7.戻せない時間
最近、妙な視線を感じる様になった。
授業中はそれらしい気配は無いのだが、休み時間中や登下校の際には、誰かにじっと注視されていることが多くなった様な気がする。
勿論、単なる思い過ごしかも知れない。
だがこの視線の質には何となく、既視感があった。
(まさか……あいつちゃうやろな)
嫌な予感が脳裏に漂う。
だが、どうしても不安が拭えない。長年染みついたあの時の感覚が、再び蘇ってくる。
それはかつて、隣り同士ということで一緒によく遊んだ、大の仲良しの友達から投げかけられてきた甘ったるい視線。
そしてそれは、一年以上前に消えた筈だった――最悪な裏切りという形で。
(けど可能性としては、あり得ない話でもないわな)
そう、あいつは同じ高校に通っている。
今はもう完全に決別したから、偶に校内で顔を合わせることがあっても、目を合わせることすら一切無い。
それでも、嫌な感じは拭えなかった。
矢張りこの視線は、あいつではないのか、と。
実際、悪い予感程よく的中するという。今回も同じ類のものかも知れない。だからひとつ手を打ちながら、相手の動きを待った。
(まぁ仮にあいつやったとしても、話すことなんて何も無いけどな)
拾蔵は己の中に湧き起こってきた奇妙な感情を、意思の力で消し去った。今更未練など欠片も無い。偶々幼い頃に隣り同士で、偶々同じ時間を長く過ごしただけの相手だ。
この期に及んで何を期待することがあろう。
そうして嫌な視線を浴びてもやもやした気分が拭えない日が何日か続いた或る日、遂に事は起きた。
自らに警鐘を鳴らしながら、終業のチャイムと同時に新居への帰路に就いた拾蔵。
ところが正門を出たところで、その忌まわしい影が目の前に立ちはだかっていた。
「あ……」
聞き慣れた声、懐かしい顔立ち。だがそれらはいずれも、単なる忌まわしい記憶に過ぎない。
今、視線の先に佇んでいるのはかつて恋人だったという過去の存在だ。
神山明菜――二度と関わるまいと決めた、最悪の女がそこに居た。いささか落ち込んだ様子で目線を僅かに逸らしているその仕草は、昔よく見せた、困りごとを抱えている時の癖だった。
明菜はしばし視線を彷徨わせていたが、やがて拾蔵の面を捉えると、はにかんだ笑みを浮かべた。
「その……久し、振り……」
しかし拾蔵は一切無視して、その傍らを通り過ぎようとした。
すると明菜は咄嗟に振り返り、拾蔵の肩に手を添えてきた。
その瞬間、拾蔵は自身の腕を撥ね上げて、明菜の細くて華奢な手を弾き飛ばした。
「そんな……駄目、なの……?」
「当たり前やろ。何眠たいこと抜かしとんねん」
馬鹿馬鹿しいにも程がある。拾蔵は歩を一切緩めずにそのまま立ち去ろうとした。
すると明菜は泣き顔のまま正面に廻り込んできて、再度立ちはだかった。
「ねぇ、どうして駄目なのよ! あ、あたし達、あんなに仲良かったじゃない!」
「おぅ、仲良かったよな。そんでその仲の良かった相手を手酷く裏切ったクソビッチですね、貴女は」
明菜の表情が、凍り付いた。いい返す言葉も出て来ないのだろう。
だがこれは、事実だ。
幼馴染みだった明菜は高校入学前に、拾蔵からの告白にOKの返事を返した。
にも関わらず彼女は、半年もしないうちに他所の高校の上級生と浮気した挙句、裸で体を重ね合う光景をこれ見よがしに拾蔵の前で繰り広げた。
あの時の侮蔑の眼差し、馬鹿にした笑み、キモいからさっさと死ねと呟いた暴言の数々は今でも鮮明に、拾蔵の記憶の中に残っている。
それを今更無かったことにして欲しいなどとは、どの口がいっているのか。
「俺な、あん時の動画、残しとんねんで。後でお前らがどうこういうてきた時に全部黙らせたろう思てな。それでもまだ、そんなデカい口叩けんのか?」
その瞬間、明菜の面からさぁっと血の気が引いてゆく様子が伺えた。
まさか、あの寝取られの場面を拾蔵が録画していたなどとは、思ってもみなかったのだろう。あの時明菜は確かに、目と言葉と体の動きで執拗に拾蔵を攻撃した。それらが全て映像として残っている。
あれ程に完璧な証拠能力を持つ裏切りのエビデンスは、他には無いだろう。
途端に、明菜の全身がぶるぶると震え出した。こんな筈では無かったのにという恐怖が湧き起こっているのかも知れない。
そして拾蔵は、何故今更になって明菜が接触を図ってきたのか――その理由を知っていた。
彼女からの視線を感じ始めた頃から、明菜の彼氏である他校の上級生について、二日程時間をかけてじっくり調べ上げたのだ。
そこで得た結論はずばり、またもや浮気だった。今度は明菜が、浮気される側だった。
否、そもそもその他校の上級生は最初から明菜をキープ扱い程度にしか考えていなかったらしい。彼には別に本命が居ることを、拾蔵は既に把握していた。
そして明菜も最近になって漸く、その事実に気付いた。信じたくはなかっただろうが、そう認識せざるを得ない状況へと陥っていた。
だから今になって、かつての恋人のもとに駆け込んできて復縁を迫ろうと考えたのだろう。
しかし拾蔵には最早、明菜への想いなど欠片も残っていなかった。
「ねぇ……あたし達、本当にもう……駄目、なのかな」
「そうですね、神山さん。絶対不可能です」
拾蔵は敢えて他人行儀で通した。こんな女に親しくしてやる義理など、微塵にも感じていなかった。
「もう……あきっぺ、って呼んでくれないんだ……」
「さぁ、どこのどなたの話でしょうな」
それだけいい置いて、今度こそ拾蔵は明菜の横を通り過ぎていった。
その背後で明菜は膝から崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。そんな彼女の涙など、拾蔵の心には何ひとつ響かない。
後悔先に立たず、とはよくいったものである。
そしてこの時、何故か拾蔵の脳裏には明るい色合いのミディアムボブが風に揺れる、見目麗しい女子大生の笑顔が浮かんだ。
今までも、そしてこれからも大抵の女はクソ認定してゆくことだろう。
しかし明菜と完全なる決別を経た今、琴音への想いの中に、それまでとは異なる感情が芽生え始めていたことを、拾蔵はまだ理解していなかった。