02 恐怖の背中を殴りつけて
(……ああ、また今日も、何事もなく帰れたらいいんだけど)
教室を出るその瞬間、翔の心には、いつものように淡い不安がよぎっていた。
翔がこの中学校に入学して、すでに一年と数ヶ月が過ぎていた。
今は二年生。けれど、状況はまるで変わっていない。
教室に入れば、必ず少し遠巻きにされる。
話しかけてくる生徒は稀で、必要最低限の会話が交わされるだけ。
誰かが意図していじめてくるわけではない。
ただ、「関わると面倒そう」という無言の圧力が、クラス全体に漂っていた。
授業中も、休み時間も、帰り道も——
まるでそこに“いない”かのように扱われるその感覚に、翔はもう慣れてしまっていた。
(慣れる、ってのも……情けない話だけどな)
そんな日々の繰り返しに、翔は何の期待も抱かなくなっていた。
今日もまた、誰ともろくに話さず、誰にも必要とされずに終わる一日。
そしてそのまま、何事もなく、無事に家まで帰れたら——
それだけで、十分だった。
だが、この日の放課後は違っていた。
翔の帰り道は、学校から家まで十五分ほどの緩やかな坂道を下った先にある。基本的には両脇には田んぼが広がり、夕暮れには薄紅の光が水面を揺らす。けれど今日の空は雲に覆われ、薄暗さだけが足早に迫ってくる。
舗装の剥がれかけたアスファルトの道を歩きながら、翔は何度も背後を気にした。人気のないこの道では、どこから“あれ”が現れてもおかしくない。
電柱の影が伸び、風が吹くたびに木々がざわりと鳴く。
(……来ないよな、今日は)
そう思っても、不安は消えなかった。靴音がコツコツと響くたびに、誰かに尾行されているような錯覚すら覚える。
いつもと同じ、けれど決して気を抜けないその道を、翔はゆっくりと歩いていた。
夜の校舎に似た、しんとした静けさが辺りを支配していた。遠くの街灯の明かりすら届かぬ、山あいの村。木々は闇に飲まれ、その影がどこまでも伸びている。
人の気配が消えた集落の裏手、山のふもとの細道を、ひとりの少年が歩いていた。夕方の空気は冷たく、葉擦れの音すら耳に痛いほど静まり返っている。
「......ああ、もう本当に、最悪だ」
今日もまた、それが見えていた。
——来ないで、と願えば願うほど、得てしてそういうものは引き寄せられてしまうのだ。
この世界には、理不尽という名の重力がある。
空間が揺れ、まるで空気が泡立つような音を立てながら、“それ”は姿を現した。
形容しがたい異形。口は耳元まで裂け、三つの目がぬるりと動く。背からは黒い霧のようなものがもくもくと噴き出し、空間を侵食するかのように漂っている。その姿は、まるで悪夢が現実に滲み出したかのようだった。
けらけらと、女のような声で化け物が笑った。山々に囲まれた土地には似つかわしくない甲高い不協和音が、木霊のように反響する。
翔は背筋を凍らせ、すぐさま細道を駆け出した。
見える者は、化け物にとってからかいの的なのかもしれないし、あるいはごちそうなのかもしれない。理由は分からない。ただひとつ確かなのは、見えるというだけで化け物に狙われるということだった。
誰かに話したこともある。でも返ってきたのは「気のせい」「夢でも見たんじゃないか」そんな言葉ばかりだった。気味悪がられ、遠巻きにされたことで、翔は“見える”ということを誰にも話さなくなってからもう何年にもなる。
走りながら、翔は息を切らして振り返る。化け物は木々の間をするりと滑るように追ってくるが、どこか警戒しているようでもあった。何かを嗅ぎ分けるように、時折木の幹に爪を立てては足を止める。
(いつも通りに撒ければ……曲がり角を三回、急斜面を抜けて違う小道に出れば……)
これまでだって何度も逃げてきた。体力では人間の方が上だ。走り回れば化け物は諦める。そう思っていた。
しかし——森の奥から、異なる足音が響いた。
化け物のものとは異なる、低く濁った気配。次の瞬間、もう一体の化け物が横道から出てきた。
(うそだろ……なんでこんな時に……!)
翔の脳裏に、言いようのない絶望がよぎる。
(最悪だ......命日だ……ただでさえ一体でもやっとなのに……どうして……)
膝が震える。息が詰まり、鼓動だけが耳の中でやかましく鳴っていた。
(いつもなら逃げきれる。撒ける道も覚えてる……でも、二体なんて……こんなの、無理だ)
かすかに震えながらも、翔は逃げ道を探して視線を走らせた。
けれど頭の奥には、既に「このままじゃ終わりだ」という諦めが忍び込んでいた。
化け物同士は互いを見つめ合い、けらけらと、互いを嘲るように笑った。
そして——咆哮とともに激しくぶつかり合った。
(……やり合ってる?)
驚きに足が止まる。
(うそだろ……化け物同士が……戦ってる?)
これまで、化け物に追われた経験なら何度もあった。だが、それは常に一体だけだった。
挟み撃ちされたことなど一度もなかったし、ましてや化け物同士が争う姿など想像すらしたことがなかった。
(こんなこと……ありえるのか?)
