19.やっと分かった正体
その後も拾蔵はクラスの女子達から必死の逃亡を繰り返しつつ、何とか一日を終えることが出来た。
特に玖瑠美の猛追は凄まじいものがあったが、身体能力と情報戦ならば拾蔵に利がある。
素人の女子高生が取り得る追跡方法などたかが知れているから、六時間目を終える頃には誰も拾蔵の逃走速度に付いてくることが出来なくなっていた。
そうしてワンルームマンションの自室に帰り着いた時には、クラスの女子共を撒き切る方策があらかた完成したこともあり、いつもより機嫌良く夕食の準備に取り掛かることが出来た。
ところがそれも、長くは続かなかった。
隣室の琴音から若干深刻そうな内容のSNSメッセージが届いたのである。
現在、彼女の部屋には友人で同じゼミの女子大生が訪問しているらしい。その友人女性の為に、拾蔵の知恵を貸して貰えないかという打診だった。
(琴音さんのお友達なんやったら、無視する訳にもいかんわな)
拾蔵は調理を一旦中断し、失礼にならない程度に服装を整えて隣室の琴音を訪ねた。
「わぁ~、来た来た! 来てくれたんだね、拾蔵君!」
「琴音さんからの御指名やったら、断れませんて」
ハイテンションの琴音に出迎えられ、拾蔵は苦笑を返しながら室内へ上がり込んだ。
「紹介するね。私と同じ大学でゼミも一緒の、柳沢美奈貴さん」
「柳沢です。どうぞ宜しく……」
一瞬拾蔵は、美奈貴の大人しくて清楚な雰囲気に内心で身構えてしまった。琴音とは心理的な壁は何ひとつ感じなくなっているが、矢張り彼女以外の女性を前にするとどうしても、防衛本能が働いてしまう。
しかし不思議なことに、琴音が同席していると従来の警戒心は然程には働かなくなっていた。多少の違和感は覚えるものの、殊更に敵意が湧いてくることも無く、普通に接することが出来そうな相手だった。
自己紹介を終えてからこたつに席を与えられた拾蔵は、何があったのかをまず訊いた。
「ほら、こないだ私、マッチングアプリのこと話したでしょ? 実はこの子が、そのマッチングアプリを使ってて……」
拾蔵は美奈貴の端正な顔立ちをじぃっと眺めた。
大人しそうな印象で、化粧もどちらかといえば薄い方だ。服装も暗色をベースにした落ち着いたデザインのものを着用しており、派手な男遊びに興じるタイプには見えなかった。
その美奈貴が、とあるマッチングアプリで出会った男性と真剣な交際を考えているのだが、どうもそのマッチングアプリ内では件の男性の良からぬ噂が出回っており、それが本当なのかどうか、今ひとつ判断に困っているのだという。
そこで琴音が、拾蔵の豊富なネットワーク知識やアプリ周りの知見を頼ってみてはどうかと提案した、ということらしい。
成程、と内心で頷き返した拾蔵。
玖瑠美の件もそうだが、琴音は何かと世話好きな女性だ。そうでなければ、拾蔵の為に見返り無しで色々としてくれることもなかっただろう。
「その男性の顔写真とかあります? 良かったら、ちょっと拝見させて貰いたいんですが」
拾蔵が問いかけると、美奈貴は特段躊躇う様子も見せず、自身のスマートフォンを差し出してきた。
そこに、例のマッチングアプリに登録されているひとりの男性のプロフィール画面が表示されていた。
そしてその画面を目にした瞬間、拾蔵は思わず、喉の奥であっと声を漏らした。
「どしたの? 拾蔵君の知り合い?」
「えぇまぁ……柳沢さん、悪いことはいいません。この男はやめといた方が無難です」
プロフィール画面には、徳谷敦という名が表示されている。琴音も美奈貴も、拾蔵がやめておけといい放った理由を求めて、揃って視線を投げかけてきていた。
拾蔵の脳裏に、あの時の地獄絵図が蘇る。だが、もう終わったことだ。決別を果たした今、何を恐れる必要があるだろう。
それに今は、美奈貴の問題解決の為に琴音の部屋を訪れているのだ。己のことなど、二の次で良い。
腹を括った拾蔵は、ひとつ大きく深呼吸してから更に言葉を繋いだ。
