01 孤独という雨に僕は濡れている
朝の教室には、いつものざわめきと、どこか湿ったような、ざらついた空気が満ちていた。
チャイムが鳴る、二分前。
生徒たちの会話がちょうど盛り上がりきった頃。
そんな微妙なタイミングで、真木 翔は静かに教室の扉を引いた。
ガラリ、と音がする。
一瞬、会話が止まる。
その間はほんの数秒だったかもしれないが、翔にはそれがやけに長く感じられた。
何人かの視線が、ちらりと翔へ向けられる。
そのどれもが、“確認”するような冷ややかなものだった。
別に、声をかけられるわけではない。
あからさまに避けられるわけでもない。
けれど、その空気の“ズレ”は確かにあった。
(……また、だ)
翔はその反応に、もう慣れていた。
わざと早すぎず、遅すぎないタイミングで教室に入るのも、その空気を最小限に抑えるためだった。
もし始業チャイムよりも前に教室に入ってしまえば、すでに集まっている生徒たちの輪にぶつかって、目立ってしまう。
遅れていけば、それはそれで「サボったんじゃないのか」「なにやってんだろうね」と陰でこそこそと言われる。
だから、ギリギリ。
自分の存在が波紋を広げない、ぎりぎりのタイミングを、翔は自然と選んでいた。
それでも、教室の空気は変わる。
さっきまで笑っていたグループの声が一段トーンを落とし、色んな方向に向いていた顔が一斉に黒板の方へと戻る。
(どうせ、僕が入ってきたせいだ)
翔は誰とも目を合わせず、自分の席へと向かう。
視線を感じる。
誰かの囁きが背中越しに聞こえる。
それは幻聴かもしれない。けれど翔には、そんな風にしか感じられなかった。
「おい、またアイツ、変なこと言ってたらしいぞ」
「く、くるなーー!!!って言って走ってたらしいぜ。 はは、マジウケる」
笑い声は控えめで、翔には届かないように押し殺したつもりなのだろうが、聞こえないはずがない。
翔の席は、教室の一番後ろ、窓際。まるで追いやられるようにして、その場所に座っている。
直接話しかけてくる者はいない。だが、確かに自分に向けられている視線があった。
斜め後ろから、前方から、横から。わざと目を合わせないようにしているその目線のすべてが、痛いほど刺さってくる。
まるでガラス越しの動物を見るような、“人ではない何か”を見るような、恐怖と嫌悪が滲んだ視線だった。
——真木翔。十四歳。中学二年。
彼には、人には見えないものが、見える。
最初は、それが“特別”だと思っていた。
子どもの頃に読んだ物語の中のように、自分だけが見える世界には、何か大きな意味があるのだと、そう思っていた。
だから、誰かに話せば助けてくれると信じていた。
——でも、違った。
「ねぇ、あんまり翔くんに話しかけないほうがいいよ。変なものが“うつる”かもしれないし」
ふと耳に入ったその言葉は、今でも心の奥に突き刺さっている。
何の悪気もなさそうな声で、それでいて決定的な線引きをするように、あっさりと。
それは、子どもが無邪気に言った言葉だったかもしれない。
けれど翔にとっては、“人間関係の終わり”を告げる音のように聞こえた。
小学生の頃は、それが原因で、もっと露骨だった。
「呪われる」「気持ち悪い夢を見た」「アイツを見たあと、おばあちゃんが倒れたんだって」
根も葉もない噂は、子どもたちの中であっという間に真実のように広まった。
教室では無視され、机には「ちかづくな」「死ね」と油性ペンで書かれた落書き。
消しゴムはなくなり、ランドセルの中にはカビの生えたパンが突っ込まれていた。
上履きは水浸し。雨が降ってもいないのに靴の中が濡れているのが当たり前になっていった。
笑顔で近づいてきたかと思えば、突然奇声をあげて逃げる子もいた。
何が起きてるのか分からず、翔がぽつりと「校庭に白いうねうねしたものが」と口にすれば、その場にいた全員が一歩、二歩と後ずさり、まるで病原体のように見る目が変わった。
先生に相談したこともあった。震える声で「いじめられてます」と訴えた。けれど返ってきたのは、
先生に相談したこともあった。勇気を振り絞って、「いじめられてます」と声に出した。でも、返ってきたのは、どこか事務的で、少しだけ苛立ちの混じった声だった。
「気のせいだよ。みんな、まだ子どもなんだし、悪気があってやってるわけじゃないから」
その言葉に、翔は思わず顔を上げたが、先生はプリントをまとめる手を止めなかった。視線を合わせようともしない。
「翔くんも、もう少し頑張って友達を作ってみようか」
その口調には、うんざりしたような響きが混じっていた。まるで、「またか」とでも言いたげに。
無理もないのかもしれない。授業中に突然立ち上がって「化け物がいる」と叫び、教室を飛び出す。けれど、それ以外の勉強や生活態度には特に問題はなく、特別支援学級に入れるには中途半端すぎる。
教師としても扱いに困る存在。腫れ物に触るように、関わることそのものを避けようとしているのが、子どもだった翔にもわかった。
——ああ、この人も、僕を“普通じゃないもの”として見てるんだ。
その日を境に、翔は先生に助けを求めることをやめた。
それからも、教室の窓の外に“黒い何か”が浮かんでいると、どうしても目で追ってしまう。それを周りの人は、「気味が悪い」「怖い」と言った。
通学路でもそうだった。誰も気に留めない方向をひとり凝視していれば、「変なやつ」と笑われた。
けれど、それはただ見えているだけじゃなかった。
“それ”は、翔の視線に反応するようにこちらへ向かってきた。
