と風呂とトイレだけ。
リビングや台所には自分以外の人間がいる限り入らないようにするという暗黙のルールがあり、翔自身も踏み込まないよう心がけていた。
自分で冷蔵庫を開けることも、棚の中を探ることも、まるで罪悪のように思えていた。
それが、この家での“自分の立ち位置”だと、翔は自然と理解していたからだ。
この家で誰かに「おかえり」と言われたことも、「ご飯にする?」と聞かれたこともない。
同じ空間にいながら、まるで別世界に生きているかのような距離。
居場所はあるのに、存在していないような感覚。
誰にも必要とされていない——。
翔は、ここでもまた、そんな風に扱われていた。
靴を脱ぎ、音を立てないように廊下を歩き、自室に入る。
鍵をかけ、カーテンを閉め、照明を最小限にしてから、翔は机に向かった。
——この一連の動作は、もはや完全に身体に染みついていた。
毎日、同じようにして部屋に入り、同じようにして静かに過ごす。
普段なら、そのまま溜息混じりに鞄から教科書を取り出し、無意味と知りつつ宿題をやって、ベッドに転がる。
眠れるわけでもなく、目を閉じても浮かんでくるのは昼間の気まずさと、あの“何か”に追われた記憶ばかりだった。
そんな、変わり映えのない夜。
——けれど、今日は違った。
黒く光る“あの石”がある。
見たこともない、不思議な力を秘めた石。
2匹の化け物が残していった、2つの黒く輝く結晶だった。
恐る恐る手に取り、じっと見つめる。
光沢のある黒。片方にはかすかに赤い筋、もう片方にはかすかに黄色い筋が表面を走っていて、まるで血管のようだ。
ごつごつとした不規則な形で、見る角度によって内部の輝きが揺れる。
とても自然にできたとは思えない。
まるで意志があるかのような、そんな不気味さがあった。
もし、これからも化け物と戦うことになるのなら—— このごつごつした形じゃ、うまく殴れないかもしれない。
持ちやすくて、狙いやすくて、殺しやすい形にできたら。 ……加工できたら、どれだけ楽だろう。
いや、自分でも……できるかもしれない。
「……加工、できるのか?」
翔は少し考えてから、机の上に置いた石に視線を落とした。
ただの石でも、ペンなどで削れるはずがない。
そんなこと、分かっていた。となると何で削ればいいのか。
そっと部屋を出て、音を立てぬように玄関を開ける。
夜の空気は冷たく、外の世界はしんと静まり返っている。
翔は民家の塀のそばに積まれた砂利の中から、手頃な大きさの石を拾い上げた。
(これなら、試せるかもしれない)
家の中では音が響いてしまう。だから、翔はそのまま裏手の空き地へ足を運んだ。
薄明かりの中、しゃがみこんで、黒い石と普通の石をそっと重ねる。
そして、ゆっくりと力を込めて擦り合わせてみた。
——ガツン。
鈍い音が響いたが、黒い石にはまったく傷がつかなかった。
何度か試してみたが、削れる様子は一向にない。
それどころか、翔が拾ったただの石の方が、ミシッと軋んだ音を立ててひび割れた。
「……っ」
石には、傷ひとつついていない。
まるで何かに守られているかのように、美しく光り輝いていた。
ただ硬いだけではない、ひんやりとした存在感があって、ちょっとやそっとでは壊れそうにない特別な“核”のようにも感じられた。
その冷たい質感だけが、指先にじんと残っていた。
(……じゃあ、同じ石同士なら)
ふと、翔の脳裏に昔読んだ雑学の一節が浮かんだ。
(……ダイヤモンドを削るにはダイヤモンドでしか削れないってどこかで聞いたことがある)
この石がそれほどのものなら、同じ石で試してみるしかない。
机の上に置いたもう一つの石を手に取る。 そして、そっと端と端を合わせるようにして、力を加えて擦り合わせてみた。
——キィィィ……
乾いた、金属を削るような音。 黒い粉のようなものが、ほんのわずかだが落ちてきた。
何度か繰り返すうちに、石の角が微かに丸くなっていくのがわかった。
(……できる。少しずつなら、削れる)
普通の道具では到底歯が立たない。
だが、同じ化け物の石同士で削ることで、ほんの少しずつ形を整えられるという事実は、翔にとって何よりも喜ばしいことだった。
自分にしか見えないもの、自分にしか触れられないもの。
だからこそ、自分の手でこの事象を扱えるようになるだけで、大嫌いだった世界が、いつも私に牙を向けていただけの世界がほんの少し好きになれた気がした。
いつも化け物に追われ、逃げ回ることで無駄に体力を使っているくせに、月に五千円しかもらえない生活ではろくに食べることもできない。
コンビニで廃棄の弁当をもらって、空腹を満たし、すぐに布団に倒れ込む——そんな日々を繰り返し。
だけど、もしかしたらこれからは、化け物に怯えて逃げるだけの生活じゃなくなるかもしれない。
そんな希望を胸に、翔は目の前の“石”をじっと見つめる。
今、自分が何かを“調べている”というこの感覚だけが、心をほんの少し軽くしてくれていた。
未知、恐怖、憎悪の対象でしかなかったものが、少しずつ“理解できるもの”に変わっていく。
それは、孤独な少年にとって、初めて感じた小さな希望だった。