「こいつは色んな女性に、同時に手を出してます。俺が高校入学前に付き合い始めた幼馴染みにも、手ぇ出してました」
その瞬間、琴音の美貌が驚きと、そして申し訳無さが滲む愕然とした色に染まっていた。
美奈貴は事情が分からない為、不安げな様子で拾蔵と琴音の顔を何度も見比べるばかりである。
琴音は掌で口元を抑えたまま、今にも泣き出しそうな表情で拾蔵の無感動な面をじっと見つめた。
「ご……御免なさい、拾蔵君……私、そんなこと、全然、知らなかったものだから……」
「いやいや、そんな気にせんで下さいって。こんな偶然、普通中々起きませんから」
涙目になり始めている琴音に、拾蔵は努めて明るい笑みを返した。
未だに事情が分かっていない美奈貴はどう対応して良いのか分からない様子で、ただ困惑するばかりである。そこで拾蔵は、自身と幼馴染みとの間に起きた悲劇について説明した。
余り深刻な空気にはしたくなかった拾蔵は、出来るだけ詳細を省きつつ掻い摘んで説明する程度にとどめたのだが、それでもその間の琴音の表情はただただ暗く、視線を落として唇を噛み締めていた。
「そんなことが……あったんですか」
拾蔵の説明を聞き終えて、美奈貴も絶句した。流石にそんな男相手では、彼女の淡い恋心も一瞬で消し飛んだ様子だった。
「まぁそんな訳なんで、やめといた方が無難です」
このひと言で、決着に至った。
◆ ◇ ◆
美奈貴が帰った後、琴音は拾蔵にもう一度、頭を下げた。
「御免ね、拾蔵君……嫌な思い出だったのに」
「思い出っちゅうか、ついこないだ、その幼馴染みが今更復縁を迫ってきたりしたんで、まだ記憶的には鮮度抜群なんですけどね」
冗談めかしていったつもりだったが、そんな拾蔵に、琴音がいつになく真剣な表情でにじり寄ってきて、どういうことなのかと問いかけてきた。
拾蔵は過日、神山明菜が徳谷敦に浮気されたことを切っ掛けに、復縁を迫ってきたことを簡単に説明した。
琴音は涙目になりつつ、全身を小刻みに震わせていた。
「どうして……そんな酷いことをしておきながら、のこのこと……」
「昔っからですよ、それは」
拾蔵はまるで何事も無かった風に、努めて平静な口調で答えた。
「あいつは外面が良くて、周りからは凄いエエ子やって褒められとったんですけど、その反動か、俺の前ではいつも我儘で自己中で、おまけにKYでした。けど俺も、そんなあいつの言動を全部許してたもんですから、あいつん中での俺は、何をしても許される奴、ってな具合になってたんでしょうね」
それ故、平気で浮気もしたし、当たり前の様に復縁を迫ってきたりもしたのだろう。
自己中ここに極まれり、といって良い。
「けど俺が許してやれるのは友達として、身内としてのあいつであって、他所の男のモンになった以上は、もう一切容赦するつもりはありませんでした」
だから復縁を迫られた時も、ばっさり斬り捨てたと拾蔵は肩を竦めた。
するといきなり、琴音が更に身を寄せてきて拾蔵の頑健な体躯をぎゅうっと抱き締めた。
これが他の女なら嫌悪感しか湧いてこなかったが、この時は違った。
不思議な安心感が拾蔵の心を支配した。
(あぁ、だから俺は、このひとが嫌いではなくなったんやな)
今まで不思議に思っていた、琴音への親近感の正体を、拾蔵はやっと理解した。
琴音は、拾蔵から初めて明菜に依る裏切りの話を聞いた時、心の底から本気で怒ってくれた。あの時から、拾蔵は少しずつ琴音への嫌悪感が薄らいでいったのを思い出した。
今や、琴音は拾蔵の本当の姉の様な存在となっていた。同じ女性でも、親族や家族に対してならば普通に接することが出来るのだが、琴音に対しても同じ感覚が根付いていたのだろう。
自分のことを心から本気で心配してくれる女性を、母親であり、姉であり、家族と認識したのだ。
それが、拾蔵があの地獄の様な失恋を経験して以降、初めて実感した女性への安心感の正体だった。