18.尻を描く女
この日の拾蔵は、一部のクラスメイト女子達との熾烈なイニシアティブ合戦に終始した。
(ちょっとでも隙見せてもうたら、こら一瞬で殺られてまうぞ……!)
各時間毎の授業の終鈴が鳴ると同時に、速攻で寝たふりに突入し、誰も近づくなアピールを徹底して貫いた拾蔵。話しかけられようが何されようが、兎に角寝たふりで押し通した。
昼休みになると、矢張り女子達が席を立つよりも早く教室を飛び出し、行方をくらませた。一昨々日までこんなことに神経を使うことは無かったのに、一体どこで何が狂ったのか。
(いや……おかしいやろ。どう考えてもおかしいやろ)
玖瑠美達が実は北朝鮮からの諜報員で、政府のサイバーセキュリティに協力しているマインドシェイドのメンバーをひとりずつ抹殺しているのではないか。
そうでも考えないと、説明がつかない。
ところが、敵はクラスの女子だけではなかった。
「やぁ笠貫君、ちょっとお話させて貰えないかな?」
「よぅ笠貫! 聞いたぞ! お前本当は凄い奴だったんだってな!」
「なぁミスター笠貫! うちに来てくれれば間違い無くレギュラー確約出来るよ!」
などと、拾蔵の姿を探し当てた野郎連中が次々と声をかけてくる。
どうやら拾蔵の胡桃を割る握力が一部の体育会系のクラブに知れ渡ったらしく、あの強靭なパワーならばきっと身体能力も素晴らしい筈だという一方的な思考で拾蔵を勧誘しようとする者達が現れたのだ。
が、もうあと半年もしないうちに三年生に進級するこの時期から、今更部活に入ることなど考えたくも無かった。
そもそもマインドシェイド所属のハッカーとしての仕事がある。ハッキング依頼を受けた場合、放課後は一刻も早く帰宅せねばならぬというのに、校内に残って余計な時間を費やす訳にはいかない。
(ひとの噂も七十五日とかいうとるけど、今の俺に七十五日は長いわぁ)
裏庭に離脱を図り、第一校舎裏のひと気の少ない用具倉庫前に避難してきたところで、漸くひと息ついた。
昼休みが終わるまでは、ここで暫く時間を潰しておこう――そんなことを考えながらコンビニのレジ袋に手を突っ込む。今日の昼食は握り飯と菓子パンだった。
陰になる箇所が多いこの場所は季節柄、結構な寒さだ。しかし筋肉量が多く、平熱がひとより高い拾蔵にとっては、この程度の寒さは然程の苦にはならない。逆に女子共は、こういうところは苦手だろう。
この用具倉庫前を当分の退避場所に据えた上で、今後のことをゆっくり考えるしかない――拾蔵は菓子パンをむしゃむしゃと頬張りながら、何度も深い溜息を漏らした。
ところが、昼食を取り終えてそろそろ移動しようかと周りに警戒の視線を走らせた拾蔵の鼓膜に、妙な物音が響いてきた。
誰かがこのすぐ近くで、紙にペンを走らせている様な気配だった。
ふと校舎の角から中庭方面に続く壁際を覗くと、ひとりの女子生徒が大きく開いたノートに何かを描いている姿が見えた。
どんなものを描いているのか何となく興味が湧いてきた拾蔵は、そっと忍び寄って、彼女の頭越しに視線を落としてみた。
その女子生徒が一心にペン先を走らせて描きつつあったのは、尻をこちらに向けてポーズを取っている美少女のイラストだった。恐ろしくエロティックで、それでいて美しさが際立っている。
(へぇ……上手いモンやなぁ……けどこの手の絵って、野郎が好みそうなモンやけど)
しかし実際に手を動かしているのは、どう見ても女子だ。女装している男子、ではない。
と、ここで拾蔵はそのイラストに何となく既視感を覚えた。どこかで見たことがある様な気がした。
そして、思い出した。
(あれ……このイラスト、北岡さんが好きやいうてた、ケツ山ゴン太郎の絵とそっくりちゃうの)
否、そっくりどころか本人が描いたとしか思えない程に、そのまんまだ。
ハッカー集団『マインドシェイド』には多くの優秀な技術者が集っているが、そのうちのひとり、北岡洋一には何人かの推しイラストレーターが居る。
そのうちのひとりが、リアルでセクシーな女性の美尻に定評のある、ケツ山ゴン太郎なるイラストレーターだった。
拾蔵も何度か見せて貰ったことがあり、その美しさとインパクトには感心した記憶がある。
その同じ絵柄のイラストを今、目の前の女子生徒がすらすらと慣れた手つきで描いているのだから、驚くなという方が無理だろう。
やがてその女子生徒は、頭上後方から覗き込んでいる拾蔵の気配に気づいたらしく、物凄くびっくりした顔で振り向いた。
この女子生徒の顔にも、見覚えがあった。
拾蔵の同級生、夏樹和香だ。彼女はクラスでは余り目立たない方だが、結構顔立ちは良い方である。化粧を施し、髪型にも手を入れれば男子の間で相当に人気が出るのではないだろうか。
その和香が、あわあわと狼狽しながら拾蔵の長身を見上げている。小柄な彼女は、その慌てぶりだけを見ているとまるで小動物の様な印象を思わせた。
「かかかか笠貫君? い、いつからそこに居たの?」
「あぁ、俺の名前、知ってるんや……」
拾蔵は和香が己の名を覚えていたことの方に軽い驚きを覚えた。
それは兎も角、和香の慌てぶりは少し尋常ではない。先程まで開いていた大判のノートを速攻で閉じて、傍らのトートバッグの中に放り込んでいた。
そんな彼女に拾蔵は、相手が女子という嫌悪すべき存在であることも忘れて問いかけた。
「さっきの絵、ケツ山ゴン太郎ってひとのに、よう似てるな」
「……え? 笠貫君、知ってるの?」
問い返された拾蔵は、知り合いにケツ山ゴン太郎の大ファンが居る旨を答えた。
するとどういう訳か、和香は顔を真っ赤に上気させながら乾いた笑いを漏らしつつ、しかし微妙に嬉しそうな表情を浮かべていた。
「あ~……ははは、そ、そうなんだ……ファンの方がいらっしゃって、くれたんだ……ふぅん……」
明らかに挙動不審な反応だったが、それが何に起因しているのかは拾蔵には分からない。
ただ彼女は、拾蔵が後ろから絵を盗み見たことに対しては何もいわず、凄まじくぎこちない不自然な態度で、渡り廊下方面へと去っていった。右手と右脚が同時に出てしまう様な、ぎくしゃくした歩き方だった。
この時、拾蔵はピンと来た。
もしかすると――和香がケツ山ゴン太郎本人なのかも知れない。
(せやけど……女子が使うハンドルネームが、ケツ山ゴン太郎て……)
そのギャップが余りに凄過ぎた為、それ以降思考が停止してしまった。