8.お隣さん
夜、夕食を終えて洗い物に手を付け始めていた頃合いになって玄関のチャイムが鳴った。
(あれ? インターホン鳴ったっけ?)
新居のワンルームマンションはオートロック方式で、エントランスには各室と連絡を取り合う為にインターホンも設置されている。
今宵、拾蔵はそのインターホン越しに誰とも会話した記憶が無い。当然、エントランスのドアを解錠した記憶も無かった。
にも関わらず、玄関のチャイムが鳴った。
もしかすると、他部屋への配達を済ませた宅配業者が、ついでにその足で拾蔵宅を訪れたのだろうか。それならば十分にあり得る話だった。
「はいはい、今出ますよ」
玄関の向こうに居る相手に呼び掛けながら、拾蔵は少し重量のある玄関扉を押し開いた。
そしてその瞬間、その場に凝り固まってしまった。
廊下に佇んでいたのは、琴音だった。
しかも何故か、凄まじくラフな部屋着姿で。
「……あれ? 雪祭さん? 今日はお越しになられるって話は聞いてませんでしたけど……っていうか、そもそも俺の新居の住所、教えましたっけ?」
「えっとね、驚かないで欲しいんだけど……実は私も、ここに住むことになったの。部屋は拾蔵君のお隣」
再びその場で硬直した拾蔵。
琴音の言葉を正確に理解するのに、数秒を要した。
しかし、嘘はついていないらしい。事実彼女はほぼすっぴんに近い薄化粧で、しかもだぼだぼのスウェット上下というラフな部屋着だ。
かつて一緒にカフェや高級洋食店へ足を運んだ際の、あの清楚な外出着姿とはまるで雲泥の差であった。
「私もついさっき、お隣が拾蔵君の部屋だって知ったのよ。ほら、一階の共同郵便受けのところ。あそこで笠貫って名前が貼ってあるのに気付いて、まさかーって思っちゃった」
何故か嬉しそうに、によによと笑う琴音。
そういえば昨日一昨日と、やけに隣が騒がしかった。廊下やエレベーターにも養生テープが貼ってあったから引っ越し業者が出入りしているのだと推測していたのだが、それがまさか琴音の引っ越しだったとは。
こればかりは流石に拾蔵としても完璧な想定外だった。
「いやぁ……こういうこともあるんですね」
「うん、ホント、こういうことってあるんだなぁって思っちゃった」
しかし何故、こんな中途半端な時期に引っ越してきたのだろうか。以前琴音の部屋を訪れた際に抱いた感想としては、特に退去しなければならない様な古いマンションでも無かった筈なのだが。
「あぁそれね……ちょっと面倒臭い話になるんだけど」
曰く、前のマンション付近にストーカーが続出して、周辺住民の間でも問題になっていたのだとか。
この話を聞いた瞬間、拾蔵は内心でああ成程と納得した。
そのストーカー共を近隣住民の目に付く形で炙り出してやったのが、拾蔵自身だったからだ。周辺防犯カメラの映像から連中の姿を抜き出し、それらを幾つかのSNSに立て続けに、連続的にアップし続けた結果、奴らの存在が明るみに出たのだ。
「それでもう、気持ち悪くなっちゃって。あんなとこにはもう住んでられないって怖くなったから、近場で新しいのを探したら、見つかったのがここだったって訳」
拾蔵は納得した顔つきを見せながら、内心で乾いた笑いを漏らした。
琴音が引っ越しを余儀無くされた原因を作り出したのが、他でも無く拾蔵自身だった。
尤も、あの炙り出し自体には後悔はしていない。
ストーカーの存在を暴き出して事件化を未然に防いだのだから、それ自体は大いに意味のある結果だと思っている。
ただ少しばかり、余計な引っ越し費用を琴音に強いてしまったのが申し訳無かった。
勿論、そんなことはおくびにも出せない。下手にばらしてしまえば、拾蔵のハッカーとしての立場が露見する危険性があった。これだけは口が裂けてもいえなかった。
「それでまぁ、折角だからご挨拶に、って思った訳」
「ああそれは態々どうも御丁寧にありがとうございます」
拾蔵は素直に頭を下げた。
以前のマンションでは隣近所付き合いというのは皆無だった拾蔵だが、今後は琴音というお隣さんが居る。
積極的に交流する必要は無いだろうが、顔見知りが隣の住民だというのは、それだけで気が楽になるひとつの材料となるだろう。
と、ここで琴音がコンビニのレジ袋を掲げた。
「それでね、さっきそこでざる蕎麦買って来たんだけど、良かったら一緒に引っ越し蕎麦なんて、どう?」
拾蔵は一瞬考えた。
つい先程、夕食を終えたばかりなのだ。が、胃袋にはまだ若干の余裕がある。
折角の申し入れを、にべも無く断る必要も無いだろう。
「ほんなら遠慮無く、お呼ばれしますわ……どうぞ、上がって下さい。今、お茶用意します」
「わぁい、ありがと~。お邪魔しま~す」
やけに上機嫌で上がり込んでくる琴音。部屋の構造自体は彼女の自室と同じだから、特段目新しいものがある訳でもない筈なのだが。
「すみません、生憎ですけど俺未成年なので、お酒は置いてないです」
「いやぁん、んもう、分かってるわよォ、そんなことはぁ」
琴音は恥ずかしそうに全身でくねくねしている。恐らく、あのべろんべろんに酔っ払って拾蔵に介抱されながら帰宅した時のことを思い出しているのだろう。
ともあれ、リビングのベッド脇に据えたちゃぶ台で、コンビニざる蕎麦を仲良く並べたふたり。
拾蔵が湯飲みに熱いお茶を注いでいる間、琴音は興味津々の様子で室内をぐるりと見渡していた。
「へぇ~、やっぱり男の子ねぇ。同じ部屋構造でも、私のところとは家具の位置とか置いてある物とか、色々違うなぁ」
「多分、女子的な可愛げは無いでしょうね」
拾蔵は苦笑しながら、蕎麦をすすり始めた。