第1話 友情と婚約者
「ふふ…婚約者がいるのにいいの?」
「君と過ごす濃密な時間の方が楽しいよ」
「じゃあ、もっと濃密に過ごしましょうよ。んん…っ」
舌を絡ませる唾液の音。
荒くなる互いの息遣い。
喘ぐ女性の上で、激しく身体を上下させている…
私の婚約者―――
(…な、何…これ…っ!!!)
私は足が地面に縫い付けられたかのように、その場を動けなかった。
◇◇◇◇
私はボルサ伯爵家のカシリーナ。
17になる月に婚約が決まった。
お相手はトール・バーニン伯爵令息。
私はいち早く、友人のヴィオランテ子爵令息のエリオに報告した。
「エリオっ 私、婚約が決まったの!」
「そうなんだ、よかったなっ おめでとう!」
エリオは中等学院からの付き合い。
男性だけど、同性の友人たちと過ごすよりも心安い。
同い年だけど初めて会った時は私より背が低くて、声変わりもまだだったからかわいかったな。
今もその感覚が続いている。
そんな彼に、婚約が決まった事を一番に報告した。
「次はエリオねっ」
「20歳になるまでに決まればいいんだから、何も焦る必要はないだろ?」
そう…昔は幼少期から婚約を取り決める貴族が多かったけれど、昨今は成人年齢である20歳までに決まれば良い風潮が強まっている。
けれど、その考えはあくまでも男性側。
女性側としては、高等学院を卒業するまでには婚約している状態でありたいと考える人が多い。
いわゆる、“売れ残り”になるのが怖いのだ。
未だに、女性は結婚して、子を産む事が当たり前という時代錯誤な考えが根強く残っているから。
それに女性が1人で生きていくには今の世の中、そうそう簡単な事ではないしね。
そんな世間の風潮に反発を覚えながらも、特別な能力も特技もなく、容姿も栗色のストレート髪に榛色の瞳といういたって平々凡々な私は、やはり結婚する事を一番に考えていた。
周りが次々と婚約が決まる光景に焦りを覚えていた時、ふいに舞い込んだバーニン伯爵令息との婚約に即決。
これで体裁を保つ事ができた…と、肩の荷が下りた気がした。
「エリオならすぐに決まりそうだもんね」
エリオは、ヴィオランテ子爵家の跡取り。
黒曜石のように艶やかな長い黒髪をひとつに束ね、瞳は澄み切った海の色。
高かった声は、いつの間にか大人の男性になり、身長は私の背より頭2個分くらいに成長している。
中等学院3年の頃から、令嬢たちのエリオを見る目が変わって来た。
高等学院に入学してからは、結構令嬢たちの視線を感じるようになる。
本人は全くもって、意に介していないけれど。
「俺の事より…相手、どんなやつなの?」
「あ、バーニン伯爵家のご令息よ。同じ学院で年齢は一つ上の3年生。ウエーブがかった金髪に菫色の瞳で素敵な方っ」
「…バーニン伯爵家…」
「詳しい事はお店でゆっくり話そうっ」
今日は帰りに新しくできたカフェに行く予定だった。
放課後、2人並んで校門へ向かうとそこには婚約者のバーニン伯爵令息が立っていた。
「ト、トール様っ?」
私はあわてて彼に駆け寄った。
「君を待っていたんだ、送ろうと思ってね。父上から君と交流するように言われていたし」
「そ、そうですか」
「…そちらの彼は?」
「あ、中等学院からの友人で…」
「ヴィオランテ子爵家のエリオと申します」
「ああ…子爵家…ね、ふっ。僕はバーニン伯爵家の嫡男トールだ、よろしく」
そう言うと、トール様がエリオへ手を差し出す。
エリオはその手を、黙って握り返した。
何だか…不穏な空気を感じたのは私だけだろうか…
「じゃあ、俺こっちだから」
「えっ、あ、また明日…」
エリオは気を遣って、その場を立ち去って行った。
一緒にカフェに行く約束だったのに…
「今後、彼との付き合いはやめてもらえるかな」
馬車に乗り込むなり、そう言い出したトール様の言葉に私は驚いた。
「え…っ!? で、でもエリオは中等学院からの友人なんですっ 疚しい事は決してありません!」
「けど、男だろ? 未婚の男女が二人きりで出かけたり、行動するのは非常識だと思うよ。それに君は僕と婚約したんだよ? 僕以外の男と関わらないようにする事は当然じゃないかな。君だって僕が他の女性と二人で過ごしたら気分が良くないだろ?」
「…そ、それはそうですが…」
中等学院の頃からエリオと二人でよく出掛けていたから、そんな事考えた事もなかった。
確かにトール様の言う事は、いちいちもっともだわ。
だけど…何か…言い方が…
そう、さっき校門での会話も彼の言い方にはトゲがあった。
それに…エリオは大切な友達なのに。
その後、何か会話をしたと思うけど上の空で聞いていた。
婚約者ってこういうものなの…?