見えてしまう者を、異怪は追う。それが、奴らの“習性”なのだと後に知ることになるが、小学生の翔にとってはただただ理不尽な恐怖だった。
黒い塊のようなものが、うねりながら飛んでくる。教室の窓越しに、通学路の電柱の上に、公園のブランコの奥に、どこからともなく現れては、翔だけを見て、追いかけてくる。
誰にも見えていない。だから誰も助けてくれない。
ただ翔ひとりが、息を切らし、全力で逃げるしかなかった。
走る。走って、走って、ただ逃げる。
理由も説明もない。後ろを振り返れば、そこには人間の形をしていない“何か”が、ケタケタと笑いながら追いすがってくる。
恐怖に喉が詰まり、叫びたくても声にならず、足がもつれて転びそうになりながら、それでも必死に逃げた。
家に帰っても、気は休まらなかった。家の玄関の隙間から覗いてくる眼。風呂場の窓に張りついている影。
それが何なのかもわからないまま、逃げ続けなければならなかった。
じゃあ、黙っていようと思っても、“それ”は、日常の隙間に現れ続けた。
気づかないふりをしようとすればするほど、自分だけが“世界から浮いている”感覚が強くなっていった。
放課後の帰り道、ランドセルを背負ったまま、公園の隅にうずくまり、涙をこらえた。
泣いたら、もっと狙われるような気がして、誰にも見られないように、声も出せずに、震えながら。
普通の子どもなら、笑って友達と遊んでいるはずの時間。
けれど翔は、そのすべての瞬間で、“生き延びること”だけを考えていた。
「どうして僕にだけ、こんな化け物が見えるんだよ……」
見えなければ、普通に笑えたかもしれない。
見えなければ、誰かと友達になれたかもしれない。
見えなければ——
寝ても覚めても、ただその願いだけが心の中に残っていた。
中学に上がってから、翔は変わった。
——いや、変わらざるを得なかった。
住んでいた地域が変わったことで、中学はまったく別の学区。
小学生の頃に顔を合わせていた同級生たちは誰ひとりおらず、まるで知らない世界にひとり放り込まれたような感覚だった。
(今度こそ、うまくやれるかもしれない……)
そう思っていた。
小学生の頃は、化け物が見えると話してしまったことで“気味が悪い”と言われ、いじめられた。
でも、今度の学校には、過去を知る人がいない。
新しい環境、新しいクラス、新しい人間関係。
もしかしたら——そんな期待が、なかったわけじゃなかった。
けれど、それもすぐに打ち砕かれた。
あれが見えるということ、見えると“分かる”ということ。
それ自体が、やはり日常ではなかったのだ。
何もしていなくても、あの黒い影を目で追ってしまったり、無意識に背筋をこわばらせてしまったり——
そんな“違和感”は、言葉にしなくても、周囲に伝わってしまう。
「真木くんって、なんかいつもそわそわしてない?」 「急に教室から出てったりするし……」
そんな声が囁かれるようになったのは、入学してひと月も経たないうちだった。
翔は、悟った。
——ここでも、同じだ。
だからこそ、翔はほとんど口を開かなくなった。
自分から誰かに話しかけることはしなかったし、目立つような行動もしないよう努めた。
「見える」なんてことを言えば、どうせまた奇異の目で見られる。
気味悪がられて、遠ざけられて——
それなら、最初から何も言わなければいい。誰にも何も、期待しなければいい。
……もちろん、まったく誰にも気にかけられなかったわけじゃない。
最初の頃は、ほんの少しだけ、声をかけてくれた子もいた。優しい言葉で、さりげなく輪の中に入れてくれようとした子も、いたのだ。
けれど——翔には、その気遣いすら、どうしていいのか分からなかった。
「ありがとう」と返せばいいのか。「大丈夫」と言えばよかったのか。
普通の会話の“当たり前”すら、わからなかった。
小学校時代、ほとんど人と関わることなく過ごしてきた翔にとって、「心を開く」という行為は、あまりにも難しすぎた。
それでも、笑ってくれた子がいた。
けれど、自分のせいでその子まで変な目で見られるかもしれないと思うと、怖くなった。
だから、自分からそっと距離を取った。
優しさを突き返すように、わざとそっけない態度を取った。
——そうすれば、いずれ誰も近づいてこなくなる。
それでいい。心が削れないようにするための、自分なりの防衛だった。
けれど、それは同時に、誰かの優しさを遠ざける行為でもあった。
誰とも深く関わらなければ、何も壊さずに済む。友達なんてできなくてもいい。ただ穏便に過ごせればそれで——
そう、自分に言い聞かせていた。
けれど、“それ”は昼夜を問わず現れる。
道端、公園、電車の中。ひどい時には、授業中に教室の窓の外に現れた。
巨大な顔と無数の眼を持つ何かが、笑いながら、窓の外から自分を見下ろしている——。
恐怖に耐えきれず、翔は叫び声をあげ、教室を飛び出してしまった。
それ以来、翔の周囲には再び無言の壁ができた。
「授業中に奇声を発するやばいやつ」「いきなり走り出す変なやつ」
誰かが率先していじめるわけではなかった。
ただ、みんなが「距離を置く」という選択をしただけだった。
“普通”でいることが一番大事な中学という場所で、「異質な存在」とされることは、ある意味“透明人間”よりも孤独だった。
——見える。
けれど、その“見える”世界は誰とも共有できない。
誰も信じてくれなかった。誰も、そばにいてはくれなかった。
だから翔は、いつからか“見える”ことを誰にも話さなくなった。
話したところで、どうせ——否定される。
話せばまた、孤立する。
だったら最初から、“自分だけの現実”として抱えていた方がマシだと、思った。