混乱と驚きが脳を支配する中、翔は目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。
混乱と驚きが脳を支配する中、翔は目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。
目の前で、化け物と化け物が、まるで獣のように咆哮を上げながら激突する。
片方は背丈が低く、鋭い爪と機敏な動きで相手の周囲を跳ね回る。もう片方は体躯が自分と同じくらい大きく、どっしりとした足取りで一歩一歩地面を踏み鳴らしながら、鋭い牙で相手を噛み砕こうとしていた。
唸り声が木々を震わせ、ぶつかる度に両者から黒い体液が噴き出す。裂かれた木の皮が宙を舞い、土が抉れ、暗い森の静寂が喧騒に変わっていく。
俊敏な動きをしていた背丈の低い化け物は素早く背後を取り、大きな化け物の喉元へ爪を突き立てた。咆哮とともに首筋を裂かれ、黒い体液をまき散らしながら大きな方の化け物が倒れ伏す。
勝者は唸るような低い息を吐きながら、その場に立ち尽くした。次の瞬間、敗れた化け物の胸元から、ぽとりと黒く輝く石が転がり落ちた。
小さな、異様な光を放つ化け物石。
勝者の化け物がその石に手を伸ばした瞬間——バチン、と閃光が走り、化け物の手が弾かれた。
化け物自身はその石に触れられないらしい。
(なんだ、あれ……?)
翔は目を見開いた。黒く輝く石。さっきの化け物の体から転がり出たそれは、まるで生きているかのように、不気味な光を放っている。
(……石? いや、でも、あの化け物が……落とした?)
訳が分からない。だけど、その光景は確かに目の前で起きた。
そして、その石に別の化け物が触れようとした瞬間、激しい光が走って弾かれた。
(……触れなかった? なら、あれは……)
一つの可能性が翔の脳裏をかすめる。
(まさか……いや、そんなはず……でも——)
ごくりと唾を飲む。
(あれを使えば……戦えるんじゃないか?)
翔は息を潜め、足音を殺して、じりじりと負けた化け物が落とした石へと近づいた。
化け物は、背中をこちらに向けたまま、どこか苛立った様子で地面を這うように歩き回っている。
黒い霧を揺らしながら、鼻先をひくつかせ、何かを探すように首を左右に動かしていた。
確実に自分を探している。だが、翔の気配にはまだ気づいていない——そう確信できた。
化け物が石から意識を離し、見当違いのところを見ている隙に石にそっと手を伸ばす。
化け物が落とした石は、まるで氷のように冷たく、だというのに肌に吸い付くような奇妙な感触だった。
別の化け物が触れなかったのもあり、もしかしたら触れることが出来ないかもと思ったが無事触ることが出来、安心する。
その石のあまりの冷たさに一瞬、指がこわばるも、それでも、翔は躊躇わなかった。
このチャンスを逃せば、もう二度と、こんな好機は訪れない。
咄嗟に翔は、化け物の石を振りかぶった。
そして、渾身の力で、自分を見失っている化け物の背後から叩きつける——!
「ギャァアアアアアァァァ!!」
化け物が叫んだ。
その叫びは耳の奥に突き刺さるほど鋭く、そして、どこか恐怖を滲ませた声だった。
が、翔にはそれがまるで聞こえていなかった。
目の前が真っ白だった。
ただ、腕を振る。
自分の手が動いている。それ以外のことが何一つとして認識できない。
衝撃と共に手のひらに伝わる鈍い感触。
骨を砕くような、肉を叩くような重くて粘っこい手応えが、腕の奥まで響いてくる。
それでも——止まれなかった。
何も考えず、ただ本能のままに、恐怖のままに、叫びたい気持ちを押し殺して、ひたすら腕を振る。
目の前の“それ”を、壊れるまで、止めを刺すまで。
叩く。叩く。叩く。
ただ生きるために。
ただ、もう二度と追いかけられたくないと願って。
ようやく、全身の力が抜けたときには、化け物は動かなくなっていた。
鈍い音。化け物がぐらりと揺れ、膝をつき、そして崩れた。 まるで壊れた人形のように。
心臓が喉元で脈打つ。脚が震える。
化け物が、自分の手で倒れた。 その現実を、すぐには信じられなかった。
足元に崩れ落ちたその異形が、本当に動かなくなったのを見て、ようやく実感がじわじわと湧いてきた。
(……僕が、倒した?)
震える手を見つめる。石はまだ、冷たいままだった。
(僕が、あの化け物を……? 本当に?)
信じられない。けれど、目の前の現実はそれを否応なく突きつけてくる。
胸の奥から熱いものが湧き上がってくる。それは恐怖ではなく、確かな「実感」だった。
それでも翔の中には、はっきりとしたひとつの感情が芽生えていた。
——勝てる。
この手で、“それ”を倒せる。
誰にも頼れなかった。誰にも信じてもらえなかった。
どれだけ叫んでも、訴えても、返ってくるのは白けた目と気味悪がる声だけだった。
朝が来るのが怖くて、夜が来るのも怖くて、眠ることさえできない日がいくつもあった。
ずっと、ずっと、心の奥底で泣きながら耐えてきた。
それでも、誰かに助けを求めることができなかった。
もう、こんな生活からサヨナラできるかもしれない——そんな淡い期待が、心の奥に灯った。
これからは、自分の力で日常を取り戻せるかもしれない。
この武器で——。
その夜、少年は確かに“狩る者”になった。