貴族同士は両家の利益の為とは分かっているけれど、何だかこの方の物言いや考え方がやけに引っかかる。
エリオとはそんな事、一度もなかった…
婚約を取り交わした当初は、体裁を保てた事で気分も高揚していた。
けれど、実際トール様と関わるようになって、私は一抹の不安を覚え始めている。
それからはトール様の言葉が頭に残り、エリオと距離を置くようになってしまった。彼の言い分も一理あると思ったからだ。
かといってトール様と過ごすようになったかと言えばそうでもない。
一緒に帰った日から三週間ほど経ったけど、二人で会ったのは二回だけ。
今思えば校門で待っていたのも、伯爵様に言われてきたような事を言っていたし。
そういえばこの間、裏庭でトール様が女生徒と一緒にいるところを目撃した。
同級生かもしれないし、うるさく言いたくはないけれど…人にはエリオとの付き合いに口出ししたくせに、自分はいいの?
何だかモヤモヤする…
「はー…このまま結婚して上手くやっていけるのかしら…」
一人でぶつぶつ言いながら廊下を歩いていると頭の上から声がした。
「どうした? 暗い顔して!」
「エリオ!」
私は見上げながら、彼の名を呼んだ。
久しぶりの会話。
何だか、何年も会っていなかった気分だ。
トール様の事を相談したかった。
けど彼が言った言葉が頭の中を過った。
“未婚の男女が二人で出かけたり、行動するのは非常識だと思うよ”
もしかして…婚約した私といる事で、将来エリオの縁談に問題が生じる事になるかも…
そんな迷惑かけられないわっ
「な、何でもないっ じゃ、じゃあねっ」
「待ったっ」
エリオは、その場を去ろうとした私の腕を掴んだ。
「なんで俺を避けんの? 婚約者になんか言われたんだろ?」
「〜〜ッ!」
どうしてエリオには分かってしまうんだろう。
「…トール様が…エリオとの付き合いをやめて欲しいって…未婚の男女が二人で行動するのは非常識だって…っ 悔しいけど…一理あると思うの…。それに私と一緒にいる事で、これからの貴方の縁談に問題が生じたら申し訳ないわ…」
「他の奴の言葉なんてどうでもいいよ。大事なのはお前の気持ちだろ? お前が俺と関わりたくないって言うなら別だけど…」
「そんな事思っていないっ!」
「カシリーナ…」
「思うわけないじゃない…っ」
なんだか泣きそうな気持ちになった。
「だったら、それでいいじゃんっ なっ」
そういうとエリオは、ポンッと私の頭に軽く手を乗せた。
いつものエリオの笑顔にホッとする。
「……うん」
やっぱり、エリオといると安心する。
婚約者がトール様じゃなくて、エリオだったら………って!!
や、やだ! 私、何考えているの!?
パパパパパン!!
私は思わず両手で自分の頬を叩いた。
「…何やってんの?」
呆れた顔で私を見るエリオ。
「あはは…」
ここは笑うしかない。
「…まあ、そんな心配もなくなるから」
「え? 何て言ったの?」
ぼそりと言ったエリオの言葉がよく聞こえなかったので聞き返したが、その答えは聞けなかった。
「待たせたね、ヴィオランテ君」
生活指導主任のブランビ教師の声に遮られたからだ。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
そう言ったエリオの顔がどこか楽しげに見えたのは…見間違いかな…?
それにしても、生活指導主任がなぜエリオに?
「…な、何? 何かあったの?」
エリオが問題を起こしたとは思わないけど…でも…まさか…
「いや実は――――…」